3.命令されていない忠誠(リリア視点)
朝が来る前に、目が覚めた。
目を閉じていたはずなのに、眠っていた感覚がない。ずっと意識だけが薄く続いていたような、不気味な静けさだけが残っている。
背中に触れているものが、やけに柔らかかった。
ゆっくりと指を動かすと、布が沈み、そしてゆっくり戻る。泥のざらつきも、石の冷たさもない。ただ、沈んで、戻る。
(……これ、だめなやつだ)
理由は分からない。だが、そう思った。
こんな場所に、自分がいていいはずがない。
息を吸う。
空気が、痛くない。喉の奥が焼けるような感覚も、腐った水の匂いもない。ただ、何もない、透明な空気。
その中に、一つだけ混ざっている匂いがあった。
冷たくて、白くて、遠い匂い。雪と、死の匂い。
あの人と同じ匂いだった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
苦しいのに、その匂いをもう一度吸い込みたくなる。
体を起こす。
布が擦れる音がやけに大きく聞こえて、思わず息を止めた。
昨日のことを思い出す。
お湯に入れられて、泥を削り落とされた。皮膚が剥けるかと思うほど擦られて、それでも止まらなかった。
そのあと、温かいものを口に入れられた。
一口目で、喉が焼けると思った。
だが、それは痛みではなく、体の内側から広がる熱だった。
(……あれは、なんだったんだろう)
分からない。
でも、思い出すと、お腹の奥がじんわり熱くなる。怖いのに、もう一度欲しいと思ってしまう。
「俺のために、肉をつけろ」
あの声が、頭の中で繰り返される。
意味は理解できない。だが、その音が鳴るたびに、体の奥が締め付けられる。
――動かなきゃ。
何も言われていない。
「寝ていろ」とも、「来い」とも命じられていない。
それなのに、このままここにいるのは間違っている気がした。
ベッドから足を下ろす。
床は冷たいが、刺すような冷たさではない。滑らかで、均一な冷たさ。
つま先からそっと体重をかける。
音を立てないように、慎重に。
昔、地下で音を立てたとき、鉄の棒で殴られた。
だから、音を消す方法は覚えている。
扉を開ける。
廊下は広く、長く、静かだった。
窓から差し込む月明かりが、床に四角い光を作っている。
その光を踏まないように、影の中だけを選んで進む。
壁に手をつく。
滑らかで、何もついていない。
地下の壁は、いつも湿っていた。苔と血と、何か分からないものがこびりついていた。
だが、ここは違う。何もない。
その「何もない」ことが、怖かった。
怒鳴り声もない。
足音もない。
何をしても、誰も何も言わない。
(……どうすればいいの)
分からない。
命令がないと、何をすればいいか分からない。
歩く。
進む。
匂いが、少しずつ濃くなる。
あの匂いだ。
大きな扉の前で、足が止まる。
ここだと、すぐに分かった。
空気が重い。
見えない何かに押し潰されるような圧迫感。
――入る?
だめだ、とすぐに思った。
「視界を汚すな」
あの言葉が、はっきりと残っている。
ここに入れば、あの人の視界に入ってしまう。
汚してしまう。
だから、扉の前に立ったまま動けない。
どうすればいいのか分からない。
だが、ここから離れるのも違う気がした。
胸が苦しい。
息が浅くなる。
逃げたい。
でも、離れたくない。
扉に近づく。
耳を当てる。
――音がした。
すぅ、……ふぅ。
規則的な呼吸。
生きている音。
(……いる)
それが分かった瞬間、力が抜けた。
その場に座り込み、尻尾を抱える。
震えている。
止まらない。
怖い。
何が怖いのか分からない。
でも、ここにいないと、もっと怖い。
しばらくして、床に触れる。
冷たくて、滑らかで、汚れていない。
(……だめだ)
自分の手を見る。
泥は落ち、爪は整えられている。
綺麗だ。
それが、間違っている気がした。
私は汚れていたから、あの人に拾われた。
泥の中にいたから、価値があった。
今の私は、違う。
指先で床をこする。
何もつかない。
もう一度。
強くこする。
がりっ、と音が鳴る。
さらに力を入れる。
爪が引っかかる。
痛い。
指先が熱くなる。
皮が裂けて、血が滲む。
鉄の匂いが広がる。
それを見て、少しだけ息が楽になった。
(……これでいい)
汚れている。
これが正しい。
がりっ、がりっ、と爪を立て続ける。
血が少しずつ増えていく。
そのとき。
――音がした。
扉の向こうで、何かが動く音。
呼吸が乱れる。
布が擦れる音。
止まる。
私の体も固まる。
起きた?
分からない。
でも、気づかれたかもしれない。
逃げるべきだと思う。
本能がそう叫んでいる。
だが、動けない。
ここを離れたら、二度と戻れない気がした。
あの匂いも、あの熱も、失う気がした。
だから、そのまま動かない。
血の滲んだ指を床に押し付けたまま、ただ待つ。
扉の向こうで、足音が近づく。
すぐそこまで来て、止まる。
沈黙。
そして、扉越しに気配が重なる。
「……そこにいるのは、お前か」
低い声。
返事ができない。
喉が動かない。
沈黙が続く。
「……勝手に動くなとは言っていない」
それだけだった。
怒りでも、命令でもない。
ただの事実のような声。
足音が離れていく。
気配が遠ざかる。
また、静けさが戻る。
私は、動けなかった。
(……いいんだ)
そう思った。
ここにいていい。
離れなくていい。
命令はなかった。
でも、拒絶もなかった。
それだけで、十分だった。
体を丸める。
扉に背中を預ける。
冷たいはずなのに、不思議と安心する。
呼吸の音は、もう聞こえない。
それでも、そこにいると分かる。
目を閉じる。
今度は、少しだけ意識が沈んだ。
命令はなかった。
それでも、ここにいることだけは、間違っていないと、初めて思えた。




