5.不純物の濾過
朝日が、分厚い遮光カーテンの隙間から一筋だけ滑り込み、薄暗い寝室の床を白く切り取っていた。
規則正しい時間に目が覚める。前世の社畜時代に染み付いた、呪いのような体内時計だ。
俺はゆっくりと身を起こし、極上のシーツから抜け出した。
冷たい空気が肌を刺す。だが、その静謐な朝の空気に、異物が混ざっていた。
「…………」
視線を下ろす。
ソファの脚に結びつけられたシルクの紐。その先に繋がれた銀金の少女が、床に膝を抱えた姿勢のまま、瞬き一つせずにこちらを見つめていた。
「…………」
リリアだ。
昨夜クラリスに括り付けさせてから、数時間が経過している。
その間、彼女の姿勢は一ミリも変わっていない。俺が眠りにつき、そして目覚めるまでの間、この少女はただ暗闇の中で、獲物を狙う爬虫類のように、あるいは神像を見上げる狂信者のように、俺の寝顔を凝視し続けていたのだ。
(……不気味な奴だ。一睡もしていないのか)
俺は内心で微かな悪寒を覚えながらも、その感情を即座に「合理」の引き出しへと放り込んだ。
(いや、都合がいい。俺の行動を常に監視し、俺の死の瞬間に一瞬たりとも目を逸らさない『観客』が必要だ。……これくらい俺に執着してくれなければ、絶望の悲鳴も安っぽくなる)
俺は己の感情の揺れを完璧に処理し、冷徹な声で命じた。
「クラリス」
「はい、閣下」
音もなく扉が開き、待機していたクラリスが姿を現す。
「こいつの紐を解け。……それから、朝食の後、書斎にこいつを連れてこい。簡単な読み書きと、この国の『言葉の概念』を叩き込む」
「……教育、でございますか?」
クラリスの眉が、またしても微かに動いた。
驚くのも無理はない。奴隷、それも使い捨ての「部品」に対して、貴族が自らの時間を割いて教育を施すなど、異常な行動に他ならない。
「ただの獣では、舞台の飾りにすらならん。……俺が与える絶望を正しく理解し、正しく泣き叫ぶための『知性』が必要だ。無知なまま壊れるのでは、三流の悲劇にしかならんからな」
「……左様でございますか。承知いたしました」
クラリスは深く一礼し、リリアの拘束を解きに向かった。
俺はその背中を見下ろしながら、己の完璧な論理に満足していた。
そうだ。これは教育ではない。俺の死の価値を高めるための、小道具のチューニングだ。
だから俺が自ら時間を割くのも、何ら矛盾はない。
――俺は全く自覚していなかった。
「他人に任せれば済むこと」を、「わざわざ自分の手で行おうとしている」というその事実自体が、すでに前世の凡庸な男の「執着」から来ていることに。
二時間後。
静寂に包まれた広大な書斎。
壁一面を埋め尽くす稀覯本の匂いと、インクの冷たい香りが漂う空間で、俺は巨大な机に向かっていた。
俺の足元には、相変わらず影のようにリリアが蹲っている。
「立て」
「……っ」
俺の短い命令に、リリアは弾かれたように立ち上がった。
俺は机の上に、子供向けの簡単な絵本と、羊皮紙、そして一本の羽ペンを用意していた。
「文字は読めるか」
「…………」
リリアは首を横に振った。金色の瞳が、怯えと、それ以上の熱を帯びて俺の手元を見つめている。
「そうか。では、今日から俺がお前の脳を書き換えてやる」
俺はペンを取り、羊皮紙に滑らかな筆記体で一つの単語を書き記した。
『所有(Belong)』
「見ろ。これが『お前』の現在位置を示す言葉だ。……復唱しろ」
「しょ、ゆう……」
掠れた、たどたどしい声。
長年、まともな会話すら奪われていた喉が、必死に俺の要求に応えようと震えている。
「そうだ。……いいか、リリア。言葉を知るということは、痛みの種類を知るということだ。空腹を『ひもじい』としか言えない獣から、それを『理不尽な搾取』だと理解できる人間になれ。……高所から叩き落とされる恐怖を味わうためには、まず自分の足で階段を登る必要がある」
俺は次々と単語を書き連ねていく。
『罰』。『絶望』。『終焉』。
俺が処刑台で死ぬ時に、彼女に感じてほしい感情の羅列。
「俺が教えた言葉を、一語一句違わず脳に刻み込め。……俺の許可なく忘れることは許さん」
それは、ただの文字の教育ではなかった。
俺の世界のルールを、俺の価値観を、彼女の白紙の脳に直接焼き付ける、暴力的なまでの「概念の書き換え(フォーマット)」だった。
リリアは、俺のペンの先を食い入るように見つめている。
彼女の目は、文字の意味を理解しようとしているのではない。
「あの方が、自分のために手を動かし、音を与えてくれている」という事実そのものを、魂で飲み込もうとしていた。
