第一幕:妄想性パーソナリティ障害閣下
第一節:
1
水上オープンカフェ『三匹の黒ナマズ亭』の喧騒と、泥炭の焦げた匂いを後にした三人は、軋む高床式の木道を踏みしめ、巨大な国境関門へと向かって静かに歩みを進めていた。
歩道の脇を歩くノア・モアは、歩調を合わせながらも右手の指先を軽やかに踊らせている。
指先から伸びる、目に見えないほど細い『耐熱極細糸』は、本来ならば一定の長さしかない固定長の糸だ。しかし、モアの指先がミリ単位で交差して糸を極小のループ状に折りたたみ、瞬時に弛ませては巻き取る――その神業的な手繰り寄せと速度コントロールにより、偏心したチャクラムは空中をまるで自在に飛び回る生き物のように躍動していた。
右へ左へ、さらには木道の下の黒緑色の水面すれすれまで弧を描いて急降下したチャクラムが、モアが指先をトンと弾いた瞬間、物理法則を無視したかのように手元へとスッと吸い付くように戻ってくる。見ている者にはあたかも「糸自体がゴムのように伸び縮みしている」としか思えない、まさしく達人の糸捌きであった。
「ちょっとモアちゃん! 歩きながらそんな曲芸みたいな真似するんじゃないわよ! 糸が弛んで通行人に引っかかったらどうするの」
ソフィア・マフィアが、アンバーブラウンのウェーブ髪を揺らしながらお節介くさくお説教を叩きつける。
モアはチャクラムを手のひらでカチッと受け止め、金褐色のサイドポニーを揺らしてグッと拳を握った。
「えへへ〜、大丈夫ですよ〜。これは鍛錬ですから」
「アンタ、それで答えになってるつもり?!」
「鍛錬は常に行なって、怠ってはいけないんですよ~」
そう言ってモアはニコッと呑気な笑みを浮かべた。
「それはそうかもしれないけど、こんな所で危ないでしょ!」
「はい! 気をつけて訓練します!」
「そういう話をしてるんじゃないわよ! もうヤダこの子。時々話が通じなくなるの、どーゆーことなの?」
キーキーとお説教を垂れるマフィアと、呑気に笑うモア。
その二人を従えるように先頭を歩くミリア・シリアは、能面のように完璧なポーカーフェイスを1ミリも崩すことなく、整然とした歩調で木道を刻んでいた。
黒と濃紺の高級執事風パンツスーツ。その胸元に挿された長銀のステッキが、歩みに合わせて静かに揺れている。
透き通るような白濁眼は伏せられたままであったが、彼女の過敏な耳と肌は、周囲の景観と人間の動きを恐ろしい精度でプロファイリングしていた。
「……静かにしなさい、二人とも。検問所の査察官の視線が、すでにこちらに集中しています。無用な雑談は隠密の精度を下げます」
「はぁい……」
「はいはい、分かってるわよ」
三人のかたわらには、それぞれの相棒である巨蜘蛛――馬蜘蛛たちが静かに従っていた。
シリアの愛馬である漆黒の『シュティル』は、八本の長い脚を「サッ、サッ」と寸分の乱れもなく動かし、シリアの影のように寄り添っている。
マフィアの愛馬である栗色の『ボナ』は、重装甲な体躯をドッシリと揺らし、マフィアの歩幅に合わせて悠然と歩く。
モアの愛馬である金褐色の『ソノラ』は、長い脚を軽やかに弾ませ、時折、巨大水門の排気音に「シャッ!」と可愛らしく威嚇の音を立てていた。
2
木道を覆う煙が風に流されると、眼前に迫る『プラティア大二重水門城砦』の全貌が、圧倒的なスケール感となって露わになった。
カルケドン白灰峡谷の白い石灰岩とは対照的に、プラティアの玄関口を固めるこの大二重水門は、幾重もの巨大な白大理石ブロックを加圧積層して築かれた要塞建築である。
しかし、何世紀にもわたって下層の泥炭層から吹く強い硫黄ガスと煤煙に晒され続けた大理石の壁面は、まるで黒煤の薄物を纏ったかのように斑模様の黒ずみに覆われ、異様な凄みと圧迫感を放っていた。
壁面の中央に穿たれた二層の水路。そこに鎮座する二重構造の黒鉄製水門扉は、厚さ三メートルを超える鋳鉄の巨塊だ。
水門扉の側面には、一歯が一人の大人の身丈ほどもある巨大な伝達歯車が、縦一列に噛み合い、高圧の泥炭蒸気油圧シリンダーによって「ズシューッ……ズシューッ……」と重低音を響かせながら、巨獣の心臓のようにゆっくりと脈動している。
蒸気が吹き出すたび、高床式の木道全体に波打つような微振動が伝わり、水面に落ちた油膜が虹色の幾何学模様を描いて揺れていた。
その城砦の足元、水路が広大な扇状に開く場所に広がっているのが、屋外の『水上検問デッキ広場』である。
無数の太い黒木杭の上に組まれた数百平米におよぶ広大な木造デッキは、風が吹き抜ける完全なオープンエアの広場となっており、入国待ちの大型運河船が数十隻も係留され、臨検を待つ異国の行商人や船乗りたちでごった返していた。
広場の各所には、防毒マスクを装着した警備兵と、黒と紫の法衣を纏った薬事ギルドの役人たちが立ち並び、船から降ろされた木箱や泥炭樽に鉄串を刺して不審物を確かめている。
水面に漂う黒い泥の臭いと、精錬所から吐き出される濃厚な薬物の硫黄臭が交じり合い、国境独特の荒々しくも不穏な気配が充満していた。
「……見事な蒸気油圧機構です。ですが、露出した巨大ギヤの摩擦損失と腐食率を考慮すれば、エネルギー変換効率は推定六割以下。本来なら内部密閉型の多段シリンダーにすれば三割の泥炭で済むものを、単に見た目の威容を誇るためだけに、これほどの燃料と労働資材を損耗させているとは……著しく不合理な運用です」
