プロローグ
1
カルケドン白灰峡谷領の西境をなす、そびえ立つ白い石灰岩の断崖。その狭い岩間を抜け出た瞬間、眼前の視界が一気に開けた。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの鉛色の湿原――『聖泥湿原』である。
無数の水路が血管のように泥地を走り、ところどころから黒い泥炭のガスが白い気体となってゆらゆらと立ち上っている。
そして、その広大な泥の海の真ん中に立ち塞がるように聳え立っていたのが、聖泥都市群プラティアの東の要衝――『プラティア大二重水門城砦』であった。
高さ五十メートルを超える白大理石の巨大な外壁。その中央には、幾重にも組み上げられた黒鉄の巨大な水門ギアと格子の水門扉が鎮座し、まるで湿原に横たわる太古の巨神の城塞かと見紛うばかりの圧迫感を放っている。水門の頂部からは黒煙を噴き上げる巨大な蒸気排気管が何本も突き出し、「ズシューッ……ズシューッ……」という地響きのような蒸気音が重低音となって空気を揺らしていた。
その巨大な水門城砦の足元、水路が扇状に広がる場所に形成されているのが、入国を待つ船乗りや行商人が集まる水上門前町である。
湿地に打ち込まれた無数の巨大な木杭。その上に組まれた高床式の木道や店舗が入り組み、水上には無数の運河船(ポンポン船)がひしめき合っている。
水門の手前に張り出した広大な木造デッキ――水上オープンカフェ『三匹の黒ナマズ亭』は、まさにそうした国境越えを待つ人々で満員御礼となっていた。
足元からは、黒緑色の濁った水面が揺れる水音が聞こえ、泥炭の焦げた臭いと、名物である発酵果実酒の甘酸っぱい香りが充満している。
その一番外寄り、巨大な水門城砦と広大な湿原が一望できるテラス席で、ひときわ異彩を放つ三人組が木製テーブルを囲んでいた。
「──だからね! そーゆーとこよ、そーゆーとこ! そーゆーとこが、油断してるってゆーの! ほら、あの仰々しい水門を見なさい。あれをくぐったらもうプラティアなのよ! シリアちゃんが事前に手配してくれた『ガルプ王国公式貿易調査員』の正規通行査証だって、これがあるから安心なんて思っちゃだめなの! これさえあれば入国できるって事は、これがお金になるってことなんだからねッ! どんな輩が狙ってるともしれないのよ。それにね! もちろん危険はそれだけじゃなくて───」
木製の簡易テーブルをバシバシと威勢よく叩きながら熱弁を振るっているのは、ソフィア・マフィア。
艶やかなアンバーブラウンの髪を華やかなウェーブになびかせ、透き通るような白肌と鋭くも気品ある目元、モデルのようにスラリとしなやかなスタイルを誇る、一目見れば誰しもが見惚れる極上の美貌の持ち主である。……だが、口を開けば身振り手振りを含めて完全に下町のお節介なおばちゃんそのものであった。
対面では、金褐色のサイドポニーを揺らした小麦色の肌の少女――ノア・モアが、「はぇ〜」と呑気に果実水をすすっていた。
モアは果実水のストローを咥えながら、退屈しのぎとばかりに右手の指先を器用に動かしている。その指先からは目に見えないほど細く強靭な透明糸――『耐熱極細糸』が伸びており、先ほどから彼女の周囲を飛び回っている特殊な環状刃――『チャクラム(円月輪)』の柄へと繋がっていた。
一般的な均等幅の円月輪とは異なり、モアの持つチャクラムは内側の円が片側へ大きく偏ってくり抜かれた独特の肉厚構造をしている。重量が片側に偏ることで投擲時や回収時の遠心力が増し、回転する様は角度によってまるで空中を躍動する美しい三日月のようにも見える逸品であった。
モアが指先を「ちょい、ちょい」と曲げるたび、チャクラムは糸に引かれて右へ左へと滑らかな弧を描いて空中を舞い、まるで意思を持ったヨーヨーのように指先と手首の間を可憐な軌道を描いて飛び交っていた。
「ちょっとモアちゃん! 水上カフェのこんな狭い席でそんな刃物振り回すんじゃないわよ! 人に当たったらどうするのよ!」
