9.不干渉の終焉と、甘い調律
屋敷を濡らし続けていた雨がようやく上がり、庭園からは濡れた土と腐りかけた花の匂いが混じり合って漂っていた。
だが、そんな外界の空気など、この重厚な石造りの寝室には無縁のものだ。
「…………閣下。少々、問題が」
朝の執務の合間、クラリスがいつになく困惑した表情で現れた。
彼女の背後では、二人の下級メイドが震えながら、新品の衣装を乗せたトレイを捧げ持っている。
「なんだ。リリアの衣装の調整か?」
俺は書類から目を離さずに問うた。
リリアは現在、俺の足元で、数日前に教えた「従属」という文字を羊皮紙にひたすら書き連ねている。その指先はまだ包帯に巻かれているが、彼女はその痛みすらも俺との「繋がり」であるかのように、愛おしそうにペンを握っていた。
「いえ……。調整以前の問題でございます。その……リリアが、私以外のメイドの接触を、頑なに拒んでおりまして。……いえ、『拒む』というよりは、もはや……」
「殺そうとしたんです! 櫛を向けただけで、あの女、牙を剥いて……っ!」
トレイを持っていたメイドの一人が、耐えきれずに悲鳴のような声を上げた。
俺はそこで初めて、ペンを置いた。
視線を下ろすと、リリアがペンを止めて、メイドたちを――自分以外の人間すべてを、ゴミ溜めのネズミでも見るような、冷たくて鋭い眼差しで射抜いていた。
彼女にとって、俺と、俺が許可したクラリス以外の人間は、もはや「人間」ですらない。自分の所有物である俺の空間を汚す、不純物でしかないのだ。
「……リリア。俺はメンテナンスを受けろと言ったはずだ」
俺の低い声が響くと、リリアの殺気が一瞬で霧散した。
彼女は、まるで叱られた子犬のように肩を縮め、金色の瞳を潤ませて俺を見上げてくる。
「……ご主人、さま。……汚い、手が、……触れるの、いや。……あの方たちの、匂い……。ご主人さまの、匂い……消えちゃう、から……」
(……は?)
一瞬、脳内が真っ白になった。
何を言っているんだ、こいつは。
俺の匂いが消える? 自分の体に染み付いた、俺の、この死と冷気の匂いが、他のメイドが触れることで薄まるのが嫌だと言っているのか?
狂っている。
理解の範疇を超えている。
だが、その生理的な恐怖を、俺は即座に「合理」という名の、最も強固な防壁で遮断した。
(――非効率の極みだ。メイドごときに怯えて衣装の更新が遅れるなど、俺の死の舞台のビジュアルプランが崩れるではないか)
俺は大きく溜息をつき、椅子から立ち上がった。
「下がれ、無能ども。……これだから、安い給金で雇った平民は使い物にならん」
「……閣下?」
クラリスが、怪訝そうに俺を見つめる。
「クラリス、お前もだ。……こいつの毛並みを見ろ。連日の雨と湿度で、銀狼族特有の油分が変質している。これを素人の手に任せて、万が一にも皮膚疾患でも起こしてみろ。……俺の最高の終焉において、リリアの肌が荒れているなど、あってはならん芸術的欠陥だ」
「…………」
クラリスは、もはや何も言わなかった。
「メイドに触られるのが嫌だ」というリリアの我儘に対し、この主人は、それを叱るのではなく、「メイドは下手くそだから、俺がやった方がマシだ」という、前代未聞の飛躍した理屈で肯定しようとしている。
「リリア。……立て」
俺は、机の引き出しから、最高級の椿油と、魔力を帯びた銀製のブラシを取り出した。
これは本来、俺自身の髪を整えるためのものだ。……いや、かつてのレインがそうしていただけで、俺は一度も自分で使ったことはないのだが。
リリアは、期待と悦楽に震えながら、俺の前に跪いた。
「…………あぁ」
俺が彼女の背後に回り、その銀金の髪に指を差し入れた瞬間。
リリアの喉から、甘く、壊れたような鳴き声が漏れた。
俺の指が、彼女のうなじに触れる。
(……熱いな)
人間のそれよりも高い、狼の血を引く者の体温。
それを指先に感じた瞬間、俺の脳内で「ノイズ」が激しく火花を散らした。
触れてはいけない。こんな汚れた奴隷の体に、俺のような高貴な存在が、直に触れるなど。
(――不潔だ。だが、手袋越しでは毛質の微細な変化を感知できん。部品の現状把握には、接触による触診が不可欠だ。……これは、診断だ)
