第九話 森の掟
「小僧、ちょっと頼まれてくれるか」
朝の稽古を終えたところで、ガレオンがそう切り出した。
「珍しいな、爺さんが俺に頼み事なんて」
「傷薬に使う薬草が切れかけている。西の森の、少し奥まで行かないと採れない種類だ」
「西の森って……リィナさんが近づくなって言ってたとこじゃ」
「森の入り口付近だけの話だ。奥の方まで行けば、あの歪みとやらとは無関係だろう」
ガレオンの言い分には、いくらか強引なところもあったが、ユリオはそれ以上追及しなかった。ここ数日、当の爺さんがどこか落ち着かない様子だったことも気にかかっていた。何か気を紛らわせたい理由があるのかもしれない、とも思った。
「わかったよ。どの辺に生えてるんだ?」
「大きな一本杉を目印にしろ。そこから北へ進んだ、湧き水のある場所だ。すぐにわかる」
簡単な説明を受け、ユリオは籠を背負って森へと向かった。
森の中は、あの日感じたような不穏な気配こそ薄れていたものの、まだどこか張り詰めた空気が残っているように感じられた。木々の間を縫うように進みながら、ユリオは目印の一本杉を探す。
しばらく歩くと、ひときわ大きな杉の木が視界に入った。幹には長い年月を経た苔がびっしりと生えており、確かに他とは一線を画す存在感を放っている。
「これだな」
そこから北へ進路を取り、ガレオンの言った通りに歩を進める。やがて、木々の合間から、小さな湧き水が地面から染み出しているのが見えてきた。周囲には、見慣れない薬草が群生している。
「よし、これで――」
籠を下ろし、薬草に手を伸ばしかけたところで、ユリオはふと、視線を感じて顔を上げた。
湧き水の向こう、木々の間から、こちらをじっと見つめる人影があった。
人間離れした、しなやかな体躯。長く尖った耳。淡い緑がかった髪が、木漏れ日の中でかすかに輝いている。歳の頃は若く見えるが、その目には、どこか年齢を超越したような、静かな深みが宿っていた。
「……エルフ?」
ユリオは思わず呟いた。話には聞いたことがある。村の近くの森に、時折エルフが住んでいるらしいと。だが、実際に目にするのは初めてだった。
エルフは、しばらく無言でユリオを見つめていた。値踏みするような、あるいは何かを確かめるような視線。ユリオは居心地の悪さを感じながらも、下手に動くべきではないと直感的に悟り、その場に留まった。
「――人間の子が、こんな場所まで」
ようやく発せられた声は、涼やかで、どこか歌うような響きを持っていた。
「あ、いや、薬草を採りに来ただけで……ここ、勝手に入っちゃまずかったですか?」
「別に、咎めているわけではない。ただ、珍しいと思っただけだ。近頃は、人間はこの森に近づきたがらない」
エルフは静かにそう言うと、ゆっくりとユリオの方へ歩み寄ってきた。その足取りは、まるで地面に重さを感じさせないほど軽やかだった。
「森の様子が、おかしいことは知っている? 西の方で、地面が歪んでるってやつ」
「知っている。お前たち人間よりも、よほど早くにな」
エルフの声には、わずかな皮肉が滲んでいた。
「あれは、我々にとっても看過できることではない。だが、お前たち人間の鑑定院とやらが、あれを正しく理解できているとは思えないがな」
「え、どういう意味ですか」
「お前たちは、全てを紋の色で測ろうとする。だが、あの歪みの正体は、そんな単純な物差しで測れるようなものではない」
その言葉に、ユリオは何かが引っかかるのを感じた。
「紋の色、っていうか……俺、実は紋に色がないんです。灰色っていうか」
思わずそう口にすると、エルフの目が、わずかに見開かれた。
「……色が、ない?」
「はい。ずっと『判定不能』って言われてて。村じゃ、まあ、色々言われてます」
エルフはしばらく無言で、ユリオの右手をじっと見つめていた。その視線には、これまで人間たちから向けられてきた嘲りとも憐れみとも違う、もっと別の何かが宿っているように感じられた。
「……人間の作った鑑定紋という制度そのものが、そもそも歪んでいるのだ」
やがて、エルフは静かにそう言った。
「木も、火も、土も、金も、水も――お前たちが五行と呼ぶそれらは、確かに世界を構成する力の一端ではある。だが、世界の全ての力を、たった七つの色に押し込めようとすること自体が、傲慢だとは思わないか」
「そりゃ……まあ、俺には、難しい話はよくわかんないですけど」
「我々エルフは、そもそも紋というものを、人間ほど重んじない。生まれ持った色や形で、その者の価値が決まるなどとは考えない。力とは、もっと流動的で、捉えどころのないものだ」