マフィアが華やかな顔立ちを盛大に引きつらせ、フリルコートの袖を振り回してお説教を叩きつける。
モアはチャクラムをくるりと手元へ引き戻し、ニコッと呑気な笑みを浮かべた。
「えへへ〜、大丈夫ですよ〜。糸でちゃーんとコントロールしてますから〜。当たってもマフィアさんくらいですし〜」
「なんであたしには当たってもいいみたいな言い方すんのよ! 冗談じゃないわよ!」
「マフィアさんは頑丈ですし、例の鉄日傘でバシッと叩き落としそうですから〜」
「そういう問題じゃないでしょうがッ!」
キーキーと身を乗り出すマフィアの横で、白銀髪を綺麗にハーフアップに結い上げたミリア・シリアは、能面のように完璧な無表情のまま茶杯を口に運んでいた。
黒スーツの胸元には長銀のステッキが差し込まれている。透き通るような白濁眼を伏せ、淡々と茶をすする。
「マフィア。貴方の役人に対する不信感は経験則としては理解できますが、今回の査証は薬事院の正規ルートを通した公文書です。無用な騒ぎさえ起こさなければ、通過確率九四%と試算しております。……ですから、貴方のその声量をあと三デシベル下げていただくことが、最も確実な隠密行動への貢献となります」
「なによそれ! あたしは二人を思って言ってあげてるんじゃないのよ、ヤダもう!」
2
マフィアが身を乗り出して憤慨した、まさにその時だった。
『パリーン―――ッ!!』
鋭く甲高い、金属的な破壊音が、カフェテリアの喧騒を切り裂いた。
音がしたのは隣のテーブル――いかにもガラの悪そうな水上運河のチンピラ三人組が陣取っていた席だった。
中央に坐していた首タトゥーの男が、手にしていた緑がかったガラスコップをテーブルの上で粉々に砕け散らせていた。
チンピラは心の中でほくそ笑みながら、激しく椅子を蹴立てて立ち上がると、激昂したフリをしてマフィアたちのテーブルへと猛然と掴みかかってきた。
「おいおいおい! どーしてくれんだコラァ!! てめぇの甲高いキンキン声のせいでよぉ! 俺様のコップが音響破砕起こして割れちまったじゃねえか!!」
店内が一瞬で静まり返る。
モアが丸い目をパチクリと瞬かせる。
「ひぇー! なんかとんでもなく斬新な因縁の付け方してくる人が出てきましたよー!」
モアの指先でくるくると回っていたチャクラムが、スッと糸に引かれて静かに腰のホルダーへ収まった。
(……ちょっと、モアちゃん! あたしたち隠密中なんだから、こんなところでチンピラと大喧嘩して目立つわけにはいかないわよ!)
マフィアは素早く目配せすると、すぐさま表情を作り直し、お説教モードからすっと身を引いた。華やかな容姿にふさわしい、魅力的な微笑みを浮かべる。
「あら嫌だわお兄さん! 『音響破砕』ですって!? なにそれ、なんだかすごくアカデミック!」
「お、おう? なんだ、知らねえのかバカが!」
チンピラは思いがけない食いつきに一瞬拍子抜けしたが、すぐに鼻孔を広げて胸を張り、得意気なドヤ顔を決めた。
「いいか教えてやるよ! プラティアのガラスってのはなぁ! 高純度の珪砂と泥炭の超高温火力で作られてっから、分子の結合がめちゃくちゃ均一で構造が整ってんだよ! だから硬くて頑丈な反面、外部からその固有振動数にぴったりの『高周波の音波』を受けちまうと、内部で振動が共鳴して一瞬で爆砕するんだ! それを『音響破砕』って言うんだよ! 分かったかコラァ!」
マフィアはスルリと距離を縮めてチンピラの懐へ踏み込んだ。華やかな香水の香りが、その距離の近さを感じさせて、チンピラは久しく忘れていたかすかなトキメキを覚える。
「まあまあまあ! アンタ、見た目によらず物知りじゃないの。高純度のナンチャラが分子結合だどうとかこうとか、で、えーっと、こ、固有振動数……? ともかく説明もとっても分かりやすいし、脳みそまで泥炭で詰まってそうな顔して実は頭がいいなんて、ちょっとカッコイイじゃない!」
スタイル抜群の美女から「やるじゃない!」とばかりに肩をバシバシと叩かれ、一瞬で鼻の下を伸ばしたチンピラは、適度に貶されている事に気付かない。
