第三話 空から来た調査官
森の外れで一夜を明かしたリィナは、すぐには村へ足を踏み入れなかった。
調査官としての鉄則がある。対象に接触する前に、まずその環境をよく観察すること。先入観だけで動けば、見誤る。まして今回の対象は、十年以上にわたって「判定不能」という前例のない結果を出し続けている少年だ。慎重に事を運ぶべきだと、リィナ自身が誰よりもよくわかっていた。
だから、彼女は数日をかけて村の周辺に身を潜め、旅の行商人を装って村に出入りしながら、静かに様子を窺うことにした。
携えてきた荷は、王都の職人が作った小さな装飾品や、質の良い針と糸。辺境の村では滅多に手に入らない品々だ。売り歩くふりをすれば、自然と人々の輪の中に入り込める。調査官としての訓練の一つに、こうした変装や潜入の技術も含まれていた。もっとも、実際に使う機会は多くない。今回のように、対象の素性がまるで掴めない案件は、リィナの短いキャリアの中でも初めてのことだった。
初めて村の入り口をくぐったとき、リィナはまず、その質素さに驚かされた。王都の石畳とは違う、踏み固められただけの土の道。整然と区画された貴族街とは違う、思い思いに建てられた木造の家々。井戸端では女たちが世間話をしながら洗濯をし、畑では老人と子供が並んで土を耕している。
王都で生まれ育ったリィナにとって、それは異世界のような光景だった。
(ここでは、鑑定紋の属性よりも、明日の畑仕事の方が余程大事な話題になるのね)
そう思う自分に、リィナは少しだけ苦笑した。エルスフィア公爵家の令嬢として育った彼女にとって、紋は生まれた瞬間から人生を決める絶対的な指標だった。ランクA以上を約束された自分は、幼い頃から次期当主候補として、あるいはしかるべき家との縁を結ぶための駒として扱われてきた。紋の色一つで人生の道筋が敷かれる――それが当然だと思っていた。
だが、この村の人々を見ていると、そんな価値観がひどく狭いもののように思えてくる。畑の実りが良いか悪いか。冬を越せる薪が足りているか。子供が元気に育っているか。ここでは、紋よりもずっと切実な問題が、日々の暮らしを形作っていた。
行商人を装って雑貨を売り歩きながら、リィナは村人たちの会話に耳を澄ませた。数日もすれば、村の噂話は自然と耳に入ってくる。
「そういや、ユリオんとこの爺さん、今年はいつにも増して機嫌が悪いらしいぞ」
「ああ、鑑定の後だからな。あの子も大変だ」
「悪い子じゃないんだけどねえ、あの子は。ただ、紋がねえ……」
「それにしても五年に一度の鑑定のたびに、あの子だけ呼び出されるってのは、なんだか可哀想な話だよなあ」
断片的な会話の端々から、リィナは少しずつ像を結んでいく。灰色の紋を持つ少年は、村では「気の毒な子」として認識されているらしい。蔑まれてはいるが、憎まれているわけではない。むしろ、どこか放っておけない存在として扱われている節すらあった。
パン屋の店先では、若い娘が客にこんなことを話していた。
「ユリオ? ああ、今日もガレオンさんのとこで素振りしてるんじゃないかな。あの子、雨の日も雪の日も休まないから」
「相変わらず律儀だねえ」
「律儀っていうか……頑固なのよ、あれで。誰に何言われても平気な顔してるけど、絶対に本当は平気じゃないと思うんだよね」
その言葉に、リィナはふと針を止めた。見知らぬ行商人のふりをしていることも忘れて、思わず聞き耳を立てる。娘――どうやらパン屋の一人娘らしい――は、それ以上多くを語らなかったが、その口ぶりには、単なる同情以上の何かが滲んでいるように感じられた。
三日目の午後、リィナは村外れの丘へと続く小道を歩いていた。表向きは薬草を探しているという体だったが、本当の目的は違う。
丘の上、粗末な小屋の前で、一人の青年が木剣を振り続けている。傍らに座る老人が、時折鋭い声を飛ばす。青年はその都度、素直に剣筋を直しながら、汗だくで振り続けていた。
(あれが……)
リィナは木陰に身を潜め、遠くからその様子を見つめた。距離があって表情まではわからないが、青年の姿からは、蔑まれ続けてきた者特有の暗さのようなものが、不思議と感じられなかった。むしろ、剣を振るたびに漏れる悪態や、老人とのやり取りには、どこか軽妙な、人を食ったような明るさすら漂っている。
剣を振る音は、いっそ清々しいほど規則正しく丘に響いていた。
しばらく観察を続けるうち、リィナはあることに気づいた。老人――おそらく村人の言う「ガレオンさん」だろう――の視線が、時折不自然なほど青年の右手に向けられているのだ。素振りの合間、ほんの一瞬。まるで、何かを確かめるかのように。
(何を、見ているのかしら)
鑑定院の調査官として培った観察眼が、その些細な違和感を見逃さなかった。だが、遠目ではそれ以上のことはわからない。リィナは静かにその場を離れ、村へと戻ることにした。
夕暮れ時、村の中央広場を通りかかると、当の青年――ユリオが、パン屋の娘と何やら親しげに言葉を交わしているのが見えた。娘が差し出したパンを受け取り、屈託なく笑う横顔。灰色の紋を持つ者の顔に、リィナが予想していたような陰りは見当たらなかった。
(記録の上では「規格外」でしかないけれど……)
紙の上の文字と、実際に生きている人間との間には、埋めがたい隔たりがある。リィナはそのことを、改めて思い知らされた気がした。
