14.救済の果て、あるいは泥を喰む羊たち
黄金の都ソルフェリオン。
その巨大な白磁の正門が重々しい音を立てて開いた時、沿道に集まった市民たちは、凱旋を称える歓声を上げることはなかった。
代わりに広場を支配したのは、息を呑むような沈黙と、ハンカチで鼻を覆う衣擦れの音だけだった。
「……ひどい悪臭だわ。あれが、本当に近衛騎士団なの?」
「見ろよ、あの聖騎士様を。まるで泥水から這い出てきた亡霊じゃないか」
囁き声は、好意的なものではない。
数日ぶりの帰還を果たした討伐軍は、それほどまでに凄惨な姿をしていた。
煌びやかだった銀の甲冑は魔物の返り血と泥で黒く汚れ、五体満足で歩いている者は半数にも満たない。多くの騎士が欠損した腕を押さえ、あるいは仲間を引きずるようにして歩を進めている。
その先頭を歩くセレナ・レティシアの姿は、さらに痛ましかった。
『聖刻鎧』から放たれていた黄金の光は見る影もなく明滅し、泥に塗れた黄金のポニーテールには、乾いた血の塊がこびりついている。
彼女の背後には、難民キャンプから辛くも生き延びた千人ほどの民が、亡者のような足取りで続いていた。
(……ようやく、着いた)
セレナは、虚ろな視界の中で黄金の街並みを見上げた。
(私たちが帰還したのだから、すぐに神殿からの救護班が来る。温かい食事と、清潔なベッドが用意されるはずだ。……これ以上、誰も死なせずに済む)
彼女は激しい疲労と魔力枯渇による眩暈に耐えながら、生き残った難民たちを王都の外縁区にある大聖堂の広場へと誘導した。
だが、そこからが、聖騎士セレナの心を決定的にへし折る『第二の地獄』の始まりだった。
大聖堂の広場に運び込まれた難民たちに対し、王家から支給されたのは、最低限の硬い黒パンと、具のほとんど入っていない薄いスープだけだった。
本来なら十分な備蓄があるはずのソルフェリオンだが、「身元の知れない、病気を持っているかもしれない難民に、王都の備蓄を回すわけにはいかない」という、貴族院の冷酷な決定が下されたのだ。
「……なんだ、これは。こんなもので足りるわけがないだろう!」
広場の片隅で、スープの木碗を叩き割る音が響いた。
それは、セレナが魔物の顎から身を挺して救い出した初老の男だった。
「俺たちは家も畑も全部失ったんだぞ! 聖女様なら、もっとマシなもんを出して俺たちを保護するのが筋だろうが!」
その怒声が、張り詰めていた難民たちの不満に火をつけた。
極限の恐怖から解放された人間が次に抱くのは、感謝ではない。失ったものに対する執着と、自分たちをこんな目に遭わせた者への「責任転嫁」である。
「そうだ! そもそも騎士団の到着が遅かったから、俺の妻は死んだんだ!」
「あんたたち、自分たちだけ盾の後ろに隠れて、私たちを魔物の前に突き出したじゃないか!」
「死んだ家族を返せ! この偽善者!」
怒りの矛先は、魔物でも、王家でもなく、最も自分たちに近くて反撃してこない存在――泥だらけになって彼らを守り抜いた騎士たちと、聖騎士セレナへと向けられた。
「や、やめてください……! 騎士たちは、皆さんのために命を懸けて――」
セレナが庇うように前に出た瞬間。
群衆の中から投げられた石が、彼女の額に命中した。
パシッ、という鈍い音と共に、セレナの白い肌が切れ、一筋の赤い血が泥だらけの頬を伝って流れ落ちる。
「隊長ッ!!」
生き残った副官が激昂し、剣の柄に手をかけた。
だが、セレナはその手を力なく制止した。
(……痛くない。これくらい、彼らが失った痛みに比べれば)
セレナは、自分の額から流れる血を拭いもせず、ただ悲痛な瞳で群衆を見つめた。
(私が無力だったからだ。私が全員を無傷で救えなかったから、彼らはこんなにも傷ついている。……私が、この石の痛みを受け止めれば、彼らの心は少しでも救われるのだろうか)
「ほら見ろ! 聖女様は抵抗できないぞ!」
「俺たちの痛みを知れ!」
セレナが無抵抗であることを悟った群衆は、さらに暴徒と化した。
次々と投げつけられる石や泥。
罵声。唾棄。
それは、セレナが命を懸けて守りたかった「民衆の善性」が、音を立てて崩れ去っていく光景だった。
「……なぜ」
石をぶつけられながら、セレナのサファイアの瞳から、ついに大粒の涙が溢れ落ちた。
救いたかった。
彼らの笑顔が見たかった。
そのために、半数の部下を泥の底に沈めてまで、彼らの手を引いてきたのに。
返ってきたのは、感謝ではなく、際限のない要求と暴力だった。
「神よ……。これが、私の守りたかったものの正体ですか……?」
セレナの膝が、石畳の上に崩れ落ちそうになった、その時である。
「――まったく。ゴミはどこまで行ってもゴミだな」
大聖堂の広場を、絶対零度の声が支配した。
その声が響いた瞬間、暴徒化していた難民たちの足元から、急速に白い霜が這い上がった。
「ヒッ……!? 足が、凍って……っ!」
「な、なんだこれ!?」
大聖堂の入り口。
漆黒のコートを纏ったレイン・ヴァルディアが、杖をつきながら悠然と姿を現した。
その後ろには、全身から尋常ではない殺気を放ち、今にも難民たちを皆殺しにせんとする狂犬――漆黒のドレスを着たリリアが、低い唸り声を上げている。
「ご主人さま。……ご主人さまの領地の空気を汚すゴミが、たくさんいます。全部、首を引き抜いていいですか」
リリアの十指の爪が、シャキンと鋭く伸びた。
彼女にとって、レインの所有物である王都を汚し、あまつさえ騒音を立てる難民たちは、生かしておく理由のない害虫でしかなかった。
「待て、リリア。無闇に壊すな。……こいつらは、これでも俺の大切な『資産』だ」
レインはリリアの頭を無造作に撫でて静止させると、凍りついた足元に怯える難民たちを見下ろした。
「おい、そこの石を投げた豚。お前が割ったその木碗、一杯三銅貨だ。そして、お前たちが石をぶつけているその聖騎士の治療費と、損失した魔力の回復ポーション代……しめて、銀貨五十枚というところか」
レインは懐から皮の手帳を取り出し、パラパラと捲りながら冷酷に告げた。
「お前たちは今、王都の備品を破壊し、国家の軍事資産である騎士を傷つけた。……その賠償として、今日からお前たち全員を、我がヴァルディア公爵領の『黒水晶鉱山』での強制労働の刑に処す。借金を返すまで、死ぬことは許さん」
「な……ふざけるな! 俺たちは被害者だぞ! 魔物に故郷を奪われた、可哀想な難民だぞ!」
一人の男が恐怖を振り切るように叫んだ。
その瞬間。
レインの目が、人間を見るものではない、純粋な『氷』へと変わった。
「――可哀想なら、他人の資産を壊していいとでも思っているのか?」
ピキィィィンッ!!