「 物知りなお兄さん、すごいです〜! 言ってる事が観光案内に書いてあるコラムと全く同じ内容です~!」
モアもそれに合わせ、両手でチンピラの腕をすりすりと揉みほぐす。
「へ? あ、おう……まあな? 俺様もこの水門町で伊達に年食ってねえからよ……」
チンピラは予想外の大絶賛とボディタッチ攻撃を受け、一秒で完全に毒気を抜かれてしまった。
3
「うちのものが騒々しく、ご迷惑をおかけしました」
そこへ、能面の秘書官――シリアが静かに立ち上がった。
指先の触覚だけで巾着の中の貨幣を識別し、寸分の狂いもない動作で硬貨をテーブルの上へ並べる。
「こちらのカフェテリアにおける標準的な果実水の価格が銅貨二枚。粗製ガラスコップの原価推計が銅貨一枚に銅粒四個。計、銅貨三枚と銅粒四個です。お納めください」
完璧すぎる計算と、一切の隙がない端数付きの会計。
差し出された細かい硬貨を見つめ、チンピラは毒気を抜かれた顔のまま、思わず本音をつぶやいた。
「……こまかっ」
その小さく溢れた呟きに、マフィアのアンバーブラウンの瞳がふっと細められた。
整った容姿に引きつるような微小な笑みを浮かべたマフィアは、腕に抱えていた『フリル付き鉄日傘』のグリップをさりげなく握り直した。
そして次の瞬間、まるでうっかり手元を滑らせたかのような自然な動作で、横の頑丈なブナ材の椅子へ向けて数十キロの重鉄骨日傘を全力で叩きつけた。
(ガシャアァァァン―――ッ!!)
耳を劈く凄まじい物体破砕音が響き渡り、カフェの床板が激しく跳ね上がった。
ブナ材の分厚い椅子が、まるで巨大な鋼鉄のハンマーで打ち抜かれたかのように、木屑を飛散させて真っ二つに粉砕されたのだ。
「あらヤダ、ごめんなさいねぇ? 手が滑っちゃったわ〜」
マフィアはすまし顔でそう言うと、人間の腰骨を一撃で粉砕しそうなその激重の鉄日傘を、片手でひょいと軽々と持ち上げ、腕の中に抱え直した。
目の前で起きた、目を疑うような威力的破壊。
チンピラ三人組の顔から、一瞬で血の気が引いた。土気色に変色した顔で直立不動になる。
「あ、お金ピッタリいただきやした!! ごちそうさまでした!! それじゃ俺たちはこのへんで失礼しやすッ!!」
硬貨をむんずと掴むと、チンピラたちは脱兎のごとき素早さで、何度も頭を下げながら逃げ去っていった。
4
「なんなのよ、あの人たち。急に急いでどこかへ行っちゃって……」
マフィアは整った顔立ちで白々しく首を振ってみせた。
その横で、シリアが能面のまま仕込み杖を『コツン』と床に突き直す。
「マフィアも、音響破砕はほどほどに」
「そんなわけないでしょう! アンタそんな事言ったら、行く先々であたしがキーキー言う度にグラスがパリンパリンパリンパリン割れて、危なくて仕方ないわよ! てゆーか、アンタ、冗談言う時にはちょっとくらいそれっぽい顔しなさいよ。真顔で言うから冗談に聞こえないのよ」
「その時は、マフィアさん弁償してくださいね? うちの家、そんなお金ないので〜」
モアが呑気に果実水のストローを咥え直し、ニコッと満面の笑みを浮かべる。
「だから、ないっての!! 乗っかりなさんな!」
華やかな容姿にそぐわない下町風の口調でキーキーと叫ぶマフィアと、それを「えへへ〜」と可愛らしく受け流すモア。 二人の賑やかなやり取りを背に受けながら、シリアは能面のまま静かに茶杯を持ち上げ、残りの茶を唇へと運んだ。
風が吹き抜け、聖泥湿原特有の黒い泥炭の焦げた匂いと、水門の排気管から吐き出される濃厚な薬物の硫黄臭が鼻腔を突く。 足元では、泥を孕んだ黒緑色の水面が、巨大な二重水門が開閉する「ズシューッ……」という排気音に合わせて波立ち、高床式の木道を湿らせていた。
遠く聳え立つ大水門の影が、広大な泥の海に長い陰影を落とす。
あの大水門の向こう側は、冷徹なテクノクラートたちが支配する、白大理石と黒い汚泥の都市だ。
シリアは静かに白濁の眼差しをその巨城へと向けたまま、茶杯をテーブルへ戻すのだった。




