第七話 老爺の目
崖崩れの一件から、三日が過ぎていた。
ユリオは表向き、いつも通りの日々を送っていた。朝は稽古に顔を出し、夕方には村へ戻る。だが、ガレオンの目には、その「いつも通り」の裏に潜む微かな違和感が、日に日に色濃くなっていくのがわかった。
素振りの合間に、ふと視線が泳ぐ瞬間がある。何でもない会話の途中で、言葉に詰まる瞬間がある。それは、傍から見れば気のせいで済ませられる程度のものだったが、三十年近く人の機微を見てきたガレオンの目を誤魔化すことはできなかった。
「小僧、今日は打ち合いをするぞ」
その日の朝、いつもの素振りの代わりに、ガレオンはそう切り出した。
「打ち合い? 珍しいな、爺さんがそんなこと言うの」
「たまにはお前の反応速度も見ておきたい。木剣で構わん、遠慮なく来い」
ユリオは戸惑いながらも木剣を構えた。三年間の付き合いの中で、実際に打ち合いをしたことは数えるほどしかない。ガレオンは基礎の反復ばかりを課し、実戦形式の稽古を極力避けてきたからだ。
「じゃあ……いくぞ」
ユリオが踏み込む。剣先を弾かれ、体勢を崩されながらも、なんとか体勢を立て直そうとする。だが、ガレオンの動きは、いつもよりも明らかに速く、鋭かった。
木剣が首筋すれすれを掠める。
「――っ」
ユリオは思わず息を呑んだ。だが、ガレオンが本当に見ていたのは、剣筋そのものではなかった。
ユリオの右手の甲――灰色の紋様。ガレオンの一撃が迫った、まさにその一瞬。ユリオの目に、恐怖とも呼べないほどの、ほんの一瞬の「覚悟」にも似た色がよぎった。そして同時に、その紋様の輪郭が、普段よりもわずかに――本当にわずかに、揺らいだように見えた。
(……やはりか)
ガレオンは剣を止め、静かに一歩下がった。
「はあっ……はあっ……なんだよ、急に本気出しやがって」
息を切らしながら、ユリオが抗議する。ガレオンはそれには答えず、じっとユリオの右手を見つめていた。
「爺さん?」
「……いや。今日はここまでにしよう」
「え、もう終わり? まだ全然疲れてないんだけど」
「十分だ。少し座れ」
訝しげな顔をしながらも、ユリオは丸太の切り株に腰を下ろした。ガレオンは向かいに座り、しばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「小僧。数日前、森で何があった」
核心を突く問いに、ユリオの体がびくりと強張った。
「な、何がって……別に、何もなかったって言っただろ」
「嘘をつくな」
ガレオンの声は、いつになく低く、重かった。
「お前の様子がおかしいのは、あの日からだ。夜もろくに眠れていないんじゃないか、目の下の隈でわかる。剣筋にも、微妙な迷いが混じるようになった。何かがあったんだろう」
図星を突かれ、ユリオは言葉に詰まった。しばらく俯いていたが、やがて観念したように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……本当に、自分でもよくわかんないんだ。森で、崖から落ちた。絶対に助からないと思った。それなのに、気づいたら――何事もなかったみたいに、崖の入り口に立ってた」
「……」
「夢だったのかとも思ったけど、それにしちゃ、リアルすぎたっていうか……体もすごく疲れてて。頭も、ちょっとぼんやりしてて。爺さんとの会話も、なんか一部思い出せなくて……」
言葉にしてみると、自分でもいっそう馬鹿げた話に聞こえた。ユリオは自嘲気味に笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「爺さん、俺、頭おかしくなったのかな」
その問いに、ガレオンは長い沈黙で応えた。囲炉裏の灰をじっと見つめ、何かを深く考え込んでいる様子だった。
「……いや」
ようやく発せられた声は、ひどく静かだった。
「お前は、おかしくなってはいない」
「じゃあ、何なんだよ、あれ」
「今は、まだ言えない」
その答えに、ユリオは思わず声を荒げた。
