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8.不純物の排除と、美しい檻

雨は、三日三晩降り続いていた。

公爵邸の執務室には、分厚い雲に遮られて陽光が届かず、昼間であっても魔石のランプが冷たい光を放っている。

俺は机に向かい、領地の税収報告書に目を通していた。


暖炉ではパチパチと薪が爆ぜる音がし、部屋の空気は乾燥して温かい。

俺の足元、すなわち机の下の狭い空間には、シルクの紐でソファの脚に繋がれたリリアが丸まっている。

彼女は言葉を覚え始めてから、より一層「静か」になった。


獣のような威嚇は消え、代わりに、俺の呼吸音や衣擦れの音を、一つ残らず数え上げるような、執拗で粘着質な静寂を身につけていた。

コン、と。

控えめなノックの後、執務室の扉が開いた。

入ってきたのはクラリスではない。まだ十代半ばほどの、そばかすのある新米のメイドだった。名を、ニーナと言ったか。


「し、失礼いたします……閣下。暖炉の、薪の補充に……」


ニーナは、声も膝もガタガタと震わせていた。

無理もない。かつてのレイン・ヴァルディアは、機嫌が悪いというだけの理由で、薪を持ってきたメイドを暖炉の火に押し付けたことがある。彼女にとって、この部屋は処刑場と同じだ。


「……早くしろ。視界をうろちょろするな」


俺が書類から目を離さずに冷たく言い放つと、ニーナは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、這うようにして暖炉へと向かった。

彼女は震える手で薪を足し、火かき棒で灰を整える。

その作業中、彼女のメイド服の裾が、俺がソファに無造作に脱ぎ捨てていた『漆黒のコート』に、ほんのわずかに――本当に、数ミリだけ触れた。


「あ、も、申し訳ございませ――」


ニーナが青ざめて謝罪の言葉を口にしようとした、その瞬間だった。

俺の足元で、空気が爆ぜた。


「――っ」


声はなかった。

ただ、圧倒的なまでの「殺意」だけが、音もなく空気を切り裂いた。

机の下で丸まっていたリリアが、シルクの紐の限界距離ギリギリまで跳躍していた。

彼女の右手には、俺の机の上に置いてあった、鋭利な銀のペーパーナイフが握られている。

狙いは、ニーナの頸動脈。

躊躇も、警告もない。

彼女の金色の瞳には、「あの方の所有物を汚した不純物」を、ただ物理的に切除するという、純粋で無機質な処理命令だけが点灯していた。


「ひっ!?」


ニーナが床に尻餅をつく。

銀の刃が、彼女の細い首筋に届く――その、わずか数ミリ手前。

ガキッ!!

鈍い音が、執務室に響いた。

俺の右手が、リリアの手首を空中で鷲掴みにしていた。

ペーパーナイフの切っ先は、ニーナの喉仏の薄皮一枚手前で完全に静止している。


「…………」


リリアが、空中で俺を振り返る。

その瞳は、獲物を横取りされた獣の不満ではない。

「なぜ、ゴミの掃除を止めるのですか」という、純粋な疑問だった。


(……何をしている、俺は)


俺の脳内で、冷徹な計算機が一瞬だけエラーを吐いた。

俺は今、手元の書類から目を離し、椅子から腰を浮かせ、魔力による身体強化まで使って、リリアの腕を『物理的』に止めた。

なぜだ?

ただのメイド一人が殺されるだけだ。代わりなどいくらでもいる。

わざわざ俺が直接手を下して止める必要など、どこにもない。

もし止めるにしても、言葉で命じるか、軽い魔力で弾き飛ばせば済む話だ。

なのに俺は。

リリアの手が、このくだらないメイドの返り血で汚れるのを防ぐように。

リリアの体が、殺しの反動でバランスを崩さないように。

無意識のうちに、最も彼女に負担のかからない『直接の接触』を選んでいた。


(――非効率だ。著しく、非効率だ)


俺は即座に、己の行動の矛盾を、強引な理屈で上書きした。


「……何の真似だ、リリア」


俺は、氷点下の声で静かに紡いだ。

リリアの体が、空中でびくりと震える。


「俺は、俺の許可なく壊すなと言ったはずだ。……そのメイドは、この屋敷の備品だ。お前が勝手に処分していい権限など与えていない」


「……っ、ぁ、……でも」


リリアの唇が震える。

『あの方の服が、汚されたから』。

その言葉すらも、俺の視線を前にしては言い訳にならないと悟ったのだろう。


「それに」


俺はリリアの手首からペーパーナイフを奪い取り、床に放り投げた。


「こんな鈍らで首を裂けば、血が飛散する。……このペルシャ絨毯がいくらするか知っているか。東大陸の職人が三年かけて織り上げたものだ。お前たちの安い血で、この芸術品を汚すな」


