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16.聖騎士の機能不全と、狂犬の牙

黄金の都ソルフェリオンの片隅に聳え立つ、重厚で冷たい石造りのヴァルディア公爵邸。

外では、あの大聖堂での凄惨な帰還を悼むかのように、冷たい雨が降りしきっている。


王宮の近衛騎士団に戻ることを放棄し、自ら俺の馬車に縋り付いてきたセレナ・レティシアを、俺はひとまず屋敷の空き部屋に放り込んでいた。

かつて太陽のように輝いていた聖騎士は、今やクラリスが適当に見繕った装飾の一切ない質素な黒いワンピースを纏い、まるで魂を抜き取られた空っぽの器のように、薄暗い部屋のベッドの端に座り込んでいる。

俺は書斎の分厚い机に向かいながら、小さく舌打ちをした。


(……それにしても、解せん)


羽ペンを回しながら、俺は眉間を揉みほぐす。

大聖堂でのあいつの豹変ぶりは、俺の完璧なシナリオプランに全くないイレギュラーだった。

俺はあいつの目の前で、暴徒化した難民を冷酷に氷漬けにし、損得勘定だけで命を値踏みして見せたのだ。

順当にいけば、あいつは俺を『絶対に許せない巨悪』として憎み、その憎悪を糧にして光の陣営へと帰還するはずだった。

それなのに。

あいつは泥水の中に這いつくばり、俺にこう言ったのだ。

『私に……命の測り方を、正しい計算式を、教えてください』と。


「……ショックで一時的に錯乱しているだけだ。そうに決まっている」


俺は自分に言い聞かせるように、書類に乱暴なサインを書き殴った。

正義感が強すぎるがゆえに、自らの手から零れ落ちた命の重さに耐えきれず、一時的に思考と責任を放棄しただけだ。

どうせそろそろ、本来の原作主人公がこの王都に到着する頃合いだろう。あいつが「本物の光」に出会えば、必ず立ち直る。そして「あの時、私を絶望させたヴァルディア公爵を討つ!」と、立派な断罪の刃となって俺の首を狙いに来るはずだ。

間違いない。俺の完璧な悪役ヘイト管理に、狂いなど生じるはずがないのだから。


「……ご主人、さま」


足元から、甘く、ひどく独占欲に塗れた声が響いた。

俺のブーツの傍らに丸まっていたリリアが、すり寄るように顔を上げてくる。

大聖堂で難民の首を刈り取ろうとしていた狂犬は、俺の足元でだけは従順な猫のように振る舞う。


「なんだ。文字の練習は終わったのか」


「はい。……あのね、ご主人さま」


リリアは、自分の首元にある鈍色の銀の首輪を大事そうに撫でながら、不満げに唇を尖らせた。

彼女の金色の瞳の奥で、ドロドロとした暗い炎が揺らめいている。


「……あの、汚い女。……ご主人さまの屋敷に、いれないで。……ご主人さまの空気、汚す」


リリアにとって、俺の視線、俺の言葉、俺の命令は、すべて自分だけのものでなければならない。自分以外の人間が俺に「答え」を求めるなど、彼女の排他性が絶対に許容しないのだ。


「……気にするな。あんなものはただの故障した部品だ。お前という完成品が嫉妬するような相手ではない」


「……ほんと?」


「俺が嘘を吐いたことがあるか。……それに、ただ寝かせておくつもりはない。俺の屋敷の飯を食う以上、せいぜい胸糞の悪い泥仕事をさせて、俺へのヘイトを極限まで溜め込ませてやる」


俺が悪役としての「嫌がらせ」の構想を口にすると、リリアは途端に警戒を解き、うっとりと目を細めて俺の手のひらに頬を擦り付けた。

本当にチョロい部品だ。俺の言葉一つで、こうも簡単に統制が取れる。

俺は呼び鈴を鳴らし、控えていたクラリスを呼んだ。


「クラリス。あの『元・聖騎士様』の部屋に、これを持っていけ」


俺がクラリスに渡したのは、一束の分厚い書類の束だ。

それは、来月の領地からの『税収予測と、滞納者からの取り立て(強制差し押さえ)リスト』である。誰の家から何を奪い、誰を強制労働に送るかが明確に記された、情け容赦のない数字の羅列。


「あいつには、この書類の処理と計算を命じろ。……民を救う聖騎士にとって、民から搾取する書類仕事など、耐え難い屈辱だろう。一桁でも計算を間違えれば、飯は抜きだと伝えておけ」


(……どうだ。これであいつの『誇り高き正義感』はズタズタになり、俺への恨みでギリィッと歯を食いしばるはずだ。さあ、俺を憎め。軽蔑しろ!)