シリアは足元から伝わる振動の周期をステッキの先端で計測しながら、能面のまま冷ややかに吐き捨てた。
彼女にとって労働者もまた管理すべき運用資材の一つに過ぎない。その資材をパフォーマンスのために無駄に摩耗させている構造そのものが、官僚として許しがたい浪費に見えているのだ。
「だから言ったでしょう。上が見栄を張れば張るほど、下の人間が割を食うのよ。胸糞悪いわねぇ」
一方で、平民とも気さくに酒を汲み交わす領地経営を行ってきたソフィア家のマフィアは、シリアとはまったく別の――労働者たちを不当に酷使する役人どもへの憤りからフリルコートの胸元を正した。
時速百キロを超え、二十九メートルの高さを軽々と跳び越える二トンの軍事用馬蜘蛛を三頭も引き連れた三人組の登場に、広場の行商人や警備兵たちが引きつった顔でサーッと道を空けていった。
シリアは迷いのない洗練された足取りで、デッキ広場の中心に設けられた豪奢な黒檀製の屋外受付デスクへと向かった。
3
デスクの前に腰掛けていたのは、控えめな絹の法衣を纏った、白髪交じりの初老の男であった。大薬事院の穏健派を代表する高級官僚の一人である。
シリアは無言のまま、黒スーツの胸元から一枚の重厚な羊皮紙を取り出し、寸分の狂いもない動作でデスクの上へ静かに置いた。
「……失礼。通行の査証を検められたい」
シリアの冷徹で美しい声に、初老の役人はピクッと眉を跳ね上げた。
男はデスク上の羊皮紙を手に取ると、胸元から取り出した銀の単眼眼鏡を右目に当て、入念に表面の刻印と文章を精査し始めた。
(……間違いない。これは薬事院長様が極秘裏に発行された、ガルプ王国公式貿易調査員としての特別通行許可証だ……!)
初老の役人は密かに胸を撫で下ろした。
現在、プラティア大薬事院内部は、平和と安定を望む「穏健派(院長派)」と、軍備拡張と利益追及を掲げる「強硬派(精錬総監派)」の激しい派閥対立の渦中にあった。穏健派としては、この危険な三人組を、何事もなく素早く西のアンダルシア方面へ通り抜けさせたいのが本音であった。
「……ふむ。拝見いたしました。手続きに一切の不備はございません。どうぞ、これより聖泥都市群プラティアへの入国を――」
「待ていッッ!!!!」
役人が通行許可の公印を朱肉へ押し当てようとした、まさにその瞬間。
水門城砦の重厚な黒鉄扉がガラガラと跳ね上がり、検問デッキ広場全体を震わせる地響きのような怒号が轟いた。
『ガシャアァン!!』
広場にいた警備兵や行商人たちが一斉に身体を強張らせ、蜘蛛の子を散らすように左右へ退いていく。
現れたのは、ずっしりと重い金糸と紫の刺繍が施された豪華な法衣を纏った男――ガルドス・ボルドー精錬総監であった。
丸々と肥え太った太鼓腹を揺らし、背後に数十人の重装甲親衛隊を引き連れてドカドカとデッキ板を鳴らしながら歩いてくる。
「ガルドス総監閣下!? なぜこのような場所に……!」
初老の役人が顔を蒼白にして立ち上がるが、ガルドスは太い腕で役人をデスクごと突き飛ばした。
『ガシャンッ!』
「退いておれ、無能がッ!」
ガルドスは唾を飛ばして一喝すると、小豚のように脂の浮いた顔を醜く歪め、そのギラついた眼光をシリアたちへと向けた。
そして、何を思ったかガルドスは、信じられないほどハッキリとした声で、ブツブツと独り言を呟き始めた。
「ぬうう……! 間違いない、あの白銀髪に全盲の白濁眼……ガルプ王宮の元・内廷近侍ミリア・シリアだ! 奴らの狙いは、我が精錬ギルドが裏で行っている『泥炭採掘費用の公金横領』と、他国への『偽造印章の密輸』の現場を差し押さえることに違いない……!」
その横に控えていた側近の精錬監察官が、顔をひきつらせて耳元へ囁いた。
「……閣下、大変申し上げにくいのですが、他国の監査官に、我が国の帳簿や精錬所を監査する法的な権限などはございません」
「アンタ、そーゆーの、隠したいんならもうちょっと聞こえないように喋りなさいよ」
マフィアが呆れ返った顔でツッコむ。
「すごく滑舌のいい独り言です〜」
モアも感心したように目を丸くして手を叩いた。
「典型的な妄想性パーソナリティ障害ですね」
シリアは診断を下す。
「黙れッ! 貴様ら全員だまれッ!」
ガルドスは真っ赤になって怒鳴り散らした。
「奴らは影で動く元・内廷近侍だぞ!? 法的な権限など最初から無視して裏でワシを抹殺し、二重帳簿を奪い去る計画に決まっているだろうがッ! このように不備一つない完璧な公文書(査証)を用意してきたこと自体が、ワシを油断させて殺すための高度な罠なのだッ!」
それを聞いてシリアが顔を綻ばせた。
「法的な権限を無視して人を殺し、帳簿を奪うなどという事をしたら、それはただの強盗でしょう。内廷近侍は関係ありませんよ、ミスター」
側近の監察官も、冷ややかな目を向けて静かにツッコミを入れる。
「あの……完璧な公文書を用意してきたことが疑わしい、となると、何を提示してもらっても通せない事になりますが?」
「うるさいッ! ワシの直感がそう言っておるのだッ!」
論理的破綻が極まってとうとう直感とか言い出すガルドスなのであった。
4
