第四話 灰色の紋、再び
朝一番、リィナは再び教会の書庫を訪れていた。
昨夜は結局、記録の続きを読み切れないまま眠りに落ちてしまった。村長には無理を言って、朝食もそこそこに再び書庫へ入れてもらう許可を取り付けた。
「熱心なことで。王都の方は、皆さんそんなにお忙しいのですか」
書庫の鍵を開けながら、村長が苦笑混じりに言う。
「性分なんです。気になったことは、とことん確かめないと気が済まなくて」
そう答えながら、リィナは苦笑を返した。幼い頃からそうだった。エルスフィア家の令嬢として、決められた作法や儀礼を完璧にこなす一方で、疑問に思ったことは誰に何と言われようと最後まで突き詰めずにはいられない。それが、婚約者であるカイエルとの間に、時折小さな軋轢を生む原因にもなっていた。
(カイエル様なら、この村を見てどう思うかしら)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。彼ならきっと、この村の質素な暮らしぶりを見て、「秩序だっていない」と眉をひそめるだろう。紋のランクに応じた役割分担も、明確な統治機構も見当たらないこの土地を、彼は苦々しく思うに違いない。
だが、リィナ自身は――正直なところ、それほど悪い場所だとは思えずにいた。
埃っぽい書庫に足を踏み入れ、昨夜の続きから記録を検め始める。昨日、記録箱の底で見つけた、あの古びた紙片――かつてこの村にいた老司祭の手記から破れ落ちたと思しき、あの一枚。その続きの断片が、他にも残っていないか。今日は、木箱の奥までくまなく探すつもりだった。
小一時間ほど探し続けたところで、リィナはようやく、別の紙片を見つけ出した。同じ筆跡、同じ紙質。おそらく同じ手記から千切れたものだろう。
「――あの旅の老人は、こうも言っていた。西の地で色を持たぬ紋を宿した若者は、やがて誰からも理解されず、孤独のうちに姿を消したという。真偽は定かではないが、もし本当にそのような者が今もどこかにいるとすれば、我々はその者にどう接するべきなのか。少なくとも、ただ恐れ、遠ざけるだけであってはならないと、私は思う」
文章はそこで途切れ、それ以上の記述は見当たらなかった。
(誰からも理解されず、孤独のうちに姿を消した……)
その一文が、リィナの胸に重く残った。もしこの言い伝えが本当なら、灰色の紋を持つ者を待ち受ける未来は、決して明るいものではないということになる。ユリオという少年の顔を思い浮かべる。丘の上で剣を振り続けていた、あの飄々とした横顔を。
彼もまた、いつか同じ道を辿るのだろうか。
リィナは首を振った。まだ何も確定したわけではない。憶測を重ねるだけでは、真実には近づけない。
昼を過ぎた頃、リィナは書庫を出て、村の中を歩きながら考えを整理することにした。子供たちが井戸端で水を汲む音、鍛冶屋から響く槌の音、洗濯物をはためかせる風――ありふれた村の日常が、いつもと変わらず続いている。その平和な光景の裏で、一人の青年の運命が、静かに岐路に立たされようとしていることに、村人たちはまだ誰も気づいていない。
パン屋の店先を通りかかると、店番をしていたあの娘――ミラと呼ばれていたはずだ――が、リィナに気づいて小さく会釈した。行商人だと思っていた相手が、実は鑑定院の調査官だったと知って、少し身構えている様子だった。
「あの……本当に、鑑定院の方だったんですね」
「驚かせてしまってごめんなさい。少し、村のことを知りたかったの」
リィナは努めて柔らかい声で答えた。ミラは少し迷うような表情を見せてから、思い切ったように口を開いた。
「ユリオのこと、調べてるんですよね。噂で聞きました」
率直な問いかけに、リィナは一瞬答えに詰まった。誤魔化す理由もない、と判断し、静かに頷く。
「ええ、そうよ」
「あの子、悪い子じゃないです。紋のことでずっと笑われてきたけど、それでも卑屈になったりしないで……。だから、もし何か悪いことをしに来たんじゃないなら、いいんですけど」
ミラの声には、隠しきれない心配が滲んでいた。幼馴染としての、素朴だが強い気持ちが伝わってくる。
「悪いことをしに来たわけじゃないわ。約束はできないけれど、少なくとも、彼を傷つけるつもりはない」
その言葉に、ミラはわずかに表情を緩めた。
「……よろしくお願いします」
深々と頭を下げるミラを見て、リィナは胸の奥が小さく疼くのを感じた。この村の人々にとって、ユリオという存在は、単なる「規格外の記録」ではない。ちゃんと血の通った、大切な誰かなのだ。そのことを、改めて突きつけられた気がした。