俺は悪役としての完璧な嫌がらせを成し遂げ、満足げに鼻で笑った。

クラリスは一瞬だけ目を細め、書類の束を受け取ると、恭しく一礼した。


「畏まりました、閣下。……極上の『毒』を、お届けして参ります」





数時間後。

俺の意図した「嫌がらせ」が、いかに見当違いで、致命的な結果をもたらしたかを、俺はまだ知らなかった。



薄暗い客室。

クラリスから書類の束を受け取ったセレナは、最初はそれが何なのか理解できず、虚ろな目で数字の羅列を見つめていた。

誰からいくら奪い、誰を見捨てるか。公爵の冷酷な『算数』が、そこに可視化されていた。

それを見た瞬間。

セレナの焦点の合っていなかったサファイアの瞳に、奇妙な『光』が宿った。


(……これだ)


セレナは、震える手でその書類の束を掻き集め、まるで神の啓示を記した聖書でも抱きしめるかのように、胸の奥深くに抱え込んだのだ。


(これなら、迷わない。……私が感情に流されて人を死なせることもない。閣下の出した完璧な『計算式』に従って、数字の通りに処理するだけ。……ああ、なんて……なんて安心するの……)


セレナの口角が、歪に吊り上がった。

正義という名の重圧から解放され、冷酷な計算機レイン歯車プログラムの一部として機能することへの、絶対的な安堵感。

彼女は、俺が意図した「憎悪」など微塵も抱いていなかった。

むしろ、自分に「明確な存在意義(絶対間違えない答え)」を与えてくれた俺に対する、狂気じみた『崇拝』と『依存』へと、完全に足を踏み入れたのだ。


「……はい、閣下。……完璧に、計算してみせます……ふふっ」


誰もいなくなった部屋で。

堕ちた聖騎士は、羽ペンを握りしめ、書類に頬を擦り付けながら、壊れたように笑い続けた。

そこからの彼女の集中力は、常軌を逸していた。

魔物を斬るために鍛え上げられた集中力と精神力が、すべて「数字の照合と最適化」へと全振りされたのだ。





さらに数日後。

公爵邸の廊下で、運命の衝突が起きた。

セレナは、処理を終えた分厚い書類の束を胸に抱き、俺の書斎へと向かおうと廊下を歩いていた。

その足取りには、以前のような「虚無」はない。自分の役割(計算)を遂行することだけを目的にした、無機質な機械の歩みだった。

だが、公爵邸の廊下は、彼女にとって安全な場所ではない。


「――どこに行くの。ゴミ」


背筋が凍るような、冷たく透き通った声。

セレナが足を止めると、廊下の闇の中から、一人の少女が音もなく姿を現した。

銀金の髪、漆黒のドレス。

リリアだ。


「……リリア、さん。閣下に、書類を提出しに」


セレナが淡々と答えた瞬間。

リリアの喉の奥から、獣のような低い唸り声が漏れた。


「名前を呼ぶな。……お前の口から出る音が、屋敷の空気を汚す。……ご主人さまの空気を」


リリアは、ゆっくりとセレナに歩み寄る。

その金色の瞳には、人間の感情は微塵もない。あるのは、自らのテリトリーに侵入した異物に対する、純度百パーセントの「殺意」だけだった。


「……ご主人さまは、お前を『部品』って言った。いずれ使うって。……でも、私は知ってる。お前みたいな光の匂いがするゴミは、ご主人さまの隣にはいらない」


リリアの指先が、微かに変形する。

爪が獣のように鋭く伸び、いつでもセレナの頸動脈を引き裂けるよう、筋肉が爆発的に収縮していくのが分かった。


「……だから、殺す」


セレナは、抵抗の構えを一切見せなかった。

それどころか、抱えていた書類を汚されないように庇いながら、自らの無防備な首を差し出すようにして、感情の消えた瞳でリリアを見つめ返したのだ。

「え?」と、リリアの眉が微かに動く。


「私がここで死ぬことが、閣下にとって一番『効率的』なことなら。……貴方の手で、私を壊してください。……私にはもう、自分の命の価値を計算する機能がありません」


それは、聖騎士としての誇りも、生存本能すらも完全に放棄した、異常者の言葉だった。

自分で生きる理由を見つけられないから、殺される理由すら他人に委ねる。閣下の式に不要な変数ならば、排除されるのが当然だと。


「……っ、ふざけるな!」


リリアが激昂した。

彼女が最も許せないのは、自分以外の人間が「ご主人さまの計算(意志)」を勝手に代弁することだ。


「お前みたいなゴミが、ご主人さまの効率を語るなッ!!」


リリアの身体が弾けた。

廊下の壁を蹴り、壁走りから天井を蹴って、真上からセレナの首元へ死の爪が振り下ろされる。

セレナは逃げない。ただ目を閉じ、その『裁き』を受け入れようとした。

――その、コンマ一秒前。


「――『氷盾アイギス』」


絶対零度の声とともに、セレナの眼前で分厚い氷の壁が空間を遮断した。

ガキィィィンッ!!

