6.毒液の滴る庭園
「日光は、生物としての基礎的なメンテナンスに不可欠だ」
朝の書斎。俺は窓の外に広がる広大な庭園を見下ろしながら、背後に控えるクラリスと、足元に蹲るリリアに告げた。
教育を開始してから数日が経つ。リリアは驚異的な速度で言葉を吸収していた。だが、それは知性が戻ったというよりは、俺という主人の意図をより正確に汲み取るための「受信機」が精度を上げているだけのように見えた。
「……はい、閣下。リリア、準備を」
クラリスがリリアの背を促す。
リリアは、俺の許可を待つように見上げてくる。金色の瞳は、数日前よりも澄んでいる。だが、その瞳の奥には、俺以外の光を拒絶するような、どろりとした闇が沈殿していた。
「行け。……ただし、俺の視界から外れるな。お前が勝手に壊れることは、俺の損失だ」
「……は、ぃ。ご主人、さま」
リリアの声は、まだ震えている。だが、そこには明確な「悦び」が混じっていた。
「おれのために」生きろと言われ、「おれの損失だ」と価値を認められる。
彼女にとって、それはこの世のどんな慈悲深い祈りよりも、魂を震わせる福音だった。
ヴァルディア公爵邸の庭園は、美しくも、どこか冷徹な様式美に満ちている。
手入れの行き届いたバラの生垣。音もなく水を吐き出す石造りの噴水。
俺は、影のように俺の背後に張り付いて歩くリリアを連れ、ゆっくりと砂利道を進んだ。
リリアは、周囲の景色など一切見ていない。
色とりどりの花も、爽やかな風も、彼女にとっては存在しないも同然だった。
彼女が捉えているのは、俺の漆黒のコートの裾と、俺が踏みしめる砂利の音だけだ。
「……閣下! これは、お珍しい」
前方から、一人の老人が歩み寄ってきた。
この庭園を長年守り続けている、老庭師のハンスだ。彼はかつてのレインがどれほどの暴君であっても、淡々と植物を世話し続けてきた、この屋敷でも数少ない「まともな」人間の一人だった。
「ハンスか。……邪魔だ。どけ」
俺は「暴君」らしい、極めて不遜な態度で言い放った。
ハンスは慣れた様子で頭を下げるが、その視線が、俺の背後に隠れるように立っているリリアに止まった。
「おや……。そのお嬢さんは、例の? ああ、噂通りの綺麗な銀狼族だ。……お嬢さん、怖がらなくていい。この庭のバラは、お嬢さんの髪と同じくらい美しいですよ」
ハンスは、純粋な善意から、リリアに微笑みかけ、その痩せた肩にそっと手を伸ばそうとした。
「ほら、一輪持っていきなさい。公爵閣下も、お許しくださいますよ」
その瞬間だった。
「――ガアァァッ!!」
リリアの喉から、獣のような、鋭い威嚇の音が漏れた。
彼女はハンスの手が自分に触れる直前、目にも止まらぬ速さで身を翻し、ハンスの腕を鋭い爪で引き裂かんとした。
「……っ、うわぁ!?」
ハンスが慌てて手を引く。一瞬、空を切ったリリアの指先が、空中で不気味に震えた。
リリアの金色の瞳が、燃え上がるような憎悪でハンスを射抜いている。耳を伏せ、尻尾を怒らせ、その佇まいは「人」ではなく、完全に「捕食者」のそれだった。
「リリア。やめろ」
俺の低い声が響く。
リリアの動きが、一瞬で凍りついた。
彼女は、まるで魔法が解けたかのように威嚇を解き、その場に膝をついて俺を見上げた。
「……あ、あ、のごめ、なさい。……汚い、手が、……触れる、と」
「……あ、いや。すまないね、驚かせるつもりはなかったんだが……」
困惑するハンス。
俺はそんな彼を見下ろし、冷徹に言い放った。
「ハンス。お門違いな慈悲を向けるな。……こいつは俺の『部品』だ。他の人間に触れられることは、規格外の不純物が混ざるのと同じだ。俺の所有物を、安っぽい親切心で汚すな」
「…………閣下」
ハンスの瞳に、深い憐れみが浮かんだ。
だが、その憐れみは俺ではなく、俺の足元で「汚い手が触れる」と呟いて震えている少女に向けられていた。
彼は、リリアが「助けられた」のではなく、もっと恐ろしい、逃げ場のない「何か」に取り込まれてしまったことを悟ったのだろう。
「下がれ。……今日の散歩は終わりだ」
俺は不快感を隠さずに踵を返した。
(……完璧だ。リリアの排他性は完成されつつある。これで俺が処刑されるその日まで、彼女が他の誰かに心を開くことはない)
だが。
背後を歩くリリアの気配が、わずかに揺れている。
俺は一瞬だけ、足を止めた。
振り返らずに、冷たく、けれど「ノイズ」を孕んだ声を落とす。
「……ハンス。そのバラは、俺が買い取っているものだ。……勝手な分配をすれば、次はお前の指を剪定バサミで切り落とすぞ」
それは、ハンスに向けた脅迫だった。
だが、リリアにとっては――。
(……あの方が。私のために、……怒ってくれた。私に、何も触らせないように……守ってくれた)
リリアの心臓が、痛いほどに脈打つ。
「守ってくれた」という、決定的な誤読。
主人が自分を「部品」として囲い込み、他者を拒絶したことを、彼女は「自分だけの特別な居場所を作ってくれた」と解釈したのだ。
「……はい、ご主人、さま。……リリアは、……貴方の、もの。……だけ」
彼女の呟きは、もはや言葉ではなく、呪文のように庭園の静寂に溶けていった。
屋敷へ戻る廊下。
前を歩く俺と、後ろを歩くリリア。
その様子を、三歩下がってついてくるクラリスが、静かに観察していた。
先程の庭園での一幕。
閣下はハンスを脅した。
だが、その言葉を選んだのは、リリアが「他人に怯えた」からではないのか。
リリアを傷つけようとした者(彼女にとっては善意の手であっても)を、閣下は言葉で排除した。
「……ふふっ」
クラリスの口元が、わずかに歪む。
理屈では、所有物の保護だ。管理だ。
……だが、あの瞬間の閣下の魔力の揺らぎは、あまりにも「独占欲」に満ちていた。
「閣下、お疲れのようです。リリアのメンテナンス(手入れ)は、私が行いましょうか?」
クラリスが、わざとらしく尋ねる。
俺は自室の扉を開けながら、振り返らずに答えた。
「不要だ。……こいつはまた夜中に床を掻きむしるかもしれん。……俺の目の届く場所に繋いでおけ」
「……かしこまりました。昨夜と同じように、シルクの紐を用意させます」
扉が閉まる。
部屋に残されたのは、俺と、ソファの脚に繋がれるのを待っているリリアだけだ。
俺はソファに座り、書類を広げる。
足元で、リリアが自分からシルクの紐を手に取り、それを俺に差し出してきた。
「……しば、って。……ご主人、さま」
その瞳には、恐怖も、悲しみもない。
ただ、俺に縛られることでしか得られない、歪んだ「自己の確立」だけが宿っていた。
俺は彼女から紐を受け取り、その足首に結び目を作る。
(……よし。これで今日もこいつの安全は確保された)
俺は己の「合理的判断」に満足し、ペンを走らせる。
だが、俺がペンを走らせるたびに。
足元のリリアが、俺の影を、恍惚とした表情で撫で回していることには。
そして、その光景を、扉の隙間からクラリスが――もはや恐怖すら快楽に変えて見つめていることには。
俺は、まだ、気づいていなかった。