「我が精錬ギルドの安全規定に基づき、その者たちには『特別防護規定』を適用する! 国境沿いの過酷かつ危険な有毒泥炭層を通過するにあたり、そのような危険な巨獣(馬蜘蛛)と、不審な武器の持ち込みをそのまま許可することなど絶対にあってはならん!」
「はぁぁぁあ!? 何言っちゃってんのよ、この脂ギッシュなタヌキオヤジはッ!?」
マフィアが華やかな顔立ちを盛大に引きつらせ、フリルコートの袖を捲り上げて激怒した。
モデルのようにスラリとしたスタイルから発せられているとは思えないほど凄まじい威圧感で、ガルドスへ向けて一歩踏み出す。
「ちょっとアンタねぇ! あたしたちは正当な手順を踏んで、正規の通行許可書を持ってここへ来てんのよ!? なんでそんな言いがかりみたいな訳の分からない規定を適用されなきゃならないのよ! 頭の泥炭が腐ってんじゃないの!?」
「フン! 愚かしいガルプの女め、ギャーギャーと見苦しく吠えるな!」
ガルドスはマフィアの怒号を鼻で笑い、嘲笑を浮かべた。
「嫌なら引き返すのだな! だが、このプラティアの土地を踏みたいというのであれば、我が国の法に従ってもらう! おい、やれッ!」
「「はっ!!」」
ガルドスの手合図とともに、背後に控えていた重装甲の親衛隊たちが、黒鉄の不気味な機械装置と、ドロドロとした怪しい薬品の壺を抱えて、一斉に押し寄せてきた。
「シャアッ!?」
「ハッ! 公金横領とか密輸とか大きな声で滑舌よく独り言言っていた人が『我が国の法に従え~』とかいうのでびっくりして、ちょっとぼーっとしてました! ソノラちゃんになにすんですかー! 離れてください〜!」
嫌がる馬蜘蛛たちの脚関節へ、容赦なく黒鉄の機械装置――『重鋼ダンパー』が叩きつけられ、ガチコンとロックされた。
強力な油圧抵抗シリンダーにより、馬蜘蛛の最大の武器である「時速百キロを超える爆発的な踏み込み」と「高さ三十メートルの大跳躍」が物理的に完全封殺される。
さらに、防毒マスクの監察官たちが壺から粘性の高い黒紫色の樹脂――『化学封蝋』を掬い取り、シリアたちの武器へと塗りたくった。
「ちょっと、アンタ! 人の物に勝手に何してんのよ! 信じられない! アンタ親にどういう教育受けてきたのよ!」
「親の事は言うな!!」
愉快そうに笑っていた男が、突然、鬼気迫る表情で怒鳴る。
「ひっ、なにこの人。こわあ」
マフィアがガルドスの側近の監察官に「ちょっとこの人大丈夫なの」と小声できくと
側近の監察官も「それは私にもどうにも……どうなんでしょう?」と小声で聞き返す始末だ。
シリアの長銀ステッキの柄と鞘。
マフィアの鉄日傘の開閉レバー。
モアのチャクラムの剥き出しの環状刃と折りたたまれた糸。
それらが空気に触れてカチカチに硬化していく。
マフィアが怒りで顔を真っ赤にし、フリル付き鉄日傘のレバーを全力で引っ張るが、カチカチに固まった樹脂はピクリとも動かない。
「ちょっとなんなのよこれ。ヤダもう、日傘が開かないじゃないの。日焼けしたらどうしてくれんのよ」
さらに内部の衝撃吸収ダンパーが固められたことで、振って物を叩くと打撃の反動エネルギーが100%自身の手首に跳ね返ってくるため、鈍器として振り回すことすら封じられてしまった。
「うちのチャクラムも、糸が折りたたまれたまま固められてしまいました〜……!」
モアも困り果てた顔で、環状刃の刃先を覆う黒紫のガラスのような表面を撫でている。柄と糸も固められ、遠隔操作も封じられてしまった。
自慢のデバフを施し、ガルドスは太った胸を反らせ、下品な勝ち誇った高笑いを上げた。
「ハハハハハ! 我がギルドが誇る秘伝の『化学封蝋』だ! 一度固まればいかなる強酸や高熱をもってしても絶対に溶けん!」
5
「フハハハハ! 武器も跳躍力も完全に奪われた貴様らなど、毒虫も同然よ!」
ガルドスは勝ち誇った顔で見下ろした。
モアが首をかしげる。
「秘伝の『化学封蝋』……?」
それを聞いてマフィアはギャハハと笑いながら、近くにいた側近の監査官の肩をバンバン叩いてウケまくった。
「ヤダもう! 『秘伝の』って、それじゃ老舗のタレみたいじゃないの!」
「あ、あの、精錬総監殿。……秘伝のという表現は、ちょっと……」
「貴様ら自分の置かれた立場をちょっとは自覚しろ!」
ショックを受けた風を見せないマフィアたちに、ガルドスは青筋をたてて怒鳴った。
一方、白銀髪の秘書官、ミリア・シリアは、黒スーツの胸元から長銀ステッキを引き抜くと、下端から僅かに露出している金属製の「石突(先端)」を、モアのチャクラムに塗りたくられて固まっている樹脂の表面へと静かに近づけていた。
そして───
『コツン……』
金属の先端が樹脂を叩く、静かな音が響いた。
『コツン……コツン……』
「ん? なんだ、無駄な抵抗を始めたか? そんな物でどうにかなるもんではないぞ」
ガルドスが鼻で笑う。
シリアは無言のまま、能面の顔を微かに傾けた。
ステッキの先端で、固まった樹脂の表面を、微妙に力加減と叩く角度を変えながら小刻みに突き続ける。
『コツ……コツコツ……』
『カツン……』
『チリン……』
『コツコツコツ……カツカツカツ……』
「ふははは、無駄無駄ぁ」
『コツコツ……カツカツ……コツン……』
『チリン……コツコツコツ……』
「……おい。無駄だ。いい加減やめろ」
ガルドスが眉をひそめる。
「ちょっと、シリアちゃん……! アンタそんなに突っついたって、どうにもならないわよ!」
