1.冷徹な暴君
──―ああ、やっと終わる。
最後に見た光景は、猛スピードで突っ込んでくるトラックの暴力的なまでに白いライトだったのか。
それとも、何日もろくに眠らずゲームをやり続けたせいで、視界が黒く潰れていっただけだったのか。
もはや、判別する気力すら残っていなかった。
肺を執拗に押し潰していた社畜生活の重苦しい圧迫感は嘘のように消え失せ、その代わりに、剃刀のように鋭い空気が喉の奥まで一気に流れ込んでくる。
「……っ、は、……ぁ」
焼けるような痛みとともに、暴力的なまでの「生の実感」が脳の奥を直接叩くようにして広がっていく。
視界が一度、真っ白に爆ぜた。
次にまぶたを開いたとき。
俺を待っていたのは、音を吸い込むような重厚な沈黙と、肌の表面をなぞるようにまとわりつく、貴族の屋敷特有の、無駄に整えられた冷たさだった。
ゆっくりと、自分の手を視覚の内に持ち上げた。
白磁を削り出したかのように滑らかで、指の節すらも一級の芸術品のように整っている。
だが、その静謐な美しさとは裏腹に、指先からは周囲の空気を物理的に歪めるほど濃密な、暴力的なまでの魔力の気配が漏れ出していた。
それが血管をなぞるように腕を遡ってくる感覚が、じわじわと現実を侵食してくる。
俺はふらつく足で、絹のシーツが敷かれた巨大なベッドから降りた。
足元に敷かれた厚い絨毯が、足音を完全に吸い殺す。
その、世界から拒絶されているかのような感覚に微かな苛立ちを覚えながら、壁一面を覆う巨大な姿見の前へと歩を進めた。
そして――俺は、俺と出会った。
「……うそだろ」
そこに立っていたのは、闇そのものを塗り固めて流し込んだような、光を吸い込む漆黒の髪を持つ青年だった。
他者を踏みにじるために存在しているような、鋭く無機質な氷色の瞳。
薄く引き結ばれた唇、無駄のない顎のライン。
ただ立っているだけで周囲の空間を支配し、見る者を強制的に跪かせるような、圧倒的な「格」。
「レイン・ヴァルディア……」
思わず、その名を口にしていた。
何度も殺した。何度も殺された。
ゲーム『断罪の冥宮』における最初にして最大級の壁。数々の暴虐を尽くした果て、最後は――必ず、あの処刑台で終わる男。
この男は、必ずあの場所で死ぬ。シナリオの絶対的な収束点。例外は、一度もない。
「はは……マジかよ……」
乾いた笑いが漏れる。
指先が、わずかに震えていた。
逃げたいか?
一瞬だけ、生存への本能が冷たい汗となって背中を伝う。公爵という権力を使い、今すぐすべてを投げ出して逃げれば、あの断頭台の露とならずに済むのではないか、と。
だが。
鏡の中の男と視線がぶつかった瞬間、俺は――笑っていた。
俺はこの男の最期を、誰よりも愛していた。
あの瞬間のためだけに、俺は何度でも最初からやり直した。
民衆に罵声を浴びせられながら、返り血で世界を汚しながら、それでもなお不敵に笑って満足げに死ぬあの光景。
あの処刑シーンこそが、このゲームの、ひいては俺の人生の最高傑作だった。
「……ふざけんな。やるしかねえだろ、こんなの」
俺は震える膝を自らの手で押さえつけ、鏡の中の「暴君」を整える。
口角を傲慢に釣り上げ、氷色の瞳に他者を寄せ付けない冷徹さを宿す。
設定は壊さない。シナリオは歪めない。
俺は、俺が惚れ込んだ史上最悪の男として君臨し、そして――。
コン、コン。
静まり返った寝室に、等間隔で打たれる乾いた音が響いた。
控えめでありながら、主人の睡眠を妨げず、かつ確実に意識を覚醒させる──
教育の行き届いた筆頭メイド特有の、洗練されたノックの音。
「閣下、お目覚めでしょうか」
扉の向こうから届いたのは、感情の起伏を一切排した、楽器のように整った女の声だった。
筆頭メイド、クラリス。
断罪に手を貸しその死を無表情に見届けるはずの共犯者の一人だ。
以前のレインであれば、この声を聞いた瞬間に苛立ちを爆発させていただろう。
返事の代わりに枕元の高価な水差しを扉へ投げつけ、粉々に砕ける音と罵声で朝を開始する。それがこの部屋の、いつもの「儀式」だったはずだ。
だが、今の俺はただ、沈黙していた。
鏡の中の自分──完璧な悪役の容姿に見惚れ、自らの破滅をプロデュースするという狂気に酔いしれながら、静かに扉の向こうの気配を探る。
その「静寂」が、異常だった。
単なる不在の静けさではない。
確かな熱を持った人間がそこに居ながら、怒号も物音も立てず、ただ底知れない深淵のような意思を持って佇んでいる。
