7.狂信の証明と冷たい炎
外は、朝から重苦しい雨が降り続いていた。
鉛色の空から落ちる水滴が、公爵邸の分厚い窓ガラスを執拗に叩き続けている。だが、その雨音すらも、この書斎を支配する圧倒的な「静寂」を破ることはできていなかった。
「……西部のキール村で、奇病の兆候だと?」
俺は、机に広げられた報告書を見下ろし、冷たく呟いた。
「はい、閣下。数日前から発熱と皮膚の壊死を伴う患者が続出しているとのこと。現地の領主代行から、早急な医師団の派遣と、特効薬の輸送要請が来ております」
壁際に控えるクラリスが、感情を排した声で答える。
「却下だ」
俺は躊躇なく、その報告書に『棄却』の赤いスタンプを押し付けた。
「医師団の派遣コストと、キール村が一年間に生み出す税収のバランスが破綻している。それに、奇病の感染経路が不明な現状で人員を送り込むのは、被害を拡大させるだけの愚策だ」
「では、キール村はいかがなさいますか」
「街道を封鎖し、村ごと隔離しろ。……一ヶ月放置して、生き残った者がいれば特効薬をくれてやれ。全滅していれば、そのまま村ごと焼き払う。それが最も安上がりで『効率的』な防疫だ」
数百人の領民が、病の苦しみの中で見捨てられる。
だが、俺の脳内にある計算機は、それを「必要経費」として瞬時に処理していた。
悪役公爵レイン・ヴァルディアとして、領民の命など数字の羅列に過ぎない。俺の死の舞台を飾り立てるための、ただの背景だ。
「……承知いたしました。手配を進めます」
クラリスは一礼し、一切の反論をせずに下がった。
彼女の瞳の奥には、俺の冷酷な決断に対する微かな陶酔が揺れていた。
俺はペンを置き、視線を下へ向ける。
机の足元。俺のブーツのすぐ傍らで、銀金の少女――リリアが、羊皮紙に向かって羽ペンを走らせていた。
教育を開始してから、彼女はスポンジのように言葉を吸収している。
だが、彼女が覚えるのは一般的な単語ではない。
「……リリア。俺が今下した判断を、どう解釈した」
俺の問いかけに、リリアは弾かれたように顔を上げた。
金色の瞳が、俺の言葉を一滴残らず飲み込もうとするような、異様な熱を帯びている。
「……ぎせ、い……。です」
「そうだ。『犠牲』だ。全体を生かすために、一部を切り捨てること。……お前なら、どうする?」
「……いらない、ものは。……捨てる。……ご主人、さまの、ために……なるもの、だけ……残す」
たどたどしいが、その理解は俺の求めた「悪役の理屈」と完全に一致していた。
「正解だ」
俺が短く肯定すると、リリアの顔がパッと輝いた。
彼女は自分の書いた羊皮紙を、両手で大事そうに胸に抱きかかえ、頬をすり寄せる。
そこには、彼女が拙い文字で何度も何度も書き連ねた単語が並んでいた。
『部品』
『所有』
『犠牲』
俺が教えた、俺のための言葉。
それを、彼女はまるで聖書の一節のように、狂信的な眼差しでなぞり続けている。
俺は己の教育の成果に満足し、再び別の書類に手を伸ばそうとした。
その時だった。
「閣下。……お疲れのようです。ハーブティーをお持ちしました」
クラリスが、銀のトレイに乗せたティーカップを運んできた。
俺の疲労を計算し、絶妙なタイミングで淹れられた、公爵家特製の茶だ。
湯気とともに、微かな甘みと、鼻に抜ける清涼な香りが漂ってくる。
俺は無造作に手を伸ばし、カップの持ち手に指をかけた。
そして、それを口元へ運ぼうとした――その瞬間。
「――っ!!」
足元にいたリリアが、獣のような身のこなしで跳躍した。
「なっ……」
俺の視界を、銀金の髪が横切る。
リリアの両手が、俺の持っていたティーカップを強引に奪い取った。
カップから溢れた熱い紅茶が、俺のコートの袖と、リリアの白い手に飛び散る。
だが、リリアはそんな火傷など一切気にする素振りも見せず、奪い取ったカップの中身を、一気に自分の口の中へと流し込んだ。
「ごふっ……! あ、がっ……!」
淹れたての、沸騰に近い温度の液体。
それが容赦なく彼女の口内を焼き、食道を通って胃へと落ちていく。
リリアはカップを床に取り落とし、自分の喉を掻きむしりながら、その場にうずくまった。
ガチャン、と。
陶器が砕ける甲高い音が、静寂の書斎に響き渡った。
「……何の真似だ、リリア」
俺の冷徹な声が、凍てつくように部屋の空気を縛り上げた。
壁際で控えていたクラリスすらも、予想外の凶行に目を丸くして固まっている。
「……ぁ、がっ、……げほっ! ……ど、く……」
リリアは床に這いつくばり、火傷でただれた唇から血を滲ませながら、必死に言葉を紡いだ。
「毒、かも……しれない、から……。ご主人、さまの、口に……入る、前に……っ」
(……は?)
一瞬、思考が停止した。
毒味、だと?