夕刻近く、リィナは丘へと続く小道を再び歩いていた。今日こそは、遠目に眺めるだけでなく、正式に声をかけようと決めていた。
だが、丘のふもとまで辿り着いたところで、リィナは足を止めた。小屋の方から、剣を振る音に混じって、ユリオとガレオンの笑い声のようなものが聞こえてくる。何気ない、日常の一コマ。それを邪魔することに、一瞬の躊躇いを覚えた。
(今日は、やめておきましょう)
結局、リィナはその日、声をかけることなく村へと引き返した。調査官らしくない、感傷的な判断だという自覚はあった。それでも、あの穏やかな時間を壊すことに、どうしても踏み切れなかったのだ。
◇
村長の家の一室に泊めてもらいながら、リィナはなかなか寝付けずにいた。
寝台に横になり、天井の木目をぼんやりと見つめる。今日一日で得た情報を、頭の中で整理しようと試みる。
一つ、ユリオ・カインの紋は、五行のいずれにも、光にも闇にも属さない、前例のほとんどない灰色の紋である。
二つ、十三歳時点で王都への照会が行われた記録があるにもかかわらず、その後五年間、村には何の音沙汰もなかった。
三つ、この村に伝わる古い言い伝えによれば、同様の色を持たぬ紋を宿した者が、かつて旧ヴェルニア領――今の禁忌地――に存在していたかもしれない。しかもその者は、孤独のうちに姿を消したという。
四つ、王都では今、辺境一帯に「測定不能な力の痕跡」が相次いで確認されており、鑑定院上層部はこれを「災厄・ゼルギア」と呼んで警戒を強めている。
これらを繋げて考えるのは、飛躍が過ぎるだろうか。リィナは自問した。だが、調査官としての勘――というより、幼い頃から鍛えられてきた論理的思考が、これらの点を一本の線として結びつけずにはいられなかった。
(あの子に会って、確かめないと)
これまでは遠目に観察するだけで、慎重に、慎重に事を進めてきた。だが、もうその段階は終わりにするべきだ。明日こそは、正式にユリオ・カインという人物に会いに行こう。リィナはそう決めて、ようやく目を閉じた。
その夜、彼女は珍しく夢を見た。夢の中で、灰色の紋を持つ誰かが、見知らぬ荒野に一人立ち尽くしていた。顔はよく見えない。ただ、その背中だけが、やけに寂しげに見えた。
◇
同じ夜、丘の上の小屋では、ユリオがいつも通りの夕餉を終え、ガレオンと差し向かいで座っていた。
「なあ爺さん、最近村に王都の人間が来てるって噂、知ってるか?」
ふと思い出したように、ユリオが口にした。行商人にしては様子がおかしい、村の女たちが噂していた――そんな話が、村中を駆け巡っていた。今日、丘のふもとで人影を見かけた気もするが、確信は持てない。
「知らんな」
ガレオンは素っ気なく答えたが、その目はわずかに細められていた。
「なんか、鑑定院とかいう堅苦しいとこの人らしいぜ。まさか俺の紋、また何か調べに来たんじゃないだろうな」
冗談めかして言ったつもりだったが、ガレオンは何も答えなかった。ただ、囲炉裏の炎をじっと見つめたまま、しばらく黙り込んでいる。
「……爺さん?」
「何でもない。さっさと寝ろ、小僧。明日も稽古だ」
「はいはい」
いつもと変わらぬ素っ気ない口調。だが、その夜のガレオンの表情には、ユリオが気づかないほどのわずかな緊張が、確かに滲んでいた。
「今日はもう遅い。気をつけて帰れ」
「わかってるって。じゃあな、爺さん」
ユリオが丘を下りていく足音が遠ざかるまで、ガレオンは戸口に立ったまま見送っていた。足音が完全に聞こえなくなってから、ようやく小屋の中に戻り、囲炉裏の前に腰を下ろす。
老人は、遠い記憶の中の誰かを思い出していた。かつて自分が守れなかった者と、今、村の方角へ帰っていったあの少年の姿が、静かに重なっていく。
(もし、王都が本当に動き出したのなら――)
いずれ来ると覚悟していた日が、思ったよりも早く訪れようとしているのかもしれない。ガレオンは古い木箱に手を伸ばしかけ、しかし途中で止めた。まだ、その時ではない。
代わりに、彼は灰色に沈んだ夜空を、小屋の窓越しにそっと見上げた。星の一つも見えない、雲の厚い夜だった。
「――もう少しだけ、時間をくれ」
誰に向けたものかわからない呟きが、静かな夜の中に溶けていった。
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「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。
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