マフィアも焦り顔で声をかける。
シリアは一切の感情を見せず、ひたすら機械的な正確さで、何十回も、何十回も、しつこく樹脂の表面をノックし続けていた。
「無駄だと言っとろーが!! いい加減にしつこいわ! そのコツコツコツコツいう音が地味に神経にくるんじゃ! ワシの脳の固有振動数を狂わせに来たのか!? サイコパスか貴様は!?」
ガルドスが額に青筋を立てて絶叫した。
それを聞いてモアとマフィアがぶふぅと吹き出した。
「シリアさん、『脳の固有振動数』とか言っちゃってる人にサイコパスって言われてます~」
「それって普通って意味?! 一周回って普通って意味よね?!」
側近の監察官が遠い目をして呟いた。
「ダメだ……病状がドンドン悪化してる……もう小官の手に負えない……」
やがてシリアは、『コツン』と最後のノックを終え、ステッキを引いた。
「……ふむ、なるほど。これですね」
「何がコレデスネだバカ者。往生際の悪い女め」
ガルドスはようやく『コツコツ』という音が止んで、安堵して肥えた鼻を鳴らした。
「おい! この惨めなガルプの女どもを、旧・第7採掘区画の昇降機へ押し込めろ! 二度と上がってこられないようにな!」
「「はっ!!」」
重鋼ダンパーで脚を縛られた馬蜘蛛たちと、武器を固められた三人組は、下層へと続く巨大な鉄格子の昇降機へと押し込まれていく。
「きゃ〜」
「ちょっ。痛いじゃないの! アンタたち、女の扱いがなってないわよッ!」
マフィアは本気で文句を言ってるが、モアはちょっと楽しそうだ。
『ギギギギギ……ガチコンッ!』
太い鉄鎖が軋み、昇降機が暗く湿った地下深くへと下降を始める。
上空で勝ち誇るガルドス総監の姿が遠ざかり、代わりに、湿気と濃厚な硫黄臭、そして強酸性の泥の匂いが三人を取り巻くのだった。
第二節:
1
ギギギギギ……ガチコンッ! ギギギギギ……
太い鋳鉄の鎖が歯車に噛み合い、悲鳴のような金属擦過音を縦穴全体に響かせていた。
無骨な黒鉄の条形枠で組まれた大型昇降機は、重苦しい振動とともに、漆黒の竪坑をゆっくりと下降していた。
頭上を仰ぎ見れば、上層の検問デッキ広場から差し込んでいた僅かな灰色の自然光が、数メートル下りるごとに四角く縮み、やがて太い排気管から吐き出される黒煙の渦の中に呑み込まれて消えていった。
代わりに三人を取り巻いたのは、圧倒的な重圧を伴う「暗闇」と、立ち上ってくる「熱気」であった。
「うへぇぇ……なにこの匂い。湿気と硫黄と、何かが腐ったみたいな臭いが混ざって、目と鼻がツンツンするわねぇ……ヤダわもう」
ソフィア・マフィアが華やかな顔立ちを露骨に歪め、フリルコートの袖口で鼻腔を覆った。
竪坑の岩壁は、無数の黒い泥炭層と白灰色の石灰層が幾重にも縞模様を描いて露出しており、その亀裂という亀裂から、ねっとりとした黒緑色の強酸性湧水が滴の形を作って滴り落ちていた。
ポタリ……ポタリ……ツンッ
水滴が昇降機の鉄格子の天井に跳ね、弾けた飛沫がマフィアの靴底に触れた瞬間、「シュウ……」と微かな白い煙と刺激臭を立てる。
「強酸性の鉱泉水ですね〜。お肌についたら大変なことになっちゃいますよ〜」
ノア・モアが金褐色のサイドポニーをキュッと小さくまとめ、自分の頬を両手でガードしながら呟いた。
その傍らでは、相棒の馬蜘蛛『ソノラ』が、脚関節に嵌め込まれた黒鉄の『重鋼ダンパー』の重みに耐えかねて、カチカチと細かく脚を震わせていた。
「ソノラちゃん、大丈夫ですか〜? 重いですよね〜、痛いですよね〜……」
モアが屈み込み、ソノラの胸甲をやさしく撫でさする。
重鋼ダンパーは、二トンを超える馬蜘蛛の爆発的な脚力を抑え込むため、内部に超高圧の油圧シリンダーが組み込まれている。歩くごとに数トンぶんの油圧抵抗が関節にのしかかり、馬蜘蛛たちの体力を削っていく凶悪な抑止具だ。
マフィアの『ボナ』も、シリアの『シュティル』も、普段の軽快な跳躍力を完全に殺され、巨躯を重そうにしならせながら、昇降機の揺れにじっと耐えていた。
「ボナも我慢しなさいね。上に戻ったら、あの肥え太ったタヌキオヤジの足をこの日傘で十回くらい突っつき回してやるから」
マフィアが馬蜘蛛の頭を優しく叩きながら、上空のガルドスへ向けて呪いのような吐息を吐く。
「……下降速度、毎秒一点五メートル。すでに地上検問デッキから垂直深度で百二十メートルを突破しました」
三人の中で唯一、能面のポーカーフェイスを崩していないミリア・シリアが、仕込み杖の石突で昇降機の床板を軽やかに『コツン』と叩いた。
「周辺の気圧上昇は約十五ヘクトパスカル。湿度は九八%を超えています。……壁面の地層振動から察するに、この縦穴は本来の採掘坑道ではなく、排気および廃棄用の竪坑に過ぎません。精錬総監ガルドスは、我々を正規の視察ルートではなく、最悪の環境へ意図的に誘導したということです」
「知ってるわよ、そんなこと!」
マフィアがイライラと爪先で床を鳴らす。
「あのタヌキ、あたしたちがこの劣悪な地下で泥塗れになって泣き叫ぶ姿を想像して悦に入ってるのよ。ホント、性格が歪んでるわねぇ!」
馬蜘蛛の足元で屈み込んだまま俯いて、じっと動かなくなったモアに気付き、マフィアは声をかけた。
