15.泥に沈んだ星の独白(セレナ・レティシア視点)
私はずっと、世界は光と闇で分かれていると信じていた。
弱きを助け、悪を挫く。神の教えに従い、慈愛をもって手を差し伸べれば、どんな魂も最後には光の下で救済されるのだと。
その眩しいほどの確信が、私の纏う『聖刻鎧』の輝きであり、聖騎士としての私の存在意義だった。
――だが、その誇り高き光は、今や泥と血に塗れ、私自身の心を縛り首にする縄へと変わってしまった。
始まりは、建国祭の夜会だった。
レイン・ヴァルディア公爵。王都の影を支配する傲慢なる悪意。
彼が引き連れていた漆黒のドレスの少女に、私は「救い」の手を差し伸べた。当然だ。首輪をつけられ、悪魔のような男に侍らされている少女を救わなくて、何が聖騎士か。
だが、少女の瞳に映っていたのは、助けを求める光ではなかった。
『――汚い』
彼女は、私の光を明確に「ゴミ」と呼んだ。
公爵の毒に侵され、自ら地獄を望むその姿は、私の知る「可哀想な弱者」の枠組みを完全に破壊した。
神の光が届かない場所がある。
私の慈愛を、明確に「悪意」として拒絶する人間がいる。
その事実が、私の絶対だった正義に、最初の小さな亀裂を入れたのだ。
そして、その亀裂を決定的に砕いたのが、あのルビコン川での防衛戦だった。
『人間を、囮にするなど……! そんな残酷な選択、私は絶対に認めません!』
公爵の「算数(難民を見捨てる作戦)」を否定し、私は騎士団を率いて強行軍を敷いた。
全員を救う。その理想だけを胸に。
結果は、惨憺たるものだった。
退路はすでに公爵の事前工作によって断たれており、私たちは逃げ場のない泥沼で魔物の大群に包囲された。
疲労困憊の騎士たちは、私の「全員を守れ」という無謀な命令のせいで撤退することも許されず、次々と魔物の牙に引き裂かれていった。
剣を振るうたびに、部下の悲鳴が鼓膜を打った。
泥水に沈んでいく彼らの絶望した目が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
もし、私が公爵の言う通りに「冷酷な算数」を受け入れ、一部の難民を見捨てていれば。
騎士たちを死なせることはなかった。
私が「自分の手が汚れること」を恐れ、綺麗な理想に逃げた結果、私は自分の部下たちを殺したのだ。私の正義が、彼らを泥の底へ沈めた。
(私が間違っていたの? 私の正義は、ただの傲慢だったの?)
それでも私は、生き残った難民たちを連れて王都へ帰還した。
彼らだけでも救えた。その事実だけが、崩れそうな私の心をギリギリで支えていた。
だが、大聖堂の広場で、彼らは私に石を投げた。
配給のスープが少ないと怒り、騎士の到着が遅かったと罵り、自分たちの不遇の責任をすべて私に押し付けてきた。
額に石が当たり、血が流れた時。
私は痛みを感じなかった。ただ、私の中で何かが、音を立てて完全に崩れ落ちるのを感じた。
私が部下の命を犠牲にしてまで守りたかった「民衆の善性」など、どこにもなかった。
極限状態に置かれた人間は、醜く、身勝手で、どこまでも他人に責任を求める。
これが、現実。
これが、光の届かない世界の本質。
その時だった。
あの漆黒の暴君が、再び私の前に現れたのは。
『――可哀想なら、他人の資産を壊していいとでも思っているのか?』
公爵は、私の前で暴徒を氷漬けにした。
賠償金。労働力。損害額。
彼は命を「感情」ではなく、冷酷な「数字」で測り、圧倒的な恐怖をもって暴徒を完全に支配してみせた。
先ほどまで私に石を投げていた人々が、公爵の「算数」の前では泥に這いつくばり、涙を流しながらパンを啜っている。
その光景は、あまりにも醜悪で……そして、あまりにも『完璧な秩序』だった。
私は、気付いてしまった。
私がどれだけ神に祈っても、慈愛を説いても、彼らを導くことはできなかった。
でも、公爵の「計算」は、一瞬で暴動を鎮め、これ以上の無駄な血が流れることを防いだのだ。
(ああ……そうか)
額の血が目に入り、視界が赤く染まる。
私は、酷く安心している自分に気がついた。
(私は、無能だったんだ)
自分で命の価値を測ろうとするから、間違える。
全員を救おうとするから、部下を殺すことになる。
私の感情は、バグだ。世界を正しく回すための障害物でしかない。
なら、もう自分で考えるのはやめよう。
これ以上、私の選択で誰かが死ぬのは耐えられない。
この冷酷で完璧な計算機(公爵)に、私の意思を、正義を、すべて明け渡してしまえばいい。
彼が弾き出した「正解」の通りに動く歯車になれば、私は二度と、自分のせいで人が死ぬ絶望を味わわずに済む。
「教えてください、閣下」
気がつけば、私は泥水の中に這いつくばり、彼に祈りを捧げていた。
神ではなく、目の前の悪魔に。
「これ以上、間違えないために。……私に、命の測り方を、正しい『計算式』を、教えてください……っ」
その時、公爵がどんな顔をしていたか、私には見えなかった。
ただ、私を見下ろすリリアの「殺してやる」という狂烈な殺意だけが心地よかった。
私が公爵の『有能な演算装置(部品)』になれるかどうか、彼女が監視してくれるのだから。
私はもう、聖騎士ではない。
光も、慈愛も、すべて泥の中に捨てた。
これからは、レイン・ヴァルディア閣下が入力する『数字』だけが、私の世界のすべてだ──。