男の足元から這い上がった氷が、一瞬にして男の下半身を完全に凍結させた。
「ぎゃああああああああっ!!」
「俺はお前たちの悲劇など一ミリも考慮しない。俺の計算式にあるのは、お前たちが『いくらの利益を生み出し、いくらの損害を出したか』という数字だけだ」
レインは冷徹に言い放ち、群衆全体を見渡した。
「大人しく支給された泥水を啜り、明日からの労働力として自らを保全するなら生かしてやる。……だが、これ以上一ミリでも『権利』を主張して騒ぐなら、この場で全員、氷の彫刻に変えて砕く。……選べ」
「ひぃぃぃっ! す、すみません! 許して、許してぇっ!」
「食べます! スープ、美味しくいただきますからぁっ!」
先ほどまで聖騎士に石を投げ、権利を叫んでいた暴徒たちは。
圧倒的な暴力と、情け容赦のない『数字の論理』を前に、あっという間に地に這いつくばり、泥にまみれたパンを啜り泣きながら食べ始めた。
あまりにも滑稽で、あまりにも醜悪な、命の生存本能。
(……見ろ、セレナ。これがお前が救いたかった民の正体だ)
レインは内心で、極上のエンターテインメントを楽しむようにほくそ笑んだ。
(お前の無償の愛には石を投げ、俺の暴力と損得勘定の前では泥を舐める。これが人間の本質だ。さあ、この理不尽な光景を見て、俺という絶対悪を心の底から憎め!)
俺は、意気揚々とセレナの方へ振り返った。
「見たか、セレナ。お前が部下を半数殺してまで守った『善性』の正体だ。美しいだろう?」
俺はトドメの嫌がらせのつもりで、彼女を嘲笑した。
この屈辱的な言葉で、彼女の正義感が反発し、俺への強烈なヘイト、断罪フラグが完成するはずだった。
だが。
「…………ああ」
セレナは、額から血を流したまま、這いつくばって泥まみれのパンを食む難民たちを見つめていた。
彼女のサファイアの瞳から、光が、感情が、完全に抜け落ちていくのが分かった。
「……閣下の、言う通りでした」
ぽつり、と。
ひび割れたガラスのような声が、セレナの口から漏れた。
「え?」と、俺は間抜けな声を出しかけた。
「私の……私のような曖昧な『慈愛』など、誰も救えなかった。誰も、導けなかった。……人は、明確な『数字』と『恐怖』がなければ、正しく生きることすらできないのですね」
セレナは、ゆっくりと俺の方へ向き直った。
その表情には、俺に対する憎悪など微塵もなかった。
あるのは、自分の信じていた世界が崩壊したことへの虚無感と……目の前で「絶対的な秩序」を敷いてみせた俺の『算数』に対する、異様なまでの【心酔】だった。
「教えてください、閣下」
セレナは、泥に汚れた床に両膝をつき、祈るように両手を組み合わせた。
それは、かつて彼女が神に対して行っていた祈りのポーズと、全く同じだった。
「これ以上、間違えないために。……私に、命の測り方を、正しい『計算式』を、教えてください……っ」
「…………は?」
俺の冷徹な悪役の仮面が、音を立ててズレた。
待て。違う。
なんで俺に祈っている? なんで俺に教えを乞うている?
お前は、光の勇者と一緒に俺を断罪するメインヒロインだろうが! なんで俺の冷酷な全体主義に感銘を受けて、勝手に闇堕ちしようとしているんだ!?
俺が予想外の展開にフリーズしていると、足元でリリアが「シャーッ!」と猫のように毛を逆立てた。
「……ご主人さまの数字を、お前がもらうな。ゴミのくせに」
リリアは、自分以外の人間がレインの「システム」に組み込まれようとしていることに、耐え難い殺意を抱いていた。
大聖堂の広場。
泣きながら泥を啜る難民たちと。
神を捨て、悪魔の計算機にすがりついた堕ちた聖騎士。
そして、それに殺意を向ける狂信の奴隷。
「……ふふっ、あはははっ」
少し離れた場所で、この地獄のすべてを観測していたメイドのクラリスだけが、腹を抱えて嗤っていた。