「ちょっと、モアちゃん。大丈夫? 確かにちょっと大変な事になったけど、こういう時はね、気持ちをしっかり持つ事が大事なの。分かる?」
「……大事な事を思い出しました。もうすぐお父さんの誕生日なんです! 誕生日プレゼントどーしましょ~」
「……この状況でそのセリフって、このコ、思考経路が全然辿れなくてそっちの方が不安になるわねえ。でもまあともかく分かったわ。モアちゃん、頭以外は大丈夫そうね。となれば、何はともあれ、まずは状況把握よ」
「視覚情報に頼る一般人にとっては悪条件でしょうが、私にとってはむしろ音波の反響が得やすい閉鎖空間です」
シリアは伏せられた白濁眼のまま、静かに空間の気配を探る。
「間もなく下層プラットフォームへ到達します。……出迎えは、あまり好意的なものではないようですが」
ガコンッ!! ギギギ……ガラガラガラッ!
凄まじい衝撃とともに昇降機が停止し、黒鉄の格子扉が重々しく左右へ滑り開いた。
2
扉が開いた瞬間、三人の全身を襲ったのは、むっと蒸せ返るような泥の熱風と、耳を刺す低音の狂騒であった。
「うわっ……!!」
モアが思わず目を細める。
そこは、果てしなく広がる広大な地下空洞――『旧・第7泥炭採掘区画』であった。
頭上数十メートルの岩天井からは、太い銅製の蒸気管と排液パイプが縦横無尽に張り巡らされ、接合部から白濁した高圧蒸気が「シュコーッ! ズシューッ!」と地響きのような音を立てて噴き出している。
天井の各所に吊り下げられたガラス球の『泥炭ガスランプ』が、煤けた黄緑色の光をぼんやりと放ち、底なしの暗がりを不気味に浮かび上がらせていた。
足元は、足首まで浸かるほどの泥炭の黒泥であった。
腐敗した植物が何万年も堆積して出来上がった強酸性の泥炭は、まるで黒い生き物のようにドロドロと蠢き、泡を噛んで硫化水素のガスを放出している。その泥の上に、腐りかけた木板や破棄された歯車を敷き詰めただけの「木道」が、迷路のように曲がりくねって奥へと続いていた。
そして――その広大な地下洞窟の各所にひしめき合っていたのは、無数の「人間」と「掘立小屋」であった。
「……なんですか、ここ……。人がいっぱいいますよ〜……?」
モアが驚きに目を見張る。
木道の両脇には、湿気で湿ったボロ布や不揃いな泥炭煉瓦を積み上げただけの粗末な小屋が隙間なく建ち並んでいた。
そこに身を寄せ合っているのは、肌を泥と煤で黒く汚した無数の労働者たちと、その家族と思われる難民たちであった。
誰もが痩せこけ、窪んだ目には光がなく、防毒マスクすら与えられないまま、ボロ布を口元に巻きつけて「ゴホッ! ゲホッ!」と激しい咳嗽を漏らしている。
幼い子供たちが、強酸性の泥で爛れた自分の足をさすりながら、力なく木道に座り込んでいた。
「……ひどい……。これ、人間が住んでいい場所じゃないわよ……」
マフィアのアンバーブラウンの瞳から、それまでの軽快な呆れの色が消え、重々しい沈黙が落ちた。
モデルのようにスラリとした美貌の横顔が、怒りと痛ましさでキュッと引き結ばれる。
この旧・第7採掘区画は、すでに良質な泥炭を掘り尽くされた廃棄区画であり、現在は上層の精錬所から排出される危険な強酸性汚水の溜め場兼、精錬ギルドに従属させられた最下層労働者たちの「収容スラム」と化していたのだ。
「……不合理極まりない構造です」
シリアが能面のまま、周囲の音と空気の動きを聴覚で拾い上げ、淡々と分析を口にした。
「坑内の浮遊粉塵濃度は許容量の四倍以上。換気シリンダーの出力は意図的に三割まで落とされています。このような環境下では、労働アセット(人間)の平均可動期間は二年未満まで低下するはず。……適切な防具と換気設備を供給して労働寿命を三倍に延ばした方が、代替要員の調達・輸送コストを考慮しても遥かに経済的であるというのに。……精錬ギルドの管理体制は、数値計算すらまともにできぬ愚者の集まりですか」
その冷酷な分析を聞いたマフィアは、フリルコートのポケットに両手を突っこみ、重い溜息とともに吐き捨てた。
「アンタの言う数字の理屈は分かんないけどね……要するに、上でお綺麗なおべべ着て肥えてる役人どもが、自分のポケットに入る小銭を増やすためだけに、下の人間を虫ケラみたいに使い潰してるってことでしょ。……ホント、胸糞悪いったらありゃしないわ」
「おいッ! なんだ貴様らは!!」
木道の奥から、黒い防毒マスクを被り、黒鉄の仕込み鞭を手にした数人の「精錬ギルド下級監視員」たちが、下品な罵声を上げながら歩み寄ってきた。
3
「おいおいおい! 昇降機から降りてきたと思ったら、なんだその高そうな服を着た女どもは! それに……なんだそのバカでかい蜘蛛はッ!?」
監視員たちが鞭を構え、警戒と下卑た好色さを混ぜ合わせた視線をシリアたちへ向けた。
脚関節に重鋼ダンパーを嵌められた三頭の馬蜘蛛を見て、監視員のリーダー格が下品なニヤニヤ顔を浮かべる。
「ケッ、ガルドス総監閣下から連絡のあった『ガルプの危険人物』ってのは貴様らのことか! ハハッ、自慢の巨大蜘蛛もダンパーでガチガチ、武器も化学封蝋でカチコチじゃねえか! ただの丸腰の女が、この旧・第7区画で何ができるってんだ!」
「……不躾な視線ですね。排除しますか?」
シリアが能面のまま長銀ステッキの石突を静かに木道へ下ろそうとした。
だが、その肩を、マフィアの手が「ちょっと待ちなさい」と制した。
