13.泥に沈む光、あるいは正義の代償
東部国境、キール砦周辺の難民キャンプ。
そこは今、天を突く異形の咆哮と、逃げ場を失った民の絶望が渦巻く、この世の掃き溜めと化していた。
「――光よ、薙ぎ払えッ!」
ぬかるんだ泥と血の混じる大地の上で、聖騎士セレナ・レティシアの白銀の剣が閃いた。
聖刻鎧から溢れる黄金の魔力が刃を包み、前方に群がっていた四つ足の異形――肉が腐り落ち、骨と牙だけが異様に発達した魔物たちを、数体まとめて両断する。
「近衛騎士団! 陣形を崩すな! 盾を前に! 難民の避難が終わるまで、絶対にこの線を死守するのです!」
セレナの凛とした声が、魔物の咆哮と人々の悲鳴が交錯する戦場に響き渡る。
王太子の許可を取り、ヴァルディア公爵の冷徹な制止を振り切っての強行軍。到着したのは、防壁が破られる寸前のギリギリのタイミングだった。
彼女は先陣を切り、その圧倒的な神聖魔法で魔物を押し返した。難民たちからは「聖女様だ!」「助かった!」と歓喜の声が上がった。
……だが、その希望は、わずか一時間で絶望へと裏返った。
「隊長! 駄目です、難民の避難が間に合いません! 後方のルビコン川の橋が……あらかじめ落とされています! 退路がありません!」
「なんだと……!?」
伝令の悲痛な叫びに、セレナの顔から血の気が引いた。
『難民キャンプは放棄し、ルビコン川の橋を落として防衛線を張るのが最適解だ』
王宮で、あの漆黒の暴君が吐き捨てた言葉が脳裏に蘇る。
(まさか……閣下は私に提案したのではなく、すでに『実行』した上で私をここへ送り出したというの!?)
退路を断たれた難民たちは、キャンプの広場に密集するしかなかった。
そしてそれは、魔物たちにとって「逃げ場のない極上の餌が、一カ所に集まっている状態」を意味していた。
「くっ、だ、駄目だ! 剣が、抜けな……ぎゃあぁぁぁっ!?」
すぐ右翼で陣形を組んでいた若い騎士が、巨大な蜘蛛の姿をした魔物に頭から丸呑みにされ、甲冑ごと噛み砕かれた。
鮮血と内臓が、泥だらけの地面にぶちまけられる。
「ひぃぃっ! いやだ、来ないでくれ!」
「騎士様! 助け、たすけ――」
戦線が崩れた箇所から、魔物の群れが黒い津波のように難民の列へと雪崩れ込んだ。
悲鳴を上げる間もなく、女も子供も老人も、平等に肉塊へと変えられていく。
「あ……ああ……」
セレナは、返り血で真っ赤に染まった顔のまま、その惨状を呆然と見つめた。
なぜだ。どうしてこうなる。
強行軍によって、騎士たちの体力と魔力は到着時点で底を突いていた。重装備で泥の中を駆け続けた足は鉛のように重く、剣を振る速度はいつもの半分以下に落ちていた。
それでも「全員を救う」という彼女の命令に従い、騎士たちは一歩も引かずに壁となり続けた。
その結果が、これだ。
(私が……私が、彼らをここに留まらせてしまった……?)
もし、ヴァルディア公爵の言う通りに難民を見捨てていれば、騎士団に犠牲は出なかった。
もし、一部の足手まといを切り捨ててでも強行突破を図っていれば、半数の難民と騎士は生き残れたかもしれない。
「全員を救う」という彼女の眩しい正義が、部下たちに撤退を許さず、その足を泥の底へと縫い付けてしまったのだ。
「隊長! 後方からも魔物の増援が! 完全に包囲されました!」
「やめろ……やめて! 神よ、どうか……奇跡を……!」
セレナは悲痛な叫びを上げながら剣を振るうが、もはや個人の武力でどうにかなる局面に非ず。
彼女の聖刻鎧の光は泥と血で汚れ、頼みの神の奇跡は、どこにも降りてこなかった。
(誰か……誰か、助けて……!)
本来の運命であれば、彼女のこの悲痛な祈りに応え、一人の少年が絶望の戦場に駆けつけるはずだった。
だが、その原作主人公は、まだ王都にすら到着していない。
ヴァルディア公爵の「効率的すぎる事前工作」によってシナリオの前提条件が狂い、イベントの発生時期が致命的にズレてしまっているからだ。
誰も、来ない。
光の勇者は現れない。
あるのは、圧倒的な暴力と、命がすり潰される泥の音だけ。
「う、わああああああっ!」
「逃げろ! もうおしまいだ!」
パニックを起こした難民たちが、身を守ってくれていた騎士たちを押しのけて四方八方に逃げ出し、結果として陣形を完全に崩壊させた。
統制の取れなくなった人間は、ただの動く肉だ。
魔物たちが歓喜の咆哮を上げ、無防備な背中へと牙を剥く。
「あ……ああぁぁっ……!」
セレナのサファイアの瞳から、ついに光が消えた。
彼女はただ、狂ったように剣を振り回し、目の前の魔物を斬り捨てるだけの機械と化した。
神への祈りも、正義の言葉も、もう口からは出てこない。泥と血を啜りながら、一秒でも長くこの地獄を引き延ばすことしかできなかった。
――数時間の後。
夜が明け、太陽の光が戦場を照らし出した頃。
腹を満たした魔物の群れが森の奥へと去り、戦場には不気味な静寂が訪れていた。
「……はぁっ……はぁっ……」
セレナは、へし折れた剣を杖代わりにして、泥の海に立ち尽くしていた。
周囲に転がっているのは、無数の魔物の死骸と……それ以上の数の、人々の遺体。
下半身を食いちぎられた近衛騎士。
逃げ惑う最中に踏み潰された難民の子供。
彼女が率いた騎士団の半数が命を落とし、難民の被害は甚大だった。
生き残った者たちも、その大半が重傷を負い、虚ろな目で宙を見つめている。
『お前のその眩しい正義が、泥の中でどれだけ多くの血を流すか、高みの見物をさせてもらおう』
王宮で公爵が放った嘲笑が、呪いのようにセレナの耳の奥で反響した。
「私の……せいだ……」
セレナは、泥水の中に膝から崩れ落ちた。
両手を覆うのは、魔物の黒い血と、自分が守り切れなかった者たちの赤い血。
「私が、全員を救えると……驕っていたから……」
彼女はまだ、完全に折れたわけではない。
「これは自分の未熟さゆえの敗北だ。次はもっと上手くやらなければならない」と、自責の念によって無理やり自分を立たせようとする、聖騎士としての強烈な意地が残っていた。
だが、その「正義の意地」こそが、彼女をさらなる地獄へと引きずり込む鎖となる。
「……隊長。生き残った難民たちを、まとめました。……王都へ、帰還しましょう」
満身創痍の副官が、血を吐くような声で報告に来た。
セレナは虚ろな瞳を上げ、生き残った難民たちを見た。
その時、彼女はまだ知らなかったのだ。
自分が命と引き換えに救い出したこの「可哀想な弱者」たちが、安全な王都へ帰り着いた途端、彼女の正義を根底から打ち砕く『最も醜悪な牙』を剥くことになるとは。
泥に沈んだ光は、今、底なしの沼へとその歩みを進めていた。




