第八話 記録にない力
村に来てから、十日近くが過ぎていた。
リィナは村長の家の一室を借り、簡易の執務机代わりにしていた。机の上には、これまで集めた記録の写しが山のように積まれている。十三歳時の照会の記録、老司祭の手記の断片、そして森で目にしたあの地面の歪みについての、自分自身の観察記録。
これらを一つの報告書にまとめ、王都の鑑定院本部へ送る必要があった。だが、単なる報告だけでは足りない。もし本当に、ユリオと同種の異常を持つ「前例」が過去に存在していたのなら、その記録を正式に照会しなければならない。
リィナは羽根ペンを手に取り、慎重に文面を練り始めた。
「――辺境の集落における鑑定紋の異常事例につき、過去の類似記録の有無を確認されたし。特に、紋様形成不全かつ色彩判定不能という前例のない結果について、王都本院に保管されている記録との照合を要請する」
できる限り事務的に、感情を排した文章を心がけた。もし本当に何かが隠蔽されているのだとしたら、その相手が誰であれ、迂闊な言葉で警戒させるわけにはいかない。
書き上げた報告書を丁寧に封じ、リィナは村の外れにある小さな駅逓所へと向かった。辺境の村々を繋ぐ伝令鳥の中継地点だ。王都までは、鳥の足でも三日はかかる。返答が来るまでには、さらに数日を要するだろう。
「これを、鑑定院本部宛に。最優先の扱いでお願いします」
「鑑定院の紋章入りの封蝋か……かしこまりました」
駅逓所の係員は、封筒に押された鑑定院の紋章を見て、居住まいを正した。優先便として扱われることを確認し、リィナは鳥が飛び立つのを見届けてから、村へと戻った。
◇
それから数日、リィナは村での聞き取り調査を続けながら、返答を待ち続けた。
村人たちへの聞き取りは、少しずつ実を結びつつあった。特に、村で最も長く生きているという老婆――かつて助産婦をしていたという女性から、興味深い話を聞くことができた。
「あの子が生まれたときのことは、よく覚えてるよ。母親も、初めて我が子の紋を見たときは、さすがに驚いた顔をしてたっけねえ。無理もない、あんな紋、誰も見たことがなかったんだから」
「その頃から、紋は既に灰色だったのですか」
「そうそう。産婆をやってりゃ、生まれたての赤子の紋くらい、何度も見てきたけどねえ。あんな紋、後にも先にもあの子だけだったよ」
老婆はそう言って、遠い目をした。
「でも、驚いてたのはほんの一瞬でねえ。母親はすぐに気を取り直して、その子のことを『変わった子』とは一度も言わなかった。『特別な子』だって、いつも言ってたよ。数日もすれば、灰色の紋を見ても、ちっとも顔を曇らせなくなってねえ。むしろ、誇らしげにすら見えたもんさ」
老婆は懐かしそうに目を細めながら、当時の記憶を手繰り寄せるように話し続けた。
「父親の方も、寡黙だけど優しい男でねえ。畑仕事の合間に、赤ん坊のあの子をあやしながら鼻歌なんか歌ってたっけ。ああいう夫婦の子だから、あの子もあんな風にまっすぐ育ったんだろうねえ」
その言葉が、リィナの胸に静かに残った。記録の上では、ただの「規格外」でしかない存在。だが、その子を産んだ母親にとっては、何よりも大切な、一人の我が子だったのだ。
「そのご両親は、今も村に?」
リィナが尋ねると、老婆は少しだけ言葉を濁した。
「……さて、それはあたしの口から話すことじゃないねえ。気になるなら、いずれ本人に聞いてごらん」
それ以上は語ろうとしない老婆の態度に、リィナは何かしら事情があるのだろうと察し、それ以上踏み込むのを控えた。
(記録の上では、ただの「規格外」でしかない存在だけれど……)
丘の上で剣を振る青年の姿を思い出す。あの明るさの裏に、まだ自分の知らない何かが隠されているのかもしれない。リィナはそう感じながら、静かに礼を言って老婆のもとを辞した。
◇
その日の午後、当のユリオは、いつも通り丘での稽古を終え、村の共同菜園で薪割りの手伝いをしていた。
「ユリオ、いつも悪いね。これ持ってきな」
菜園の持ち主である老爺が、収穫したばかりの野菜を袋いっぱいに渡してくれる。
「いいのか? こんなに」
「いつも力仕事を手伝ってもらってるんだ、これくらい当然さ」
礼を言って受け取りながら、ユリオは重い野菜袋を担いで家路についた。ここ数日、ガレオンの様子がおかしいこと、自分自身の身に起きた説明のつかない出来事――不安の種は尽きなかったが、それでも目の前の日々を、いつも通りに過ごしていくしかなかった。
◇
報告書を送ってから六日目の夕方、駅逓所の係員が慌てた様子で村長の家を訪れた。
「エルスフィア様! 王都から返信が届きました!」
差し出された封筒を、リィナは急いで開封した。中には、鑑定院本部の紋章が押された、簡潔な返信が入っていた。
「――照会の件、確認した。該当する記録は本院に一件存在するが、当該記録は機密指定により閲覧を制限している。詳細については、本人が直接本院に出頭の上、上級職員の許可を得ること」
リィナは、その文面を何度も読み返した。
(一件、存在する……)
やはり、前例は実在した。老司祭の手記に記されていたことは、単なる与太話ではなかったのだ。だが同時に、その記録が「機密指定」されているという事実が、リィナの背筋に冷たいものを走らせた。
通常、鑑定院の記録に機密指定がかけられることは滅多にない。せいぜい、王族や高位貴族に関わる特別な事案くらいのものだ。辺境の一少年に関する記録の照合のために、なぜこれほど厳重な扱いが必要なのか。
(本当に、ただの記録の紛失や怠慢なんかじゃない……)
これは、誰かが意図的に、何かを隠している。その確信が、リィナの中でますます強くなっていった。
返信にはさらに、末尾に短い一文が添えられていた。
「――なお、当該事案について、独断での深追いは推奨しない。追加の指示があるまで、現地調査は継続されたし」
まるで釘を刺すかのような一文だった。深追いするな、と。だが、それはかえって、リィナの疑念をいっそう強めるだけの結果になった。
(何か、後ろめたいことがあるみたいな言い方ね)
もちろん、単なる機密保持の手続き上の慣例という可能性もある。鑑定院の規則に忠実であろうとするなら、ここで大人しく指示に従うべきなのだろう。
だが、リィナの脳裏には、あの老司祭の手記の一文が、繰り返し蘇っていた。
――ただ恐れ、遠ざけるだけであってはならない。
その言葉が、今の自分に向けられているような気がしてならなかった。
◇
その夜、リィナは机に向かい、もう一通の手紙をしたためていた。今度は鑑定院本部宛ではない。個人的な伝手を頼った、内密の問い合わせだった。
宛先は、鑑定院に長く勤める、亡き祖父の代からの旧知の間柄にある古参の記録官。エルスフィア家の名を出せば、多少の融通は利くはずだった。
「非公式に、できる範囲で構いません。三十年ほど前の、旧ヴェルニア領に関する記録について、何か知っていることがあれば教えてください」
規則違反すれすれの依頼だということは、リィナ自身よくわかっていた。だが、正規の手続きだけでは、この先に進めない予感があった。
封をした手紙を握りしめながら、リィナは窓の外――西の空に沈む夕陽を見つめた。あの禁忌地の方角に、まだ何かが眠っている。そんな確信だけが、日に日に強くなっていた。
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「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。
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