「シリアちゃん、手出しちゃダメよ。あたしたちは今、武器も脚も奪われた可哀想な囚人なの。ここで監視員を叩きのめしたら、上のタヌキオヤジに口実を与えて余計に警戒されちゃうじゃないの」
「……ですが、このまま不快な言動を放置するのは効率的ではありません」
「まあ任せなさいって。あたしに考えがあるんだから」
マフィアは華やかなウェーブ髪をふわりとなびかせると、モデルのようなスタイルで、泥に塗れた木道を悠然と一歩踏み出した。
そして――次の瞬間、監視員たちの目の前で、下町風の強烈な親しみやすさを全開にした笑顔を弾けさせた。
「あらやだ〜お兄さんたち! そんな怖い顔しないで頂戴な!」
「は……? あぁ!?」
監視員たちが毒気を抜かれて口をぽかんと開ける。
マフィアはフリルコートの裾をひらりと揺らし、まるで近所の商店街のお節介なおばちゃんが井戸端会議に乱入するかのような、圧倒的な距離感の詰め方で監視員たちの懐へすり寄った。
「あたしたちね、上のお偉いさんに難癖つけられて、こんな地下まで放り込まれちゃった可哀想な旅人なのよ〜! ねえお兄さんたちも、こんなジメジメした場所で一日中監視なんて、ほんと大変ねぇ! お腹空いてない?」
「お、おい!なんなんだお前は! 馴々しく触るな!」
リーダー格の監視員が狼狽えながら鞭を構え直そうとするが、マフィアは意に介さない。
「なによ冷たいわねぇ!ほら、これあげるから機嫌直しなさいな!」
マフィアがポケットから取り出したのは、先ほど水上カフェ『三匹の黒ナマズ亭』を出る際に買い込んでいた「塩漬け干し肉」と「発酵果実の煎餅」の包みであった。
香ばしい肉の匂いと甘酸っぱい果実の香りが、地下の酷い硫黄臭を押し散らして漂う。
「なっ……! 干し肉だと……!?」
地下の粗悪な雑穀粥しか食わされていない監視員たちの喉が、ゴクリと音を立てて鳴った。
「そうよ〜! 上等の塩漬け肉よ! ほら、遠慮しないで持って行きなさいな!」
「あ……ありがと……じゃなくて! 騙されんぞ!」
リーダー格の監視員が慌てて包みをひったくりつつも、マフィアの圧倒的なペースに完全に呑み込まれていく。
「騙すも何も、あたしたち武器も使えない丸腰の女三人よ? 何ができるっていうのよ! ねえお兄さん、このスラムの奥の方って、どっちに行けば風通しの良い場所があるのかしら〜? ちょっと休憩したいのよ〜」
「奥の第十四集会所の方なら、古い換気煙突があって多少はマシだが……」
「あらご親切! ありがとねお兄さん! ほら二人とも、行くわよ〜!」
マフィアは監視員の警戒心をすんなりと往なすと、呆然と佇む監視員たちを置き去りにして、スラムの奥へと堂々と歩き出した。
「えへへ〜、マフィアさんすごいです〜! お肉で仲良くなっちゃいましたね〜!」
モアが感心したように手を叩く。
「仲良くなってどうするのよバカねぇ! いい? これからが本番よ。現場の情報はね、お綺麗なお偉いさんの口からじゃなく、泥に塗れて暮らしてる現場の人間から聞くのが一番確実なのよ!」
4
だが、監視員の目を盗んで踏み込んだスラムの深部は、そんな生温かい誤魔化しが通用するような場所ではなかった。
腐りかけた木板の道を進むにつれ、周囲のボロ小屋から覗く住民たちの目が、怪しげな「光」を帯び始めていた。
水上カフェの包み紙から漏れ出していた干し肉の香ばしい油脂の匂いと、マフィアが身に纏う上質な服の気配を、飢餓に喘ぐスラムの獣たちが嗅ぎつけたのだ。
「あら嫌だわ! おばさん、その子の足、すごく腫れてるじゃないの!」
マフィアは木道の脇で、爛れた我が子の足を抱きしめて震えていた中年女性の前で、迷わず泥の上に膝をついた。
共通通貨で十万銅貨――ガルプの高級金貨で言えば何百枚分にも相当する価値があるフリルコートの裾が、黒い酸性の泥に浸かるのも一秒たりとも気にしない。
「ひっ……!! お、お許しくださいお貴族様! 何も盗んでおりません!」
女性が恐怖で子供を抱きかかえ、身を縮める。
「誰も盗んだなんて言ってないでしょ! ちょっと見せなさいな!」
マフィアは女性の制止を優しく振り切り、幼い少女の赤く腫れ上がった足首を、自分の綺麗な素手でそっと包み込んだ。
ポケットから手拭いと傷薬のワセリンを取り出す――すると、途端に周囲の空気がざわつき出した。
『ザッ……ザザッ!!』
暗がりから、目つきの血走った痩せこけた男たちが十数人、ボロ布や泥炭掘削用の鉄ツルハシを握りしめて泥を跳ね上げ、一斉に押し寄せてきた。
「おい……! 今、に、肉の匂いがしたぞ!」
「薬だ! 高価な薬と手ぬぐいを持ってやがる!」
「寄越せ! 肉を寄越せぇぇッ!」
「その服も引っ剥がせ! 上等な生地だ、売り飛ばせば一ヶ月は食えるぞッ!」
「ひっ……!!」
泣いていた少女と母親が悲鳴を上げて身を縮める。
飢餓と病に狂った男たちが、泥を撒き散らしながら暴徒と化してマフィアへと殺到する。
手当て用の薬や干し肉など、一瞬で奪い取られ、身ぐるみ剥がされて泥の中に沈められてもおかしくない、生々しく殺伐とした暴力の嵐。
だが――ソフィア・マフィアは、顔色ひとつ変えなかった。
襲いかかってきた先頭の男が、マフィアのフリルコートに汚い手を伸ばした、まさにその刹那。
ガチィンッ!!