「……次だ。ペンを持て」
俺は自分の使っていた羽ペンを、無造作にリリアに差し出した。
リリアはびくりと肩を震わせ、おずおずと右手を伸ばす。
泥にまみれていた手は、昨夜のクラリスの洗浄と手当てにより、見違えるほど白くなっている。だが、その指先は細く、力がない。
彼女はペンを受け取ると、羊皮紙に向かった。
見様見真似で、俺が書いた『所有』という文字をなぞろうとする。
だが。
ガリッ。
不慣れな筆圧と、震える指先のせいで、鋭利なペン先が羊皮紙に引っかかり、跳ねた。
「あ……っ」
リリアの指からペンが滑り落ち、鋭いペン先が、彼女の白い手の甲を浅く切り裂いた。
ツー、と。
赤い血の雫が、白い肌に滲む。
その赤い液体が、下にある高価な羊皮紙に落ちそうになった、その瞬間。
俺の手が、無意識に動いていた。
「――チッ」
俺は舌打ちとともに、リリアの手首を下から強く掴み上げた。
血の雫が羊皮紙に落ちるのを防ぐため、俺の親指が、彼女の手の甲の傷口を直接拭い取る。
俺の白い手袋に、彼女の赤い血が染み込む。
「…………っ!?」
リリアの体が、雷に打たれたように硬直した。
(……しまった。不潔な真似をした)
俺は自身の反射的な行動に、内心で舌打ちを重ねた。
なぜ、俺が直接触れた?
羊皮紙が汚れるなら、新しくすればいいだけだ。ペンを取り上げ、クラリスに手当てをさせれば済む話だ。
なのに俺は、彼女の血が「俺の用意した舞台(羊皮紙)」を汚すよりも早く、彼女の傷口を塞ぐように触れていた。
「……間抜けめ。力の加減も分からんのか」
俺は誤魔化すように、冷酷な声で叱責した。
「俺の所有物を、勝手に傷つけるな。……たかが紙一枚のために、部品の耐久値を減らすのは非効率の極みだ。次やったら、その指を切り落とすぞ」
それは、己の不合理な行動を「部品の管理」という理屈で正当化するための、苦し紛れの暴言だった。
俺は掴んでいた手を乱暴に離し、血のついた手袋を忌々しげに引き剥がして床に捨てた。
「……今日はここまでだ。下がれ。視界に入るとイライラする」
俺は彼女に背を向け、窓の外を見つめた。
己の中に混じった「無意識の庇護欲」というノイズに気づかないふりをしながら。
――だが。
俺の背後で。
リリアは、自分の手の甲に残った赤い血の跡を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
(……あの方が。……私の血を、拭った)
怒られた。
「指を切り落とす」と言われた。
「視界に入るな」と捨てられた。
……なのに。
(……私の傷を、あの方の手で、塞いでくれた……っ)
普通なら、恐怖で泣き崩れる場面だ。
だが、リリアの脳内では、その強烈な「拒絶の言葉」と、咄嗟に傷を庇ってくれた「体温の記憶」が、致死量の毒となって混ざり合っていた。
「部品が壊れるのは非効率だ」
その言葉は、リリアにとって「お前が傷つくのは嫌だ」という、この世で最も残酷で甘美な愛の囁きに変換されていた。
(……もっと。……もっと、あの方の言葉を……)
(あの方の『所有物』に、ならないと……)
リリアの瞳孔が、うっとりと開き切っている。
彼女は、床に捨てられた俺の血塗れの手袋を、誰にも見られないように、そっと自分の胸元に隠し持った。
その一連の光景を。
本棚の整理を命じられていたクラリスが、分厚い辞書の陰から静かに観察していた。
(……閣下。貴方は本当に、ご自身の行動の矛盾にお気づきではないのですね)
クラリスは、冷たい背表紙に指を這わせながら、微かなため息をついた。
(『部品が傷つくのは非効率』。……ええ、理屈は通っています。ですが、あの程度の擦り傷で、貴方のようなお方が、反射的に他者の血に触れるなど……。それはもはや、管理ではなく)
クラリスの胸の奥で、ぞわり、と不気味な虫が這うような感覚がした。
この冷徹な主人は、自分自身を「冷酷な計算機」だと思い込んでいる。
だが、その実態は。
計算機のふりをして、無自覚に一人の少女の魂を、後戻りできない場所まで培養している、底知れない怪物なのではないか。
「……ふふっ」
クラリスの口から、小さく、堪えきれない笑みが漏れた。
(……ああ、なんて恐ろしくて、狂ったお方……。これでは、私までおかしくなってしまいそうです)
彼女は、自分がすでにその「狂気」に魅了され、観客席から舞台の上へ足を踏み入れ始めていることに、深い陶酔を覚え始めていた。
屋敷の中の三人は、誰も正解を知らない。
ただ、歪んだ前提のまま、完璧な歯車として噛み合い、奈落へと向かって加速していく。




