第五話 山の異変
その日の朝は、いつもと様子が違っていた。
村の家畜小屋から、けたたましい鳴き声が響いていたのだ。ユリオが目を覚ましたとき、すでに外は騒がしくなっていた。身支度もそこそこに戸を開けると、隣家の山羊が柵に頭を打ちつけるようにして暴れ回っているのが見えた。
「どうしたんだよ、お前」
声をかけても、山羊は興奮した様子を収めない。目を血走らせ、何かから逃げようとするかのように、狭い柵の中を右往左往していた。
「ユリオ! ちょっと手を貸してくれ!」
隣家の主人が慌てた様子で駆けてくる。ユリオも急いで柵の修繕を手伝いながら、ふと違和感を覚えた。
(こいつだけじゃない……)
周囲を見渡せば、鶏小屋の鶏たちも、いつになく甲高い声で鳴き続けている。犬たちは尻尾を丸め、家の陰に隠れるようにして震えていた。村中の動物たちが、まるで示し合わせたかのように、一様に怯えているのだ。
「今朝からずっとこうなんだよ。何かあったのかね」
「わかんねえけど……とりあえず、山羊は落ち着いたか」
柵を直し終える頃には、山羊もようやく大人しくなっていた。だが、ユリオの胸の奥には、拭いきれない違和感が残っていた。
その足で丘へ向かうと、いつもは静かな道すがら、木々のざわめきがやけに大きく感じられた。風もないのに、葉擦れの音だけが、ざあ、ざあと不自然に響いている。
「爺さん、動物たちの様子がおかしいんだ。何か知らないか?」
小屋に着くなり、ユリオは開口一番にそう尋ねた。ガレオンは薬草畑の手入れをしていた手を止め、顔を上げる。
「……ああ、気づいたか」
「爺さんも気づいてたのか」
「動物ってのは、人間より鼻が利く。目に見えねえもんにも敏感だ」
ガレオンは短く答えると、それ以上多くを語らなかった。だが、その視線は、山の奥――村から見て西側、旧ヴェルニア領へと続く方角に、ちらりと向けられていた。
「目に見えねえもんって、何だよ」
「知らん。だが、悪い予感がするなら、大人しくしておくに越したことはない」
いつもより口数の少ないガレオンに、ユリオは少しだけ不安を覚えたが、それ以上は追及しなかった。この老人が「知らん」と言うときは、大抵本当に何かを知っているときだ。だが、聞いても答えないことも、ユリオはよくわかっていた。
「今日は素振り、いつも通りでいいのか?」
「当たり前だ。何があろうと基礎は基礎だ。振れ」
結局その日も、木剣を渡され、いつも通りの稽古が始まった。だが、ユリオの意識はどこか上の空だった。剣を振るたびに、視界の端で木々の影が揺れる。気のせいだと思おうとしても、拭いきれない不穏さが、丘全体に薄く立ち込めているような気がしてならなかった。
◇
同じ頃、村長の家では、リィナが朝の騒ぎを聞きつけて外に飛び出していた。
「一体何が……」
興奮する家畜たちの様子を目にした瞬間、彼女の脳裏に、王都で見た報告書の文言が蘇った。
――国境近くの砦が一夜にして崩落した事件。時間の流れが乱れたように証言する目撃者たち。畑の作物が一晩で数十年分老いたかのように朽ち果てた村。
いずれの事件でも、前兆として「動物の異常な怯え」が報告されていたことを、リィナは思い出していた。
(まさか、もうここまで……)
昨日までは、あくまで記録上の懸念に過ぎなかった。だが、目の前で起きているこの光景は、疑いようのない現実だった。
リィナは急いで身支度を整えると、村長に断りを入れ、村の外れへと向かった。調査官としての本能が、直接自分の目で確かめることを求めていた。
村の西側、森へと続く小道を進むにつれて、空気の質が変わっていくのを感じる。肌がぴりぴりと痺れるような、説明のつかない違和感。深く息を吸い込むと、微かに、鉄錆のような匂いが混じっている気がした。
