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第六話 音の消えた一瞬

西の森には近づくな。


 リィナがそう言い渡してから、二日が過ぎていた。村人たちは大人しくその忠告に従い、誰も彼もが西の方角を避けるようにして日々の暮らしを送っていた。


 だが、ユリオはどうしても気になって仕方がなかった。


「爺さん、俺、ちょっと森の様子見てくる」


「馬鹿を言うな。あの調査官が近づくなと言っただろうが」


「だからこそだよ。みんな怖がって近づかないから、誰も本当のところを確かめてない。もし村に何か危ないことが起きてるんだったら、放っておけないだろ」


 朝の稽古を終えたばかりのユリオが、そう言い張った。ガレオンは眉間に深い皺を刻んで、しばらく黙り込んでいた。


「村のことなら、大人たちに任せておけばいい。お前が首を突っ込む話じゃない」


「大人たちだって怖がって遠巻きにしてるだけじゃないか。誰かが確かめないと、いつまでも噂だけが独り歩きする。それに――」


 ユリオは一瞬、言葉を切った。


「俺のせいだって言われるくらいなら、せめて自分の目で確かめて、違うって言い返せるようにしときたいんだよ」


 その言葉に、ガレオンの表情がわずかに揺れた。ここ数日、村の一部で囁かれ始めた根も葉もない噂――灰色の紋のせいで山が呪われたという類の話が、ユリオの耳にも届いていることを、老人は察した。


「……お前という奴は」


「危ないと思ったらすぐ戻るよ。ちょっと見るだけだから」


「……行くなとは、もう言わん。どうせお前は、行くんだろう。だが、条件がある。見るのは、お前らがガキの頃に遊び場にしてた、あの岩場までだ。そこから奥へは、一歩も入るな。深追いもするな。少しでもおかしいと感じたら、その場で引き返せ。いいな」


 ガレオンの声には、いつもとは違う、真剣な響きがあった。ユリオは一瞬たじろいだが、それでも頷いて丘を下り始めた。


 村を通り過ぎ、西の外れへと向かう小道を歩きながら、ユリオは自分でもよくわからない衝動に突き動かされていた。村の連中は、自分のことをまた「灰色のせい」と噂している。ならばせめて、何が起きているのか自分の目で確かめて、少しでも役に立ちたい――そんな、半ば意地のような気持ちがあった。


 森に足を踏み入れると、確かに空気が違った。木々の葉擦れの音が、やけに耳につく。肌が粟立つような、説明のつかない緊張感が漂っている。


 しばらく進むと、開けた岩場に出た。以前、村の子供たちとよく遊びに来ていた場所だ。切り立った崖の上から、村を見下ろせる見晴らしの良い場所だった。


 だが、その岩場の様子は、記憶にあるものと明らかに違っていた。


 地面のあちこちに、細い亀裂が走っている。近づいてよく見ると、その亀裂の縁が、まるで熱で炙られたかのように、微かに黒ずんでいた。


「これが……」


 リィナの言っていた「歪み」というのは、これのことだろうか。ユリオは慎重に足を踏み出し、亀裂の様子を観察しようと屈み込んだ。


 その瞬間だった。


 足元の地面が、ぐらりと揺れた。


「――っ!?」


 崩れる、と思ったときにはもう遅かった。長年風雨に晒されて脆くなっていた岩場が、ユリオの体重を支えきれずに崩落を始めたのだ。足元の岩盤が、大きく傾ぐ。体が、滑り落ちていく岩と一緒に、崖の縁へと、引きずり込まれていく。


 崖の下まで、優に十数メートル。傾いだ視界の先に、遥か下の岩の地面が、口を開けて見えた。手を伸ばしても、掴めるものは、共に滑り落ちていく砕けた岩ばかり。岩盤の砕ける轟音だけが、やけにはっきりと耳に響いた。


(やば――)


 悲鳴を上げる間もなかった。体は、崩れゆく岩盤ごと、崖下へと滑り出していく。眼下の岩の地面が、恐ろしいほどゆっくりと、それでいて確実に近づいてくる――時間の流れが、極限まで引き伸ばされたかのような、あの独特の感覚の中で。頭の中を、これまでの十八年間の記憶が、走馬灯のように駆け抜けていく。


 鑑定官に嘲笑われた朝。ガレオンとの稽古。ミラの笑顔。灰色に滲んだ自分の紋。何一つ、報われなかった気がする人生。それでも、諦めずに笑ってきた日々。


(こんなとこで終わってたまるかよ……)


(上等じゃねえか……!)


 心の中で叫んだ、その言葉と共に――


 世界から、音が消えた。


 岩盤の砕ける轟音が、途中で、ぷつりと断ち切られた。視界の中で、崩れ落ちていく岩の群れが、まるで琥珀に閉じ込められた小石のように、空中で静止している。舞い上がった砂塵の一粒一粒までもが、陽の光を受けたまま、凍りついていた。


挿絵(By みてみん)


(……何だ、これ)


 止まった世界の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。恐怖よりも先に、場違いなほど静かな、奇妙な感覚があった。


 そして――視えた。


 静止した崩落の、その"続き"が。どの岩がこの後も持ち堪え、どの岩が崩れ落ちていくのか。砕けゆく岩場の上に、薄い残像のように、ほんの数瞬先の景色が、重なって視えた気がした。