「…………ぁ」


俺はリリアの手首を乱暴に振り払い、床にへたり込んでいるニーナを見下ろした。


「消えろ。二度と俺の部屋の掃除に入るな。……次、俺のコートに触れれば、お前のその腕を暖炉に放り込む」


「ひっ、ひぃぃっ! も、申し訳ございませ、あ、あああ!」


ニーナは腰を抜かしたまま、四つん這いで後ずさり、半狂乱で執務室から逃げ出していった。

バタン、と重厚な扉が閉まり、再び部屋に重苦しい静寂が戻る。

俺はハンカチを取り出し、リリアの腕を掴んだ右手を、これ見よがしに拭い始めた。


「……全く。安い血の匂いが充満して、仕事にならん」


俺は忌々しげにハンカチをゴミ箱へ捨て、再び椅子に深く腰を下ろした。


(……これでいい。備品の損壊を防ぎ、絨毯の汚れを未然に防いだ。極めて合理的な判断だ)


(俺の死の舞台に必要なのは、リリアの絶望だ。こんなところで無駄な殺し癖をつけられては、シナリオのノイズになる)


俺は自分にそう言い聞かせ、何事もなかったかのように書類に目を落とした。

だが、俺は気づいていなかった。

床に四つん這いになり、俺の足元を見つめているリリアの、その異常な瞳の色に。


(……あの方が。……私の手を、止めた)


怒られた。「勝手な真似をするな」と言われた。

普通なら、恐怖で泣き叫ぶところだ。

だが、リリアの脳内では、その言葉は全く別の意味に変換されていた。

あの方は、あのゴミ(メイド)を「備品」と呼んだ。

でも、私のことは「部品」と呼ぶ。

備品は、代わりがいる。

でも、部品は、それがなければ「あの方の目的」が完成しない、欠かせないもの。


(……あの方は、私が、あのゴミの血で汚れるのを、嫌がったんだ)


(絨毯が汚れるからじゃない。……私という『部品』に、不純物が混ざるのを、手を出してまで止めてくれた)


リリアは、先程まで俺に掴まれていた自分の右手首を、左手でそっと包み込んだ。

骨が軋むほど強く掴まれた、その痛みの余韻。

それが、彼女にとっては「お前は俺の世界のものだ。俺以外のものに触れるな」という、狂おしいほどの独占欲の証明に思えた。


(……あの方の世界には、私と、あの方だけでいい)


(他のものは、全部、いらない。……あの方が手を下すまでもない。いつか、私が全部)


リリアの尻尾が、床の上でゆっくりと、嬉しそうに左右に揺れた。

彼女は俺の足元に頬をすり寄せ、その漆黒のブーツに口づけを落とす。


「……ごめ、なさい。……ご主人、さま」


謝罪の言葉とは裏腹に、その声は甘く、どろどろとした陶酔に満ちていた。

俺は彼女の行動を「従属の証」だと解釈し、視線を落とすことなく、ただ短く鼻を鳴らした。

その一連の狂劇を。

扉のすぐ外で、新しい紅茶のトレイを持ったクラリスが、静かに聞き耳を立てていた。


(……絨毯の汚れ。備品の損壊。……ええ、理屈は通っていますよ、閣下)


クラリスは、トレイを持つ手に微かに力を込めた。


(ですが、おかしいですね。……昨日、あなたがキール村を焼き払うよう命じた際。その村の特産品である『東大陸のペルシャ絨毯』の工房も、一緒に灰にする計算でしたよね?)


クラリスの口元が、歪に吊り上がる。


(絨毯の価値など、あなたは微塵も気にしていない。メイドの命など、塵ほども気にしていない)


(あなたはただ……ご自身の『部品』が、他者という不純物に触れて、自分だけの世界から少しでも逸脱することを、本能的に恐れただけではないですか?)


自分自身を冷徹な計算機だと信じて疑わない、この恐ろしい主人。

だが、その実態は、一人の壊れた少女を自分の手元に縛り付けるためだけに、無自覚に世界そのものを歪めようとしている、哀れで、いじらしいほどの怪物だ。


「……本当に。どこまで私を魅了すれば気が済むのですか、閣下」


クラリスは、誰にも聞こえない声で呟き、自らの火照った頬を冷たいトレイに押し当てた。

彼女もまた、この屋敷の「毒」に完全に適応し、正常な呼吸の仕方を忘れつつあった。

外の雨は、まだ降り続いている。


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