クラリスが淹れた茶に毒など入っているはずがない。彼女が俺を裏切るのは、シナリオのずっと先の話だ。
「……私の淹れた茶を、疑ったのですか」
クラリスの声が、静かに、だが明確な殺意を帯びて低くなった。
だが、リリアはクラリスを一瞥すらしなかった。
火傷の苦痛で涙と涎を垂れ流しながら、金色の瞳だけで、すがるように俺を見上げている。
「……わたし、は……部品、だから。……、だから……っ」
俺は、理解した。
こいつは「俺の教育」を、最悪の形で実行したのだ。
『全体を生かすために、一部を犠牲にする』。
こいつにとっての『全体』とは、世界でも領民でもなく、俺という存在そのもの。
俺に万が一の危険(毒)が及ぶ可能性が〇・一%でもあるならば、自らが『犠牲』となってそれを排除する。
それが、こいつが言葉を覚えて導き出した、俺への狂信の証明だった。
俺の胸の奥で、前世の「俺」が、あまりの痛々しさに悲鳴を上げていた。
熱湯を飲み込み、喉を焼かれ、それでもなお「褒めてもらえる」と信じ切っているその異常な姿に、正常な人間の倫理観が強烈な吐き気を催している。
だが、俺はレイン・ヴァルディアだ。
その「人間としてのノイズ」は、瞬時に冷徹な合理によって塗り潰された。
(――非効率の極みだ)
俺は冷たい視線で見下ろし、小さく舌打ちをした。
「……愚か者が」
俺はゆっくりと立ち上がり、苦しむリリアの前にしゃがみ込んだ。
「ひっ……ぁ……」
俺の冷たい声に、リリアの体が怯えに跳ねる。
勝手な真似をした。怒られる。捨てられる。
その恐怖が、火傷の痛みを超えて彼女の顔を歪ませた。
俺は手袋を外した素手で、彼女の細い顎を乱暴に掴み上げた。
「……俺は、俺の許可なく壊れるなと言ったはずだ」
俺の指先から、圧倒的なまでの『冷気』が放たれる。
第四階層の氷結魔法。
本来ならば戦場で数十人の敵を一瞬で氷像に変えるための、戦略規模の魔力。
それを俺は、極限まで圧縮し、リリアのただれた唇と、火傷を負った食道へと直接流し込んだ。
「――っ!?」
リリアの体が、強烈な冷気にびくりと反り返る。
細胞を焼き尽くすほどの熱が、俺の絶対零度の魔力によって強制的に相殺され、鎮火していく。
喉の奥でジュッと音が鳴りそうなほどの、暴力的なまでの冷却と治癒。
「……げほっ、はぁっ、……あ、ぁ……」
数秒後。
俺が顎から手を離すと、リリアは床に崩れ落ち、荒い息を吐いた。
火傷は完全に塞がっていた。
(……チッ。無駄な魔力を使わせやがって)
俺は心の中で毒づきながら、ハンカチで指先を拭う。
(こんなところで喉を潰されては、俺が処刑される本番で、絶望の悲鳴を上げられないではないか。……俺の死の舞台の価値を下げるような真似は、絶対に許さん)
それが、俺が即座に高度な治癒魔法を使った「合理的な理由」だった。
部品の劣化を防ぐための、当然のメンテナンスだ。
「……二度と、俺の判断を差し置くような真似をするな。お前の安い命で、俺の安全を天秤にかけるな。……不快だ」
俺は冷たく言い放ち、床に散らばった陶器の破片をまたいで、自分の席へと戻った。
「クラリス。茶を淹れ直せ。……床のゴミも片付けておけ」
「……かしこまりました」
クラリスは深く一礼し、割れたカップを片付け始めた。
だが、俺は気づいていなかった。
床にうずくまったままのリリアの顔を。
(……あの方が。……私のために、魔法を……)
怒られた。
「安い命」だと吐き捨てられた。
「不快だ」と冷たい目を向けられた。
……なのに。
(……壊れるな、って。……治して、くれた)
喉の奥には、火傷の痛みの代わりに、あの方が流し込んでくれた氷の魔力が、刺すような冷たさとともにとどまっている。
それは、彼女の体の内側から、あの方に支配されているという、圧倒的な「所有の感覚」だった。
リリアの金色の瞳が、どろどろとした悦楽に溶けていく。
「勝手な真似をするな」という拒絶は、彼女にとって「お前の命は俺が管理する」という、甘美な拘束に変換されていた。
自分が盾として機能した。そして、壊れた自分をあの方がわざわざ修繕してくれた。
私は、あの方にとって価値がある。
(……もっと。もっと、あの方の役に立たないと……)
リリアは、床に残った紅茶の染みを、誰にも見られないようにそっと舌先で舐め取った。
あの方が飲むはずだった液体。あの方の持ち物。
そのすべてが、彼女にとっては神聖な儀式だった。
その光景を。
破片を拾い集めていたクラリスだけが、至近距離で目撃していた。
(……効率? 合理? ……笑わせないでください、閣下)
クラリスは、陶器の破片を握る手に、思わず力を込めた。
(ただの部品が勝手に壊れたというのなら、捨てて新しいものを買えばいい。……第四階層の氷結魔法を、あんな精密な治癒に転用するなど、どれだけの魔力制御と『集中』が必要か、ご自身が一番分かっているはずなのに)
クラリスの胸の奥で、ぞわり、と不気味な虫が這うような感覚がした。
この主人は、口では「部品の管理」と言いながら。
その実、この醜い奴隷の少女が壊れることを、誰よりも恐れ、執着しているのではないか。
無自覚なまま、この狂った少女を自分の世界の中心に据えようとしているのではないか。
「……本当に、恐ろしいお方」
クラリスは、破片で自分の指先がわずかに切れていることにも気づかず、恍惚としたため息を漏らした。
(この狂気の世界が、どこまで歪んでいくのか。……私は、最後まで見届けさせていただきますよ。閣下)
外の雨は、まだ止まない。
屋敷という閉鎖空間の中で、三人の歪んだ歯車は、もはや後戻りできない速度で回転し始めていた。