 考えるより先に、体が、勝手に動き出した。


 そこから先の記憶は、ない。


 視界が、白く弾けた。


   ◇


 気がつくと、ユリオは岩場の入り口に立っていた。


「……は?」


 思わず、間の抜けた声が漏れた。自分は、崩れる岩と一緒に、崖下へ滑り落ちたはずだ。あの、地面が口を開けて迫ってくる感覚まで、はっきりと覚えている。それなのに、今、自分が立っているのは、崩れた場所から十歩は離れた、岩場の入り口だった。


 全身を確かめてみる。大きな痛みはない。骨も折れていない。ただ――両の掌に、覚えのない擦り傷が、いくつも走っていた。爪の間には、砕けた岩の粉が、白く食い込んでいる。まるで、必死で岩肌を掴んで、駆け戻りでもしたかのように。だが、そんな記憶は、どこにも、なかった。


「夢……? いや、でも……」


 混乱したまま、ユリオは自分の手を見つめた。掌にじっとりと汗が滲んでいる。心臓は、まだ早鐘のように打ち続けていた。夢にしては、あまりにも生々しい感覚だった。


 恐る恐る、崖の縁まで歩み寄る。先ほど自分が踏み込んだはずの場所――亀裂の入った岩の一部が、確かにわずかに崩れているのが見えた。だが、それは「今にも崩れそうな状態」ではなく、「既に崩れ落ちた後」の状態だった。


(俺、本当に落ちたのか……? でも、なんで――)


 頭が追いつかない。だが、一つだけ確かなことがある。もしあのまま落ちていたら、間違いなく無事では済まなかった。


「……運が良かった、ってことにしとくか」


 自分に言い聞かせるように、ユリオは呟いた。それ以外に、この状況を説明する言葉が見つからなかった。


 妙な疲労感が、体の奥からじわりと滲み出てくる。ほんの数秒前まで全速力で走っていたかのような、そんな倦怠感だった。心なしか、少し頭痛もする。


(今日はもう、帰った方がいいかもな)


 崖には近づかないよう注意を払いながら、ユリオはそれ以上の探索を諦め、来た道を引き返し始めた。


 森を抜ける道すがら、ふと違和感を覚えた。


(あれ……さっき、ガレオンの爺さんと何の話をしたんだっけ)


 丘を出る前、確かにガレオンと言葉を交わしたはずだ。だが、その内容が、なぜかうまく思い出せない。「危ないと思ったらすぐ戻る」と自分が言ったことは覚えている。だが、その前後のやり取りが、まるで霧がかかったように曖昧だった。


(疲れてるだけだよな、多分)


 ユリオはそう自分に言い聞かせ、それ以上深く考えないようにした。この違和感の正体に、まだ彼は気づいていない。


   ◇


 村へ戻る道の途中、ユリオは村外れの井戸端で、水を汲んでいるミラと出くわした。


「あれ、ユリオ。今日は稽古行かなかったの?」


「いや、行ったよ。その後、ちょっと森の様子見に行ってきた」


「森って……調査官の人が近づくなって言ってたとこ?」


 ミラの声に、非難めいた色が混じる。ユリオは苦笑しながら頭を掻いた。


「大丈夫、大丈夫。ちゃんと気をつけたし、何もなかったから」


 そう言いながらも、脳裏には、あの一瞬の落下の感覚が生々しく蘇る。何もなかった、というのは、果たして本当なのだろうか。


「……ユリオ?」


 ぼんやりと考え込んでいたユリオに、ミラが心配そうに顔を覗き込んだ。


「あ、いや、何でもない。ちょっと考え事してた」


「顔色、悪いよ。ちゃんと寝てる?」


「寝てる寝てる。心配すんな」


 軽く笑って誤魔化すと、ユリオはそのまま村の中へと歩き出した。だが、内心では、自分でも説明のつかない不安が、静かに胸の奥に根を張り始めていた。


 その夜、村の自宅で床に就いてからも、ユリオはなかなか寝付けなかった。目を閉じると、崖から滑り落ちる瞬間の感覚が、繰り返し蘇ってくる。あの浮遊感。迫る岩肌。そして、次の瞬間には、何事もなかったかのように立っていた自分。


 それに――あの、最後の一瞬。何か、とんでもないものを見た気がするのだ。音の消えた世界。宙で止まった、岩の群れ。だが、思い出そうとするたび、その光景は、夢の残滓のように、指の間から零れて、消えていく。


(俺、一体何が起きたんだ……)


 答えの出ない問いを抱えたまま、ユリオはようやく浅い眠りに落ちていった。


   ◇


 同じ頃、丘の上の小屋では、ガレオンが一人、囲炉裏の前に座り込んでいた。


 昼間、丘の上から遠目に見えた、森から村へと戻っていくユリオの様子を、老人は見逃していなかった。いつもなら真っ直ぐな足取りが、妙に、覚束ない。あの距離からでも見て取れるほど、その歩みに、ほんの一瞬だけ滲んでいた違和感。あれは、単なる疲れではない。


(まさか、もう……)


 脳裏に浮かびかけた考えを、ガレオンは静かに振り払った。今はまだ、確信を持って言えることは何もない。だが、長年抱えてきた懸念が、ゆっくりと現実の形を帯び始めていることだけは、痛いほどに感じ取っていた。


 老人の目には、今日一日、ユリオの様子を見てからずっと消えない、深い懸念の色が浮かんでいた。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。

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