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4.不合理な修繕

がりっ。がりっ。


(……また、始まったか。何をしてるんだ)


がりっ。がりっ。

鼓膜を微かに叩く、ひどく規則的で、ひどく乾いた音。


「………はぁ」


俺は静かにまぶたを開けた。

極上の絹のシーツから身を起こし、音を立てずにベッドから降り、冷たい床を踏んで扉へと近づいた。


がりっ。がりっ。

重厚な扉が、わずかに開く。


「……おい、何の真似だ」


月明かりが差し込む廊下。

俺の部屋の扉の真ん前で、丸まり、うずくまっている銀金の塊があった。

リリアだ。


俺の冷たい声に、その肩がびくっと跳ねた。

彼女は俺を見上げることすらできず、ただ床に顔を擦り付けるようにして震えている。

その細い指先は床に押し付けられ、爪の間からは赤い血が滲んでいた。

俺の部屋の前の磨き上げられた床には、点々と、彼女自身の血がこすりつけられた跡が残っている。


(……は?)


一瞬、思考が停止した。

何をしている?

逃げ出すわけでもなく、俺を襲うわけでもなく、ただ俺の部屋の前で、自分の指から血を流して床を引っ掻いている。

狂っている。

前世で平穏な人生を送っていた「俺」の感性が、理解不能な異常行動を前にして、背筋に微かな悪寒を走らせた。


気味が悪い。まともじゃない。

だが、その「人間としての正常なノイズ」は、数秒後にはレイン・ヴァルディアの冷徹な思考によって塗り潰された。


(――非効率だ。こんなところで怪我をされては、化膿して死ぬリスクがある。俺の最高の終焉しえんを飾るための部品が、本番前に壊れるなど言語道断だ)


俺は冷たい視線を見下ろしたまま、小さく舌打ちをした。


「……顔を上げろ」


「…………っ、ぁ」


リリアの体が、さらに小さく縮こまる。

彼女は血の滲んだ手を庇うように胸に抱え込み、怯えた獣のように震え続けている。

殴られる、あるいは殺されるのを待っている。その態度が明確に伝わってきた。


俺は躊躇なく踏み込み、しゃがみ込んだ。

そして、彼女の胸元から、その血に汚れた細い手首を無造作に掴み上げた。


「ひっ……!?」


「暴れるな」


俺の指先に、彼女の生温かい血がべっとりと付着する。


(……不快だ。粘ついた液体が皮膚に触れる感覚は、著しく思考を阻害する)


そう内心で吐き捨てながらも、俺は彼女の手首を離さなかった。

月明かりに透かして見れば、爪の先が欠け、皮膚が破れている。

こんなくだらない自傷行為で、俺の所有物を損なわれてたまるか。


「……俺は、俺の許可なく壊れるなと言ったはずだ。お前のその安い血で、俺の屋敷の床を汚すな」


「…………ぁ、……ごめ、なさい……」


掠れた、声にもならない謝罪。

だが、俺の指先から伝わってくる彼女の脈拍は、恐怖で跳ね上がっていると同時に、何か別の熱を孕んで狂ったように打ち鳴らされていた。


「閣下。……お目覚めでしたか」


廊下の奥から、静かな声が響いた。

燭台を手にしたクラリスが、音もなく近づいてくる。

彼女の視線が、俺と、俺に手首を掴まれているリリア、そして床の血痕を順番に舐め取った。


「その者は、私が地下牢へ移しましょうか。主人の安眠を妨げ、あろうことか邸内を汚した罪。……処分としては妥当かと」


クラリスの声には、一切の感情がなかった。

ただ、その瞳の奥には「この暴君は、この理解不能な事態をどう処理するのか」という、粘り気のある好奇心が渦巻いている。


俺は、リリアの手首を掴んだまま立ち上がった。

リリアの体が、びくりと震える。地下牢。処分。その言葉が、彼女に「捨てられる」という現実を突きつけている。


(……ここでこいつを地下牢に入れれば、環境の悪化で確実に衰弱する。今日、肉をつけさせるためにわざわざ飯を食わせた意味がなくなる)