「またそれかよ! いつもいつも『まだ言えない』ばっかりじゃないか! 俺は本気で不安なんだよ、爺さん!」
珍しく声を荒らげたユリオに、ガレオンは静かに目を伏せた。その中で、何かがせめぎ合っているのが、傍目にもわかった。
「……すまん」
思いのほか素直な謝罪に、ユリオの方が戸惑った。
「今はまだ、確信が持てないんだ。もしお前に起きたことが、俺の考えている通りのものなら――話すべきことは山ほどある。だが、生半可な憶測でお前を振り回すわけにはいかん。もう少し、時間をくれ」
「……爺さんの考えてること、って何だよ」
「今は言えん」
同じ言葉の繰り返しに、ユリオは不満げに唇を尖らせたが、それ以上は追及しなかった。この爺さんが「時間をくれ」と言うときは、本当に何か重いものを抱えているときだ。長年の付き合いで、それだけはわかっていた。
「……わかったよ。でも、いつかはちゃんと教えてくれよな」
「約束する」
珍しくきっぱりとした口調で、ガレオンはそう答えた。
その日は結局、稽古もそこそこに解散となった。丘を下りながら、ユリオは釈然としない思いを抱えていた。ガレオンが何かを隠していることは、薄々気づいていた。だが、それがこんなにも重苦しいものだとは思っていなかった。
村へ戻る道すがら、井戸端でミラと顔を合わせた。
「あれ、ユリオ。今日は帰り早いね」
「ああ、まあ、色々あって」
いつもなら軽口で返すところだが、今日はうまく言葉が出てこなかった。ミラはそんなユリオの様子に、すぐに気づいたようだった。
「……何かあった?」
「いや、大したことじゃ……」
言いかけて、ユリオは口を噤んだ。大したことじゃない、と言い切るには、あまりにも自分の中で消化しきれていない出来事だった。だが、それをミラに話したところで、何がどう変わるわけでもない。
「ごめん、今日はちょっと一人になりたい気分でさ」
「……そう。無理しないでね」
ミラはそれ以上何も聞かず、静かに見送ってくれた。その気遣いが、かえってユリオの胸に染みた。
自宅に戻り、粗末な寝台に横になっても、頭の中はぐるぐると同じ場所を巡り続けていた。ガレオンの言った「今の考えていること」とは、一体何なのか。自分に起きたあの現象は、一体何だったのか。答えの出ない問いを抱えたまま、ユリオはその夜も、なかなか寝付くことができなかった。
◇
その夜、ユリオが村へ帰った後、ガレオンは一人、小屋の奥にしまい込んでいた古い木箱を取り出した。
蓋を開けると、色褪せた刻印の入った一振りの剣が現れる。かつての盟友の名が刻まれたそれを、ガレオンはそっと手に取った。
「――やはり、あの時と同じ揺らぎ方をする」
普段は、ただ淡く滲んでいるだけの紋が、命が脅かされた、その一瞬にだけ――水面に石を落としたように、波立つ。三十年近く前、あの夜に見た、あの青年の紋が、そうだったように。
旧ヴェルニア領の崩壊の現場で目にした、あの光景が脳裏に蘇る。灰色に濁った紋を持つ、孤独な青年。追い詰められ、追い詰められ、やがて全てを飲み込んで消えていった、あの姿。
もし、ユリオに宿る力が、あの時のものと同じ系譜にあるのだとしたら――この少年もまた、いずれ同じ孤独に呑まれる危険を孕んでいるということになる。
(今度こそは)
ガレオンは剣を強く握りしめた。
(今度こそは、独りにはさせない)
あの日、自分は何もできずに、大切な仲間を、そして一人の青年の運命を、見送ることしかできなかった。同じ過ちを、二度と繰り返すつもりはない。
だが、まだ全てを話す時ではない。確証もないまま、いたずらに少年の心を揺さぶることだけは避けたかった。何より、真実を伝えるということは、この村での穏やかな日々に、終わりを告げることでもある。
その覚悟が、まだガレオン自身の中で固まりきっていなかった。
剣を木箱に戻し、蓋を閉じる。老人は囲炉裏の炎を見つめながら、長い夜を、また一人で過ごすことになった。
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