マフィアは固められた鉄日傘の先端(石突)を、容赦なく木道板へと踏み下ろし、地響きのような大音量を轟かせた。
そして、喉が張り裂けんばかりの大音量で、腹の底からの「大喝」を叩きつけたのだ。
「押しかけるんじゃないわよ、このドブネズミどもがッッ!!!!」
「「ひえっ!?」」
その凄まじい威圧感と怒号に、殺到した男たちがビクッと身体を強張らせ、泥の中に足を滑らせて固まった。
マフィアはモデルのようなスラリとした美貌を鬼のように怒らせ、アンバーブラウンの瞳をギラギラと光らせながら、怯む男たちの胸元を指差し、容赦ない罵声を浴びせかける。
「順番を守りなさい、順番を!! 押しかけた奴には肉の一片もやらんし、そこに転がってる酸性のドブ泥を口いっぱいに詰め込んで鼻から吹き出させてやるわよ!! 命が惜しけりゃすっこんでなさいッ!」
「ひ、ヒィィッ……!!」
マフィアは泥の上にドカッと仁王立ちになった。
下町で百戦錬磨の喧嘩と領地経営を仕切ってきた「おばちゃん」の凄まじい度胸と迫力が、飢えた暴徒たちを完全に気圧していた。
「あ、あたしはね、ボランティアでこんなドブ底まで救済に来た聖者様じゃないのよ!!」
マフィアはフリルコートの袖を豪快に捲り上げ、泥に塗れた手でポケットから干し肉の包みを掲げて見せた。
「この肉と薬が欲しけりゃ、この街で一番詳しい顔役を今すぐ連れて来なさい! 役に立つ情報を吐いた奴にだけ、対価として肉と薬を分けてやるわ! タダで恵んでもらえるなんて甘い考え起こしてんじゃないわよ、この甲斐性なしどもが!」
静まり返るスラム。
男たちはマフィアの凄まじい威圧感と、提示された明確な「取引」の条件に息を飲み、互いに顔を見合わせた。
「おい……聞いたか……顔役を連れてくれば肉がもらえるぞ……!」
「トム爺さんだ! 第十四集会所のトム爺さんを呼んでこいッ!」
「早くしろ! 走れッ!」
暴動を起こしかけていた男たちが、一転して情報を求めてスラムの奥へと蜘蛛の子を散らすように走っていった。
「……ふぅ。やれやれ、これだから男連中は手がかかるのよ。最初から素直に言えばいいものを」
マフィアがフリルコートの泥をパンパンと叩き、やれやれと溜息をつく。
その横で、能面のシリアが感心したように静かに呟いた。
「……見事な威圧による群衆制圧と、即座の市場原理(取引)への移行です。無償の施しは暴動を生みますが、明確な対価の提示は規律を生む。……非効率な善意を排除した、極めて合理的な統御術ですね」
「アンタねぇ、人が命がけで怒鳴ったあとに、いちいち小難しい理屈つけないで頂戴な」
マフィアが呆れ顔で手拭いを固まった鉄日傘に引っ掛けた。
それを聞いてノアがぷぷぅ、と笑う。
「命がけって〜! マフィアさん、カケラも殺気出してないのに、命がけって〜」
ウケるノアを横目に見て、マフィアは片頬を軽く釣り上げた。
5
マフィアの一喝から十分も経たないうちに連れてこられたのは、スラムの長老格である片目の元鉱夫・トム爺さんであった。
トム爺さんは、マフィアの手際で傷口を処置された少女と、鼻腔をくすぐる上等の塩漬け肉を見比べ、深く刻まれた額の皺を寄せて苦笑いを浮かべた。
「――話に聞いた通り、威勢のいいお嬢さんだな。上のお偉いさんが放り込んできたって聞いて警戒してたが……なるほど、ただの気取ったお貴族様じゃねえようだ」
「当たり前でしょ。あたしはソフィア・マフィア。見ての通り、口は悪いけど約束は守るおばちゃんよ」
トム爺さんが目をぱちくりして
「あんたまだおばちゃんとか言われる歳じゃねえだろ」
「みかけは妙齢の美女でも、心はおばちゃんよ」
誇らしげに言うマフィアを、トム爺さんはしばらくうろんな目で見てから頭をふった。
「わけがわからん」
マフィアは約束通り、トム爺さんと、彼が連れてきた信頼できる古参の労働者数人に、干し肉と傷薬のワセリンをドッサリと手渡した。
「約束のブツよ。さあ、あたしが欲しい情報を吐いてもらおうじゃないの」
「ああ、いいさ。包み隠さず話してやる」
トム爺さんは干し肉を小さくちぎって口に放り込み、苦々しい顔で煙草の煙を吐き出した。
「ガルドス総監の奴はな、数年前から『新採掘区画』って呼ばれるさらに地下深層の危険な毒ガス坑道を密かに開削させてるんだ。そこから掘り出される特殊な『黒紫色の鉱物』を、裏帳簿で巧妙に隠しながら、どこか他所の国へ高値で密売してやがるのさ」
