11.黒の仕立て
その日の午後──。
公爵邸の客間に、王都から急遽呼び出された一流の仕立て屋が到着した。
「おお……なんと美しい銀金の髪。しかし、これほどお痩せになっていては……」
恰幅の良い女性の仕立て屋は、俺の前に立たされたリリアを見るなり、プロの目つきになってメジャーを取り出した。
「さあ、お嬢さん。腕を上げてください。すぐに素晴らしいドレスを――」
仕立て屋が、リリアの体に触れようと手を伸ばした、その瞬間。
「――ガルァッ!!」
リリアの喉から、鼓膜を裂くような殺意の籠もった唸り声が響いた。
彼女は牙を剥き出しにし、仕立て屋の手を噛み千切らんばかりの勢いで威嚇した。
「ひっ!?」
仕立て屋が悲鳴を上げて尻餅をつく。
リリアはそのまま俺の背後に隠れ、俺のコートを強く握りしめながら、仕立て屋を睨みつけた。
「……汚い。……触るな。……ご主人、さまの、部品に……ゴミが、触るなっ……!」
リリアの排他性は、すでに俺の想像を絶するレベルまで完成されていた。
俺以外の人間が触れることは、彼女にとって自分の存在価値を根底から汚される、死以上の恐怖と嫌悪の対象となっていたのだ。
「か、閣下! このような野獣の採寸など、私には到底……!」
震える仕立て屋を見下ろし、俺は深いため息をついた。
(……チッ。やはり他人に任せるのは非効率だ。怯えた人間の手では正確な採寸などできんし、何より……こいつが他人の手で触られ、他人の見立てた布を纏うこと自体が、俺の美意識に反する)
俺は、己の内に渦巻く黒い独占欲を「美意識」という言葉でコーティングし、冷徹に言い放った。
「帰れ。お前のような臆病者に、俺の部品を触らせる気はない。……ドレスの代金と手間賃は払ってやる。その最高級の黒の絹布だけ置いて、さっさと消えろ」
「え、は、はいぃっ!」
仕立て屋は逃げるように布と道具を置き、客間から転がり出ていった。
後に残されたのは、俺と、俺の背中に隠れて震えるリリア、そして壁際に控えるクラリスだけだ。
「……閣下。プロを追い返して、どうされるおつもりですか? 採寸ができなければ、ドレスは作れませんが」
クラリスの冷静な問いかけに、俺は置いていかれた漆黒の絹布を手に取った。
光沢のある、闇夜を切り取ったかのような極上の布。
「俺が仕立てる」
「……はい?」
クラリスの完璧な無表情が、本日二度目の崩壊を見せた。
「俺の所有物に、俺以外の不純物の手垢がつくのは許さん。……それに、採寸などというアナログな手法は非効率だ。魔法を使えば、数秒で終わる」
俺はリリアの前に立ち、その肩を掴んだ。
「リリア。動くな」
「……はい、ご主人、さま」
俺はリリアの体に、ふわりと漆黒の絹布を被せた。
そして、両手に圧倒的なまでの魔力を練り上げる。
左手に、絶対零度の『氷結魔法』。
右手に、すべてを溶かす『灼熱魔法』。
戦場において、数千の軍勢を一人で消し飛ばすための、戦略級の二つの魔力。
俺はそれを、髪の毛一本ほどの極細の糸の形状にまで圧縮し、制御した。
「……いくぞ」
俺の指先が、リリアの体を覆う布の上を滑る。
右手の熱が、余分な布を瞬時に焼き切り、同時に繊維の端を溶かして「縫合」していく。
左手の冷気が、溶けた繊維を即座に冷却し、一切のほつれがない完璧なラインとして固定する。
熱と氷。
その二つの魔力が、リリアの体の曲線に沿って、寸分の狂いもなく踊る。
「……あ、ぁ……っ」
リリアは、熱と冷気が自分の肌の数ミリ外側を滑っていく感覚に、身をよじらせて甘い吐息を漏らした。
俺の圧倒的な魔力が、自分を包み込み、自分という形を新しく作り変えていく。
それは、仕立て屋の採寸などという俗悪な行為ではない。
神が、自らの手で泥人形に形を与え、魂を吹き込む儀式そのものだった。
数分の後。
俺の指が止まると同時に、布がハラリと床に落ちた。
そこには、リリアの細くしなやかな体躯に完璧にフィットした、漆黒の夜会用ドレスが完成していた。
俺の着ているコートと同じ、深い黒。