リリアの鋭い爪が氷の壁に激突し、凄まじい衝撃音とともに砕け散る。

リリアは空中で錐揉み回転して床に着地し、不満げに舌打ちをしてから、廊下の奥へと深く頭を下げた。


「……ご主人、さま」


そこには、苛立たしげに眉間を揉みほぐす俺の姿があった。


「朝から猿のように騒ぐなと言ったはずだ、リリア。……それに、俺の屋敷の廊下を血で汚すな。掃除にかかる人件費がもったいない」


俺は冷徹に言い放ち、氷の壁を霧散させた。


(……チッ。やはりこいつら、鉢合わせれば殺し合いになるか。まあ当然だ。狂犬のリリアが、部外者を許すはずがない)


俺は内心でため息をつきながらも、この状況を「悪役として完璧なシナリオ進行」だと解釈していた。


(セレナの奴、抵抗すらしなかったな。……俺に絶望させられた上に、俺の奴隷に理不尽に殺されかける。これでこいつのプライドはズタズタになり、俺への憎悪ストレスは限界点に達したはずだ。……そろそろ王都に着くであろう主人公と再会した時、この反動で最高の断罪イベントが起きるぞ)


俺は自分の見事なヘイト管理に酔いしれながら、セレナを見下ろした。


「おい、セレナ。死にたがりごっこなら外でやれ。俺の視界でうろつくのは不快だ。さっさとその書類を置いて部屋に戻れ」


「……申し訳ありません、閣下。直ちに」


セレナは床に膝をつき、深く頭を下げて書類を差し出した。

俺はそれを乱暴にひったくり、踵を返す。リリアも、俺の後にくっついて「ご主人さまは私だけのもの」とばかりにセレナを見下し、歩き去っていった。


誰もいなくなった廊下で。

セレナは、俺に言われた通り、冷たい石の床に這いつくばったまま、口元を歪めて歓喜に震えていた。


(ああ……閣下は私を、まだ使うと言ってくださった。私を庇ってくださった。……私はまだ、数字としての価値があるんだわ……!)


書斎に戻った俺は、セレナから奪い取った書類を机に投げ出し、適当に中身を確認した。

どうせ、正義感に駆られて「こんな可哀想な人たちから税を取るなんて!」と、泣き言でも書き連ねているのだろうと思ったのだ。

だが。


「…………は?」


俺の持っていた羽ペンが、ポロリと床に落ちた。

書類の束には、俺の提示した基準よりもさらに冷酷で、一切の無駄を省いた完璧な『搾取の計算式』がびっしりと書き込まれていた。

それどころか、欄外には『この村は生産性が低いので、税を二割増しにして子供を王都の工場へ強制労働させるべきです。それが最も効率的です』という、悪魔のような追加提案まで添えられているではないか。


「……クラリス」


俺は震える声で、控えていたメイドを呼んだ。


「あいつ……セレナの奴、おかしくなったのか?」


「ええ、完全に」


クラリスは、ティーポットを置きながら、恍惚とした笑みを浮かべた。


「閣下という名の『絶対の計算機』に接続され、感情というバグを完全に排除した、最高の事務処理装置に生まれ変わったようです。……あの速度と正確性、もはや王宮の文官の数十倍の働きを見せております」


「いや、違うだろ! なんで民を救う聖女が、俺よりエグい増税案出してんの!?」


「おめでとうございます、閣下。……狂信の戦闘奴隷リリアに続き、冷酷な演算装置セレナまで手に入れるとは。……これでもう、この屋敷の異常性は、誰にも止められませんね」


俺は、窓の外の雨を見つめながら、背筋に一筋の冷たい汗が流れるのを感じていた。


(……待て。違う。俺はそんなことを望んでいない)


(あいつは主人公と一緒に俺を断罪する刃だぞ? なんで俺の領地経営の効率化に本気で貢献しようとしてるんだ?)


俺の悪役シナリオが、全く想定していない斜め下の方向へ爆走し始めている。

だが、もう遅い。

公爵邸という名の毒の沼に、原作ヒロインは、もはや頭の先までどっぷりと沈み切っていたのだ。

そして、この「異常な屋敷」の均衡が、遠からず王都全体を巻き込む大惨事――『開門祭』の暴走へと繋がっていくことを、俺はまだ知る由もなかった。


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