「黒紫色の鉱物……?」
マフィアが眉をひそめる。
「……なるほど」
シリアが静かな足取りで寄ってきて、トム爺さんの横へ並んだ。
「先ほど我々の武器に塗られた、あの『化学封蝋』と呼ばれる特殊樹脂……。密閉された壺から出た瞬間、高硬化する性質を持っていました。その原料となる未精製の樹脂結晶が、その深層の新坑道から産出されているということですね」
「そういうことだ、白銀髪のお嬢さん」
トム爺さんが頷く。
「あのガルドスって奴は極度の人間不信でな。『誰も信用できん、完璧な帳簿と完璧な封印しか信用できん』ってのが口癖だ。自分が他人をハメて成り上がったもんだから、世界中が自分をハメようとしてると思い込んでやがるのさ。だから、上から『監察官』や『調査員』って名目の奴が来るたびに、公金横領がバレるんじゃないかと勝手にパニックを起こして、この地下へ押し込んじまうんだ」
「……はぁ」
マフィアが盛大に溜息をつき、おでこを押さえた。
「上を出る時にあのオヤジが滑舌良く喋ってた独り言、やっぱり本気だったのね……。自分から悪事をベラベラ自白して勝手にパニック起こして、ご自慢の秘伝の薬品でデバフかけて地下へ閉じ込めるなんて……ほんと、救いようのない自爆男だわ、やぁねえもう」
「まったく同感だな」
トム爺さんも苦笑いを浮かべた。
「えへへ〜、マフィアさん。ここに来て良かったですね〜」
それを聞いてトム爺さんが「はぁ?」と声を上げた。
「このお嬢さんは何を言ってるんだ? 頭がおかしいのかね?」
モアを頭がおかしい女の子と認識したトム爺さんは、モアに直接話し掛けるのを避け、マフィアに顔を向けた。
「そうねぇ……まあ、ちょっと」
と同意しかけるマフィアにかぶせるように、モアが答える。
「だって、ここに来なかったら、うちら、ここにいる人たちがこんな目に合ってるなんて、わかりませんでしたよ〜」
「あー、そーゆーのね」
マフィアはニヤリと笑った。
「シリアさんもなんか嬉しそうです〜!」
モアがニコニコしながらソノラの頭を撫でる。
「……表情は変えておりません。ポーカーフェイスです」
シリアはポーカーフェイスを主張しつつ、伏せられた白濁眼を、暗い地下坑道の奥へと向けた。
「ただ、化学封蝋の解術方法につきましては、すでに周波数反響解析により特定が完了しておりますので」
「あら、お手柄じゃない」
「ええ。私のお手柄です」
シリアは称賛すべき時は惜しみなく称賛の言葉をかけるが、それは他人に対してだけでなく、自分自身に対しても同様であった。
「シリアさん凄いですー」
「はい。大変優れた業績です。そして、第一の抑止機構である化学封蝋の無効化が完了したならば、第二の抑止機構である重鋼ダンパーの物理的解錠も、数学的帰結として解決されたも同然です」
「あら、どうしてそうなるのかしら? 話が飛躍しすぎてて意味が分からないんだけど」
「極めて単純な三段論法です。重鋼ダンパーの構造はシリンダー錠による機械的封鎖。すなわち、この施設内のどこかに解錠用鍵体が存在するという命題が成立します」
「ん? ん? ん〜?」
モアが腕組みしてしきりに頭を傾け、疑問の声をあげた。
「えっとぉー……わかりませーん。化学封蝋を解除することと、ダンパーの鍵を見つけるの、なんか関係ありますか〜?」
「化学封蝋が無効化され我々の武装が展開可能となった場合、警戒兵力に対する物理的制圧行動の成功率は九九%以上に跳ね上がります。即ち、鍵を所持する可能性の高い兵員を片っ端から機能停止させ、身ぐるみ剥がして鍵を物理的に捜索・回収する解法が成立するのです」
「いやぁねえ。アンタそれ、ただ力ずくでぶん殴って鍵奪うって言ってるだけじゃないの」
「冗談です」
能面のまま、シリアはわずかに首を傾けた。
「ま、ともかく! 大体の状況とやるべきことは見えたわね」
マフィアがフリルコートの袖を元に戻し、腰に手を当てた。
「慌てて上へ殴り込んでも返り討ちにあうだけよ。まずはこの地下でじっくり手足を伸ばす準備をして、ガルドスの不正の尻尾を掴むための調査を始めましょうか!」
「はいは〜い! 調査ですね〜!」
モアが元気よく手を挙げる。
脚を縛られた馬蜘蛛たちと、武器を固められた三人組。
だが、過酷な地下の暗闇の中で、彼女たちは焦ることなく、地道で確実な情報収集と準備の一歩を踏み出すのであった。