俺は合理的な計算を即座に弾き出し、冷徹に言い放った。


「不要だ。……クラリス、こいつの手を治療しろ」


「……治療、ですか」


クラリスの眉が、ほんのわずかに寄った。

処分ではなく、治療。

それは、昨日までのレインであれば絶対にあり得ない選択だった。


「言ったはずだ。こいつは俺の計画に必要な部品だ。こんなところで使い物にならなくなっては困る。……血を止め、薬を塗れ」


「承知いたしました。では、手当の後、自室(使用人部屋)へ戻します」


「いや。……こいつはまた夜中に徘徊して、勝手に自分を壊しかねん。それは俺の不利益だ」


俺はリリアを、文字通り「物」を扱うように、自室の扉の中へ引き入れた。

クラリスの目が、驚愕にわずかに見開かれる。


「俺の部屋に入れろ。……そこで手当をしろ。終わったら、そのソファの脚にこいつを括り付けておけ」


「……括り付ける、でございますか?」


「そうだ。物理的に移動できなくすれば、徘徊も自傷もできまい。俺の管理下から一歩も出すな。……不快だが、計画に狂いが生じるよりはマシだ」


俺はそれだけ言うと、リリアから手を離し、手についた血をハンカチで無造作に拭き取り始めた。


(……完璧だ。徘徊のリスクを物理的に排除しつつ、部品のメンテナンスも完了する。多少視界にゴミが入るが、これも俺の完璧な死のための布石だ)


俺は己の冷徹な判断に満足し、ソファへ深く腰を下ろした。

だが、俺は気づいていなかった。

ソファの前に座らされ、クラリスに手当てを受けているリリアの顔を。


(……括り付ける。……逃げられないように。……この部屋から、出さないように)


リリアの金色の瞳に、どろどろとした熱いものが渦巻いていた。

彼女にとって「縛られる」ということは、罰ではない。


「お前は俺のものだ。どこにも行くな」という、これ以上ない絶対的な所有の証明だった。

治療の痛みに耐えるためではない。

あまりの歓喜と、甘美な支配の心地よさに、リリアの体は小刻みに震え続けていた。

彼女は、包帯を巻かれた自分の手を見る。

そこには、先程まであの方が握ってくれていた、あの冷たくて、どうしようもなく甘い匂いが染み付いている気がした。


(……汚したのに。また、汚したのに)


(……あの方は、私を縛ってくれた)


リリアの魂が、完全な異形へと変態していく音がした。

その異様な空気を、治療を終えたクラリスだけが、肌で感じ取っていた。

シルクの紐でソファの脚とリリアの足首を繋ぎながら、クラリスは静かに息を吐く。


(……理屈は通っている。徘徊を防ぐための、合理的な拘束。部品を維持するための、合理的な治療)


(だが……なぜ、閣下ご自身の手で、わざわざあの者の血に触れたのですか)


クラリスには、分からなかった。

人を呼べば済むことだった。自分が来るまで放置すれば済むことだった。

なのに、この冷徹な主人は、あえて自らの手を血で汚し、自室という最も無防備なプライベート空間に、この得体の知れない奴隷を縛り付けた。

それは、まるで。

理屈という仮面を被った、もっと恐ろしくて、もっと歪んだ「何か」の衝動に見えた。


「……手当と拘束、完了いたしました。閣下」


「ご苦労。下がれ」


クラリスは一礼し、部屋を後にする。

扉が閉まる直前。

彼女は見た。

ソファに括り付けられ、床に丸まったリリアが。

主人のベッドの方を見つめながら、その首に嵌められた銀の首輪を、恍惚とした表情で撫でている姿を。


(…………クスッ)

クラリスは、冷たい廊下で一人、静かに笑った。

この屋敷は、もう狂っている。

そして、その狂気を「合理的だ」と錯覚して楽しんでいる自分もまた、とうの昔に正常ではなくなっているのだと。

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