10.永遠の定義
公爵邸の書斎は、分厚い絨毯と無数の蔵書によって、この世のあらゆる喧騒から切り離された絶対的な静寂に守られていた。
俺は机に向かい、領地から上がってきた報告書の数字を冷徹に弾き、不要な経費(民の命を含む)を次々と赤いインクで削り落としている。
その机の足元。
俺のブーツのすぐ傍らに座り込んだリリアが、一枚の羊皮紙に向かって、羽ペンを走らせていた。
カリッ、カリッ。
静かな部屋に、不格好だが力強いペンの音が響く。彼女は言葉を「覚える」というより、「喰らって」いた。俺が教えた単語を、俺という神が下した啓示であるかのように、文字の形が崩れるまで何度も何度も上書きしていく。
「……ご主人、さま」
不意に、ペンの音が止まった。
リリアが、羊皮紙を両手で持ち上げ、俺の膝の上にそっと乗せてくる。
「この文字。……覚えました」
彼女が指差したのは、昨日俺が教えたばかりの、画数の多い単語だった。
『永遠』。
「……そうか。ならば、その意味を言ってみろ」
俺が書類から目を離さずに問うと、リリアは少しだけ首を傾げ、金色の瞳を揺らした。
「……終わらない、こと。……壊れない、こと」
「そうだ。始まりから終わりまでの時間が、無限に続く状態を指す。……だが、それは概念上の話だ。現実には、永遠など存在しない。形あるものは必ず壊れ、命あるものは必ず死ぬ」
俺は冷たく言い放った。
俺自身が「完璧な死」を求めているのだ。永遠に続く命など、俺にとっては最も忌むべき呪いでしかない。
だが、リリアは俺のその言葉を聞いて、不安そうに俺のコートの裾を握りしめた。
「……部品には、永遠は、ないですか?」
「あるわけがないだろう。部品は摩耗し、壊れれば捨てられる。それが『物』の道理だ」
俺の無機質な正論。
普通であれば、自分がいずれ捨てられる存在であると突きつけられ、絶望する場面だ。
しかし、リリアは怯える代わりに、俺の膝に顎を乗せ、獲物を狙うような熱を帯びた瞳で俺を見つめ返してきた。
「……じゃあ。……私が、壊れなかったら」
「……私が、ずっと、ご主人さまの『部品』のままだったら」
彼女の指先が、俺のブーツの革をゆっくりとなぞる。
「ご主人さまが、終わるその時まで。……私は、ご主人さまの『永遠』ですか?」
「…………」
俺のペンが、ピタリと止まった。
彼女のその言葉は、あまりにも狂気に満ちていた。
『自分が永遠かどうか』ではない。『ご主人さまの永遠になれるか』。
俺が死ぬその瞬間まで、俺の所有物として存在し続けること。それこそが、彼女にとっての「永遠」の定義だと言うのだ。
背筋に、微かな悪寒が走る。
この少女は、俺が与えた言葉を、完全に俺への狂信の材料として歪ませ、自分自身の魂を縛り上げる鎖に作り変えている。
(――だが、都合がいい)
俺は即座に、その人間としての悪寒を「合理」で押し潰した。
(俺の処刑台の下で、最も美しい絶望を叫ばせるためには、これくらいの執着が必要だ。俺の死がこいつの『永遠の終わり』であるならば、その時の悲鳴は、間違いなく至高の芸術になる)
「……ああ。そうだ」
俺は冷徹に口角を吊り上げ、彼女の銀金の髪を無造作に撫でた。
「お前が壊れない限り、お前の命は俺の終わりまで俺のものだ。……せいぜい、俺の死の舞台まで、その安い命を維持することだな」
「……は、ぃ。……ご主人、さまの、永遠……」
俺の残酷な宣告を、リリアは世界で最も甘い愛の言葉のように受け取り、恍惚としたため息を漏らして俺の手のひらに頬を擦り付けた。
彼女の狂信は、ついに「概念」という強固な骨組みを手に入れたのだ。
コン、コン。
その時、書斎の扉がノックされた。
「閣下。王都より、急ぎの書状が届いております」
クラリスが、銀のトレイに一通の封書を乗せて入ってくる。
王家の紋章である、獅子の蝋封が押された重厚な手紙。
「……建国祭の夜会か。随分と気の早い招待状だな」
俺は蝋封を魔力で焼き切り、中身に素早く目を通した。
二週間後、王都で開催される大規模な夜会。王族はもちろん、国中の有力貴族が一堂に会する場だ。
(……来たか)
俺の脳内のシナリオチャートが、カチリと音を立てて進む。
この夜会は、悪役であるレイン・ヴァルディアが、他の貴族たちを徹底的に見下し、暴虐の限りを尽くして「ヘイト」を集めるための重要なイベントだ。
ここでの傍若無人な振る舞いが、後の俺の処刑を正当化するための決定的な布石となる。
「……出席する。準備を進めろ」
「かしこまりました。……では、閣下の夜会用の衣装の手配と、馬車の――」
「待て」
俺はクラリスの言葉を遮り、足元で丸まっているリリアを見下ろした。
(俺が王都へ行っている間、こいつを屋敷に置いていくか? ……いや、駄目だ。俺の目が届かないところで、他の無能なメイドがこいつに触れでもしたら、せっかく調律した『排他性』にノイズが混ざる。こいつは俺の世界の部品だ。他人の手垢がつくのは、著しく非効率だ)
俺は、自分がただ「こいつを自分以外の人間から遠ざけたい」という無自覚な独占欲に突き動かされていることなど微塵も疑わず、完璧な『悪役の理屈』を口にした。
「こいつも連れて行く。……夜会用のドレスを用意しろ」
「…………はい?」
クラリスの完璧な無表情が、この時ばかりは明確に崩れた。
「閣下。……王家の主催する建国祭の夜会に、奴隷を、連れて行かれると?」
「何か問題があるか?」
「問題しかございません。神聖な夜会に、非人間である奴隷を連れ込むなど、王家への明確な侮辱です。他の貴族たちからも、どれほどの反感を買うか……」
「それが狙いだ」
俺は不敵に笑い、手元の書状を机に放り投げた。
「俺はヴァルディア公爵だ。俺がただのペットを連れ歩くことに、誰の許可もいらん。……王家の夜会に泥を塗り、有象無象の貴族どもを見下す。その傲慢さこそが、俺の持つ絶対的な『力』の証明になる。……最高の見せ物だろう?」
完璧な理屈だ。
悪役としてヘイトを集めるという本来の目的と、リリアを他の人間に触れさせないという実務的な目的が、見事に合致している。俺の冷徹な計算能力に、自分でも惚れ惚れする。
「……左様、でございますか」
クラリスは、数秒の沈黙の後、深く頭を下げた。
だが、その視線は俺の顔ではなく、俺の足元で「ご主人さまについていける」という喜びに震えているリリアに向けられていた。
(……王家への侮辱。貴族への牽制。……ええ、理屈は通っていますよ、閣下。ですが……)
クラリスは心の中で、毒を吐き出すように笑った。
(その実態は、ただ『自分の気に入ったおもちゃを、片時も手放したくない』という、子供のような執着ではありませんか。……それをご自身で全く自覚なさっていないところが、本当に……恐ろしくて、愛おしい)
「では、すぐに王都で一番の仕立て屋を呼び寄せましょう。夜会に間に合わせるには、今日中に採寸を済ませる必要がございます」
クラリスの言葉に、俺は短く頷いた。