しばらく進むと、開けた場所に出た。普段は緑豊かなはずのその一角の地面が、ほんのわずかに――だが確かに、歪んでいた。
まるで、地面という平面そのものが、水面のように波打っているかのような、奇妙な光景だった。じっと見つめていると、目の焦点が合わなくなるような、酩酊にも似た感覚に襲われる。
「これは……」
リィナは思わず後ずさった。鑑定院で学んだどの知識にも、これに類する現象は見当たらない。だが、直感的にわかる。これは、尋常なものではない。
(測定不能な力の痕跡、というのは……こういうことだったのね)
報告書の文字面だけでは、決して理解できなかった感覚だった。実際にこの目で見て、肌で感じて、初めて腑に落ちる。この歪みが、これからどれほどの脅威に育つのか、今の段階では誰にもわからない。
リィナはその場に長居せず、慎重に距離を取りながら村へと引き返した。一刻も早く、この事実を王都へ報告する必要がある。だが同時に、この村に留まり続けることの重要性も、彼女の中でますます強くなっていた。
(ゼルギアの気配が、確かにここにある……)
もしそうならば、この村――そしてユリオ・カインという少年は、これから起こることの、まさに渦中に置かれることになるかもしれない。
◇
夕方、村に戻ったリィナは、村長を通じて緊急の寄り合いを開くよう頼み込んだ。動物たちの異常な様子と、森の異変について、村人たちに注意を促すためだった。
「――というわけで、当面の間、西の森には近づかないようにしてください。何か異変を感じたら、すぐに知らせてください」
集まった村人たちは、突然のことに戸惑いを隠せない様子だった。中には、鑑定院の調査官が急にそんなことを言い出したことへの不信感を露わにする者もいた。
「それは、あんたが調べてる例の坊主と、何か関係あるのかい」
一人の年配の男が、ユリオの方をちらりと見ながら、そう口にした。広場の隅に立っていたユリオは、突然自分に視線が集まったことに戸惑う。
「まさか、あの子のせいでこんなことに……?」
「灰色の紋のせいで、山が呪われたんじゃ……」
根も葉もない憶測が、じわじわと広がりかけるのを、リィナはすぐに遮った。
「違います。彼とは無関係です。私が調査しているのは、あくまで王都で報告されている広域の異変についてです」
きっぱりとした口調で言い切ると、村人たちの動揺は幾分か収まった。だが、ユリオに向けられた視線の中には、まだ疑わしげな色が残っていた。
ユリオ自身は、努めて平静を装っていたが、内心では、ちくりとした痛みを感じていた。灰色の紋のせいで、また何か悪いことの原因にされる――物心ついた頃から、幾度となく味わってきた感覚だった。
寄り合いが解散した後、リィナはユリオの元へ歩み寄った。
「巻き込むような真似をして、ごめんなさい」
「別に。慣れてるから」
ユリオは肩をすくめて、いつもの調子で答えた。だが、その声にわずかな翳りが混じっていることに、リィナは気づいていた。
「あなたは、本当は――」
何かを言いかけて、リィナは言葉を飲み込んだ。まだ、確かめるべきことが多すぎる。憶測だけで踏み込むには、あまりに繊細な問題だった。
「いえ、何でもないわ。夜も遅いし、今日はもう休んで」
「……ああ、そうする」
ユリオは訝しげな顔をしながらも、丘へと帰っていった。その背中を見送りながら、リィナは西の空――日が沈み、薄闇に覆われ始めた山の稜線を見つめた。
あの歪みは、まだ消えていないだろう。むしろ、これから少しずつ、その存在感を増していくに違いない。
(早く、確かめないと……)
何を、とは、はっきりと言葉にできなかった。だが、確かな予感だけが、リィナの胸の中で静かに、しかし着実に膨らんでいた。
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