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2.所有物のメンテナンス

公爵邸の重厚な玄関扉が、一切の音を立てずに開かれた。

外はまだ昼下がりの陽光が降り注いでいるが、一歩足を踏み入れれば、そこは音を吸い込むような重厚な沈黙が支配する、レイン・ヴァルディアの「領域」だ。


「……閣下。お帰りなさいませ」


出迎えたのは、一分の隙もないメイド服に身を包んだクラリスだった。

彼女は、俺の腕の中に収まっている「泥の塊」を視界に入れた瞬間、その完璧に整えられた表情を、ほんの一瞬だけ――本能的な不快と困惑に歪ませた。


「…………」


クラリスの視線が、俺の腕から、汚れたコート、そして俺の顔へと這い上がる。

かつての主人は、衣服に一点のシミがついただけで、原因となった奴隷をその場で打ち殺していただろう。

それをわざわざ自らの腕に抱き、その高価な身なりを汚すことを厭わずに帰還した。

その「計算違い」が、彼女の冷静な瞳の奥で小さな軋みを立てていた。


「リリアだ。今日からこの屋敷に置く」


俺は腕の中のリリアを、玄関ホールの冷たい石畳の上に降ろした。

リリアは突然支えを失い、崩れるように膝をつく。彼女は顔を上げることすらできず、ただ俺の影の端を、消え入りそうな金色の瞳で見つめている。


「閣下、正気ですか。その……『汚れ物』を、この清潔な邸内に?」


「汚れ物かどうかを決めるのは俺だ。……クラリス、こいつを洗え。徹底的にな」


「……左様で。愛玩物として、よろしいのですか?」


「愛玩? 笑わせるな」


俺は不敵に笑い、コートについた泥を忌々しげに払った。


「これは、俺が最高の『終焉しえん』を迎えるための鍵だ。錆びたままでは役に立たない。隅々まで磨き上げ、壊れないように補強しろ。……死ぬまで、俺の視界を汚すことは許さん」


俺が言う「終焉」とは、処刑台での完璧な死のことだ。

だが、クラリスの耳には、それが「己の命すら駒とする、完成された覇道」のように響いた。彼女の眉が、再び微かに動く。


「承知いたしました。……リリア、こちらへ」


クラリスがリリアの腕を掴もうとした瞬間、リリアが鋭く喉を鳴らした。牙を剥き、耳を伏せ、泥だらけの尻尾を激しく振る。

だが、彼女の視線が俺のコートの「泥汚れ」に向いた瞬間、その殺気が、糸が切れたように霧散した。


自分が、汚した。

なのに、捨てられなかった。

その矛盾が、リリアの脳内に処理不能なエラーを引き起こす。彼女は罪を自覚した子供のように首を垂れ、今度は抵抗することなく、クラリスの手に身を委ねた。


一時間後。

浴室から上がってきたリリアは、もはや別人のようだった。

泥を洗い流し、丁寧に手入れされた銀金の髪は、窓から差し込む斜陽を浴びて淡い輝きを放っている。


クラリスが着せたのは、サイズの合わない、古いメイド服の余り物だ。細すぎる手足がぶかぶかの袖から突き出し、傷跡の痛々しさがどの様な扱いを受けていたか際立たせている。


「……終わりました。食事はどうなさいますか」


「俺の部屋へ運べ。……リリア、来い」


俺は背中を向け、自室へと歩き出す。

背後から、カチ、カチという小さな足音が聞こえる。

俺が止まれば、彼女も止まる。俺が歩けば、彼女も歩く。影を踏まない距離で、けれど決して離れないように必死で追ってくる、獣の気配。

部屋に入ると、俺はソファに深く腰掛け、机の上に用意されたばかりの食事を指差した。

白い湯気を立てるスープ。焼き立てのパン。


「食え。……全部だ」


リリアは動かない。


「俺は、俺の視界を汚すなと言った。……痩せ細った肉体は、俺の審美眼に反する。俺のために、その体に肉をつけろ。……汚いままのパーツは、俺の計画には不要だ」


「…………ぁ」


リリアが、ゆっくりと皿に手を伸ばした。

震える指先で一口、スープを口に含む。

その瞬間。


「…………っ、……ぅ、……ぁ……」


金色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。


(……温かい)