その異質な沈黙を、扉一枚隔てた彼女の鋭敏な知性が、瞬時に嗅ぎ取った。
「…………」
わずか数秒。
扉の向こう側で、微かに衣擦れの音がした。
彼女が姿勢を正し、あるいは無意識に身構えた証拠だ。
常に冷静沈着を貫く彼女の呼吸が、ほんの一瞬だけ、鋭く、硬く、強張ったのが分かった。
(気づいたか、クラリス……)
以前のレインとは「沈黙の質」が違う。
それを彼女は、見たこともない異物を見るような、薄い恐怖の混じった警戒心で受け止めている。
俺はわざとらしく、冷徹な響きを帯びた声を絞り出した。
「ああ、今行く。……待たせたな、クラリス」
その一言に、以前のような浅薄な怒りは混じっていない。
代わりに宿っているのは、他者を道具としてのみ認識する、絶対的な支配者の余裕。
扉を開けると、そこには完璧な一礼で控えるメイドがいた。
彼女は俺と視線がぶつかった瞬間、ほんの一瞬だけ眉を動かした。
構わずに彼女の横を通り過ぎる。
向かう先は、泥と絶望の地下市場。
そこに、俺の死を完成させるための、最高の素材が転がっているはずだ。
*****
地下奴隷市場の最奥は、値札をつける価値すら失われた命が、ただ腐り落ちるのを待つだけの「廃棄場」だった。
「ひっ……かっ、閣下、そ、その方は……!」
案内する商人が、ガタガタと膝を震わせている。
漆黒の髪、氷色の瞳。
俺が歩くだけで周囲の空気が物理的に凍りつき、魔力の重圧に耐えかねた商人たちが、床に這いつくばって道をあける。
俺が作り上げるべき、地獄の景観だ。
「……いたぞ」
鉄格子の向こう。湿った泥と絶望が混ざり合った部屋の隅に、「それ」は転がっていた。
くすんだ銀金の髪は泥で固まり、力なく垂れ下がった獣の耳、そして泥で汚れた太い尻尾。
銀狼族の生き残り。
本来のシナリオであれば、数日後にこの市場で起こる暴動によって、誰に拾われることもなく、歴史の陰で灰になるはずだった存在。
「ゴミかどうかを決めるのは俺だ。……ひっこんでいろ」
一瞥だけで商人の言葉を圧殺し、俺は檻の鍵を魔力でねじ切った。
泥まみれの床を高級なブーツで無造作に踏みしめ、少女の前で立ち止まる。
「……立て。お前を買ってやる」
少女、リリアは動かなかった。恐怖すら枯れ果て、ただ「終わり」が訪れるのを待っている空っぽな目。
俺は彼女の前にしゃがみ込み、泥と排泄物にまみれたその体を、何の躊躇もなく抱き上げた。
(……軽いな)
一瞬、鳥の羽でも拾い上げたような頼りなさに、胸の奥が微かにざわついた。
だが、俺はそれを即座に塗り潰す。
(――非効率だ。この痩せ細った『モノ』では、俺の死の舞台まで持ち堪えられん)
俺は彼女を連れ出そうとし、そして――ほんの一瞬だけ、腕の力を緩めなかった。
そのまま抱え直せばいいものを、何故か、その脆い体温を確かめるように、少しだけ深くその背に腕を回した。
(……何をしている。無駄だ)
すぐに不要な思考を塗り潰し、冷徹な暴君の表情を取り戻す。
「が、閣下!? お召し物が……泥で汚れてしまいます!」
「黙れ。俺が抱きたいから抱く。文句があるのか?」
漆黒の高級コートが、リリアの泥を吸い込んで汚れていく。
そのとき、リリアの体が微かに跳ねた。
自分を泥の中から、ルールも、汚れも、世間の目もすべて踏みにじって連れ去っていく、圧倒的な力。
彼女の鋭い嗅覚が、地下室の腐臭を塗り替えるような、レインから漂う冷徹で清涼な――雪と死の匂いを嗅ぎ取った。
俺は彼女の耳元で、凍りつくような声で囁いた。
「勘違いするな。お前に期待などしない。ただ、俺が死ぬまで俺の視界を汚さずにいろ」
それは、逃げ場のない支配の宣言。
「お前を泥の中から拾い上げたのは、この俺だ。俺の許可なく死ぬことは、絶対に許さん。お前の命は、毛筋一本まで俺の所有物だ」
突き放すような、傲慢極まる言葉。
だが、リリアの胸の中で、その言葉は意味を失い、別の何かに書き換えられていく。
(……汚したのに……打たれなかった……)
(……死ぬまで……離さないって……?)
理解はできない。だが、リリアの泥で固まっていた太い尻尾が、わずかに、しかし確かな意志を持って震えた。
――恐怖のはずなのに、止まらない。
世界で最も美しく、最も醜い終わりを――
俺が壊して、完成させてやる。
……ああ、楽しみだ。
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