エルフの言葉は、ユリオがこれまで生きてきた世界の常識を、静かに、しかし確実に揺さぶるものだった。灰色の紋を持つというだけで蔑まれ続けてきた自分にとって、それは救いにも似た言葉に聞こえた。
「じゃあ、俺の紋みたいなのも……そんなに変なことじゃないってことですか?」
期待を込めてそう尋ねたが、エルフは首を横に振った。
「いや。お前のそれは、ただ制度の枠外にあるというだけの話ではない。もっと――根源的な異質さを、私は感じる」
その言葉に、ユリオの胸がざわめいた。
「異質、って……」
「詳しくは、私にもわからない。だが、一つだけ言えることがある」
エルフは、湧き水に映る自分の姿を見つめながら、静かに続けた。
「かつて、我々の一族の言い伝えに、同じように色を持たぬ者の話がある。それがどうなったか、私は語る立場にない。だが――もしお前が、その者と同じ道を辿るつもりがないのなら、己の力の正体を、いずれ自分自身で見極める必要があるだろう」
「同じ道って……」
問いかけようとしたユリオだったが、エルフはそれ以上答えるつもりはないようだった。踵を返し、森の奥へと歩き出す。
「待ってくれ、もう少し詳しく――」
「今はまだ、その時ではない」
振り返ることなく、エルフはそう言い残した。その姿は、木々の合間に溶けるようにして、あっという間に見えなくなってしまった。
ユリオは、しばらくその場に立ち尽くしていた。籠の中の薬草も、すっかり後回しになっていた。
(同じ道って、何なんだよ……)
ガレオンといい、今のエルフといい、皆が皆、意味深なことを言っては、肝心なところは語らずに立ち去っていく。まるで、何かとても重要なことを、自分だけが知らされていないような、そんな疎外感がユリオの胸に広がった。
それでも、頭を振って、気を取り直す。今はまだその時ではない、という言葉を、そのまま信じるしかなかった。
薬草を摘み終え、籠いっぱいにして森を出る頃には、日はすっかり傾いていた。丘へと戻る道すがら、ユリオは何度も、エルフの言葉を反芻していた。
(人間の作った鑑定紋という制度そのものが、そもそも歪んでいる、か……)
これまで当たり前だと思っていた世界の枠組みが、実はそれほど絶対的なものではないのかもしれない――そんな考えが、初めてユリオの中に芽生えていた。
◇
丘の小屋に戻ると、ガレオンが軒先で待っていた。
「遅かったな」
「ちょっと、色々あってさ」
薬草の入った籠を差し出しながら、ユリオは迷った末に、森での出来事を話すことにした。
「爺さん、森でエルフに会ったんだけど」
その一言に、ガレオンの手が一瞬止まった。
「……エルフに?」
「うん。なんか、鑑定紋の制度のこととか、俺の紋のこととか、色々言われた。『同じ道を辿るつもりがないなら、力の正体を自分で見極めろ』とか」
ガレオンはしばらく黙り込んでいた。囲炉裏に薪をくべる手つきが、いつもよりわずかに慎重だった。
「その者は、他に何か言っていたか」
「かつて、色を持たない紋の者の言い伝えがあるって。でも、それがどうなったかは語る立場にない、って」
「……そうか」
短い相槌だけを返し、ガレオンはそれ以上何も言わなかった。だが、その横顔には、これまでにない緊張が滲んでいた。エルフたちが、あの言い伝えを――旧ヴェルニアの真実を、どこまで知っているのか。老人自身にも、はっきりとはわからなかった。
「爺さん、エルフのこと知ってるのか?」
「昔、多少の付き合いはあった。それだけだ」
それ以上は語らないという態度に、ユリオはもう慣れっこになっていた。
「今日はもう遅い。飯を食ったら帰れ」
「はいはい」
いつも通りの素っ気ないやり取りを交わし、ユリオは丘を下り始めた。だが、遠ざかっていくその背中を見つめながら、ガレオンの胸中には、また一つ、重い懸念が積み重なっていた。
(森の連中まで、動き始めているということか)
ゼルギアの気配、鑑定院の調査官、そして今度はエルフ。少しずつ、様々な糸が、この小さな辺境の村へと手繰り寄せられていくのを、老人は肌で感じ取っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。
続きが気になりましたら、ブックマーク・下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