俺は、自分でも呆れるほど詳細な後付けの理屈を並べ立てながら、彼女の髪にブラシを通し始めた。
さらり、と。
泥にまみれていたのが嘘のように、銀色の糸が俺の指の間をすり抜けていく。
俺は一滴の油を指に取り、彼女の毛先に、そして耳の付け根に、丁寧に塗り込んでいった。
「…………っ、……はぁ、……ご主人、さま……」
リリアは、俺の膝に顔を埋め、うっとりと目を閉じている。
彼女は、俺が自分を「磨いている」ことを、魂の奥底で受け入れていた。
ブラッシングの刺激。俺の指が皮膚をなぞる感覚。
それは、彼女にとって、全身の細胞一つ一つに「レイン・ヴァルディアの所有印」を刻印されているのと同義だった。
「……動くな。毛根にダメージが入るだろうが」
俺は冷たく突き放す言葉を投げかけながらも、その手つきは、自分でも信じられないほど繊細で、丁寧だった。
もし、この様子を外の人間が見れば、愛し合う恋人同士、あるいは溺愛するペットを愛でる飼い主に見えただろう。
だが、俺の心にあるのは、ただ一つの歪んだ目的だけだ。
(……よし。これで光沢が三割増した。処刑台の上で、朝日を浴びたこの髪が俺の返り血で赤く染まる瞬間。……それは、この世の何よりも美しい絵画になるはずだ)
俺は、己の死を完成させるための「作業」に陶酔していた。
その過程で、自分の指が彼女の肌の熱に侵食され、自分の匂いが彼女に上書きされていることなど、微塵も気づかずに。
一時間後。
「調律」を終えたリリアは、もはや神話に登場する精霊のような神々しさを纏っていた。
銀金の髪は絹のように輝き、肌には真珠のような光沢が戻っている。
だが、その神々しさとは裏腹に、彼女が俺を見る目は、底なしの沼のように暗く、歪んでいた。
「……完璧だ。これでお前の価値は維持された」
俺はブラシを置き、手についた油をこれ見よがしにハンカチで拭った。
「下がれ。……鏡でも見て、自分の不気味さを自覚しておくんだな」
「…………はい。……ご主人、さま」
リリアは深く、深く頭を下げた。
彼女にとって、鏡を見る必要などなかった。
自分の体の中に、あの方の指の熱が残っている。
あの方の匂いが、他の誰にも邪魔されないほど深く、全身に塗り込められた。
それだけで、彼女の世界は完成していた。
(……汚い手は、もう、いらない。……あの方だけ。……あの方の手だけが、私に触れていい……)
リリアの尻尾が、俺の足元で静かに、そして激しく揺れている。
彼女は、俺が「効率」という言葉の裏に隠した、あまりにも過保護で独占的な行動の本質を、本能だけで理解し、飲み込んでいた。
その様子を、トレイを片付けながら見ていたクラリスが、静かに口を開いた。
「……閣下。ご自身でそこまでなさるとは。……メイドたちの失職も時間の問題かもしれませんね」
「……ふん。無能を養うほど、ヴァルディア公爵家は慈悲深くはない」
俺は書類に戻りながら、吐き捨てるように言った。
クラリスは、そんな主人の横顔を見つめ、そっと視線を伏せた。
彼女の瞳には、冷徹な計算ではない、もっとドロドロとした歓喜が宿っていた。
(……ご自身の髪すら一度も整えたことのない貴方が。……他人の髪を一時間もかけて、指を油で汚しながら、一筋の乱れもなく整える。……ええ、効率ですね、閣下)
クラリスは、自分の心臓が、この異常な主従の関係性に当てられて、早鐘を打っているのを感じていた。
主人は、自分が少女を「飼い慣らしている」と思っている。
少女は、自分が「救われている」と思っている。
だが、クラリスの目には、二人がお互いの首を絞め合いながら、地獄の底へと、一歩、また一歩と仲良く歩みを進めているようにしか見えなかった。
(……美しい。……なんて醜くて、美しい関係……)
クラリスは、トレイを抱きしめる手に力を込めた。
彼女もまた、この「毒」の完成を待ち望む、立派な共犯者だった。
屋敷を囲む雨雲は去った。
だが、この閉鎖空間に染み付いた「毒」は、陽光に晒されることのないまま、より濃密に、より致死的な濃度へと成長し続けていた。