まるで俺の影そのものが、少女の形をとって立ち上がったかのような、圧倒的な一体感。
「……よし。これでいい。仕立て屋に任せるより、遥かに効率的だ」
俺は魔力を霧散させ、満足げに頷いた。
(戦略級魔法の精密制御の訓練にもなった。一石二鳥だ)と、心の中で完璧な言い訳を構築する。
だが、完成したドレスを身に纏ったリリアの様子がおかしい。
「……どうした。サイズが合わないか?」
リリアは、自分の首元を両手で押さえ、顔を青ざめさせて震えていた。
ドレスの首元は、格式高い夜会に合わせてハイネックの形状になっている。
「……ない。……消えちゃった……」
リリアの目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は狂ったように、せっかく仕立てたばかりのハイネックの襟元を、鋭い爪で引き裂こうとし始めた。
「なっ……! おい、何をしている!」
俺が慌てて彼女の手首を掴むと、リリアは泣き叫びながら俺を見上げた。
「だって! ご主人さまがくれた、首輪が……! 見えなくなっちゃった……!」
彼女の首には、市場で俺が買ったあの日から、ずっと銀の首輪が嵌められている。
それは彼女にとって「俺の所有物である」という、世界で最も大切な証明だった。
ハイネックのドレスがそれを隠してしまったことが、彼女にとっては「所有権の剥奪」と同義の恐怖を与えたのだ。
「……チッ。そんなくだらない理由で、俺が仕立てた高価なドレスを破ろうとするな」
俺は舌打ちをし、呆れ果てた。
本当に、こいつの思考回路はノイズだらけだ。
「……泣くな。不快だ。今すぐ直してやる」
俺はリリアの首元に手を伸ばし、ドレスの下に隠れていた銀の首輪を指で掴んだ。
そして、再び右手に『灼熱魔法』を、左手に『氷結魔法』を極限まで圧縮して展開する。
「……動くな」
俺は、リリアの首を絞めている銀の首輪を、魔力の熱で瞬時にドロドロに溶かした。
そして、その溶けた銀を、ドレスのハイネックの襟元の外側へと誘導し、再び氷結魔法で急冷して固定する。
ジュッ、という微かな音とともに。
漆黒のハイネックの襟の「外側」に、まるで美しい銀の刺繍のように、あるいは禍々しい拘束具のように、首輪が完全に一体化して再成形された。
「……これで文句はないだろう。ドレスを破ることなく、お前が俺の所有物であることは、誰の目にも明らかになった」
俺は指先を離し、冷たく言い放った。
「…………あっ、あぁ……っ!」
リリアは、ドレスの外側に固定された銀の首輪を両手で包み込み、その場に崩れ落ちた。
もはや、涙は恐怖のものではなかった。
(……あの方が。……私のために。私が『あの方のもの』であることを証明するために……世界を、作り変えてくれた)
物理的な常識も、ドレスの美しさも、すべてを捻じ曲げて。
俺が彼女の首輪を一番外側に固定したという事実。
それは、リリアの狂信を、もはや後戻りできない完全な『異形』へと昇華させた。
「……ありがとうございます……。ご主人、さまの、永遠……。わたしは、ご主人さまの……」
リリアは床に這いつくばり、俺のブーツに狂ったようにキスを落とし続ける。
その光景を。
壁際でずっと観察していたクラリスは、もはや恐怖すら通り越し、呆然と見下ろしていた。
(……戦略級魔法の同時並行制御を、ただのドレスの仕立てと、首輪の露出のために使う。……これを『効率』と呼ぶ主人の精神構造は、もう、完全に人間のそれを逸脱している)
クラリスは、震える手で自身の口元を覆った。
(……そして、その異常な独占欲を『愛』だと誤認し、神として崇める狂った奴隷。……ああ、なんという地獄でしょう。この二人は、もう誰にも止められない)
クラリスの頬が、病的な熱を帯びて紅潮していた。
彼女自身もまた、この美しい地獄の底なし沼に、全身まで浸かりきっていることを自覚しながら。
王都への出立は、明日に迫っている。
この煮詰まりに煮詰まった「閉鎖空間の猛毒」が、いよいよ外の世界へと撒き散らされる時が来たのだ。