思ってしまった。そう感じた瞬間に、心臓が凍りつくような恐怖に襲われる。

泥の中にいた私が、あの方を汚した私が、こんな温かさを享受していいはずがない。

けれど、熱い液体は容赦なく胃を、そして魂を溶かしていく。


(汚したのに……許されてるの……?)


「許された」という誤解が、彼女の脳内に猛毒のように染み渡る。主人の「俺のために」という言葉は、彼女にとって「私のすべてを彼のために使い潰さなければならない」という、甘美な地獄の契約書となった。


「泣くな」


不意に、俺の指先がわずかに動いた。

リリアの頬を伝う雫を、拭おうとしたのか――いや、違う。


「……不快だ。……食事が冷める。早くしろ」


俺は即座に合理的な理由を付け足し、彼女から視線を逸らして書類に目を落とした。

俺の死を飾る小道具に、情緒的なノイズは不要だ。

……それだけのはずだ。

視界の端で、リリアが必死に涙を拭い、がっつくようにパンを口に押し込む姿が見える。


「……ふふ、いいザマだ」


俺は独り言を漏らす。

あと数年もすれば、この世界のシナリオは佳境に入る。

その時、この少女は俺のために、どんな絶望の声を上げてくれるだろうか。

俺を殺す勇者に向かって、どんな呪いの言葉を吐いてくれるだろうか。


(俺が壊して、完成させてやる。……ああ、楽しみだ)


その様子を、扉の影からクラリスが見つめていた。

彼女の瞳には、かつてのような軽蔑はない。

理屈は通っている。己の駒を最高に磨き上げ、最大限の効率で使い潰す。それは確かに、この冷徹な公爵が選びそうな道だ。

……なのに、従うことに、微かな、けれど確かな「躊躇」が生まれている。

論理では説明できない、胸の奥を這いずるような不穏な予感。


「……面白い」


その呟きは、もはや観察者の余裕を失っていた。

理解できるはずなのに、どうしても理解しきれない「何か」が、この部屋の空気を静かに侵食していることに、彼女はまだ気づいていない。




*****




レインが寝静まった後。

与えられた清潔な寝床の中で、リリアは眠れずにいた。

自分の手を見る。泥は落ち、爪は整えられ、獣の耳は清潔な毛並みを取り戻している。


(……汚しちゃったのに)


暗闇の中で、主人の漆黒のコートが泥にまみれる瞬間を思い出す。

本来なら、首を飛ばされてもおかしくなかった。

けれど、主人は私を抱き上げた。

汚れたままの私を、腕の力を緩めずに、あの冷たい雪の匂いで包んでくれた。

心臓がうるさい。

怖い。

逃げ出したい。

けれど、この部屋から一歩でも出たら、二度とあの方に「汚すな」と言ってもらえなくなる気がした。

リリアはベッドから抜け出し、主人の部屋の前に向かった。

なぜそこにいるのか、自分でも分からなかった。

ただ、扉一枚隔てた向こう側に、あの「死」の匂いが存在していることを確かめなければ、何かが致命的に壊れてしまうような気がした。

冷たい床の上に丸まり、尻尾を抱える。

扉の隙間から漏れ聞こえる主人の寝息に、リリアは初めて、呼吸の仕方を思い出した。


(汚さない。……壊れない。……あの方の、ために……)


それは誓いというほど高尚なものではない。

ただ、生きるために必要な「執着」が、彼女の魂を歪な形にねじ曲げていく。

暗闇の中で、リリアの尻尾が、微かに、けれど激しく震えた。


それは、恐怖と悦楽の境界線が、二度と修復できないほどに崩壊した証拠だった。


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