その日の夕方、リィナは村長の家を訪ね、ようやく正式に身分を明かすことにした。潜伏調査にも限界がある。何より、鑑定院の調査官が名乗り出ずに村をうろついていることが露見すれば、要らぬ混乱を招きかねない。
「鑑定院から参りました、リィナ・エルスフィアと申します」
村長は最初こそ驚いた様子を見せたが、すぐに恐縮した態度で彼女を迎え入れた。辺境の村にとって、王都から――ましてや鑑定院から人が訪れることなど、滅多にあることではない。
「これはこれは……先日の鑑定官様とは、また別のご用件で?」
「はい。先日行われた鑑定の記録について、確認したいことがございます」
リィナは慎重に言葉を選びながら、単刀直入には切り出さなかった。まずは記録を、この目で確かめてから――そう決めていた。
「記録なら、教会の方に保管してあります。何せ、この五年に一度きりの一大事ですから、村でも大事に扱っておりまして」
「実は、数日ほど村に滞在させていただいておりました。行商人のふりをしてしまい、申し訳ございません」
村長は一瞬目を丸くしたが、それ以上は追及しなかった。鑑定院の人間の仕事のやり方に、一介の村長が口を挟めるはずもない。
「なるほど……それで、我々の村の様子は、いかがでしたかな」
「思っていたよりも、ずっと……」
リィナは言葉を探した。「豊か」というのは適切ではない気がした。物質的な意味では、この村は決して豊かではない。だが、何と言えばいいのか。
「思っていたよりも、ずっと、人間らしい場所でした」
我ながら曖昧な答えだと思ったが、村長は満更でもなさそうに目を細めた。
村長に案内され、リィナは小さな教会の奥にある書庫へと通された。埃をかぶった木箱の中には、歴代の鑑定記録が几帳面に保管されていた。王都の鑑定院とは比べ物にならないほど質素な保管方法だったが、その分、記録には辺境の人々の生活が色濃く滲んでいるようにも感じられた。生まれた子の名前の横に、時折「元気に育っている」だとか「病弱ゆえ要注意」といった、事務的な記録には不似合いな一言が添えられていることもある。
「灯りは、こちらをお使いください。日が落ちると、この辺りは真っ暗になりますので」
村長はランプを一つ置いて、静かに書庫を後にした。
一人残されたリィナは、丁寧に木箱を開け、古い記録を手に取り始めた。
村の全ての記録に目を通すには、それなりの時間がかかるだろう。だが、彼女には確かめたいことがあった。あの、王都で見た羊皮紙の記録――ユリオ・カインという名の少年について、この村独自の記録には、何が残されているのか。中央の記録簿は、あくまで結果だけを簡潔に記したものだ。だがこの村の記録には、もっと詳しい――例えば、その日の様子や、立ち会った人々の証言のようなものが、残されているかもしれない。
埃っぽい紙の匂いの中、リィナは記録を一枚一枚めくっていく。生まれた子供たちの名前、鑑定結果、簡単な家族構成。ありふれた記述が延々と続く中、彼女は「ユリオ・カイン」の名を探し当てた。
三歳の記録。八歳の記録。十三歳の記録。
どの記録にも、判で押したように同じ一文が添えられていた。
――紋様形成不全、色彩判定不能。前例なし。
だが、十三歳の記録の欄外に、他の記述とは明らかに筆跡の違う、小さな走り書きが残されていた。当時の鑑定官によるものだろうか。
「――此度の個体、他に類例を見ず。参考として、王都本院に照会を要す」
照会。つまり、この結果は当時、村の外――もしかすると王都にまで報告が上がっていたということだ。
(それなら、王都の本院には、もっと詳しい記録が残っているはず……)
リィナの脳裏に、疑問が一つ、また一つと積み重なっていく。なぜ、十三歳の時点で照会が行われたにもかかわらず、それから五年もの間、誰もこの村を訪れなかったのか。なぜ、リィナ自身がこの記録の存在を、王都で偶然目にするまで知らなかったのか。
記録簿を箱に戻そうとした、その時だった。箱の底、記録の束と底板の隙間に、一枚だけ、明らかに種類の違う紙が挟まっているのに、リィナは気づいた。
鑑定記録の粗い紙ではない。もっと薄く、古びて黄ばんだ紙片。端は千切れており、何かの綴りから破れ落ちた一枚のようだった。丁寧な、しかしどこか年老いた震えの混じる筆跡で、こう記されていた。
「――ある旅の老人から、奇妙な話を聞いた。紋には、ごく稀に、いかなる色も宿らぬものがあるのだという。初めは、酔った者の法螺話と聞き流した。だが、あの子の紋を見たあの日から、私は、この話を笑えなくなった」
文章は、そこで途切れていた。
(これは……鑑定記録じゃない。誰かの、日記――手記のようなもの……?)
教会の書庫の、それも記録箱の底に紛れていたこと。そして、この古びた紙とインクの色。恐らくは、代替わりする前にこの教会にいたという、老司祭が残したものだろう。「あの子」とは、誰のことなのか。「色を宿らぬ紋」の話を、老司祭はどこまで知っていたのか――。
千切れた断片一枚では、何も分からない。それでも、この紙片が、ただの古紙でないことだけは、調査官としての直感が告げていた。リィナは、その紙片を、丁寧に手帳に挟み込んだ。
窓の外はすでに茜色に染まっていた。書庫の隅で埃を払いながら、リィナは静かに、しかし確かな決意を胸に、記録簿を繰り続けた。
まだ何かが、この村には眠っている――そんな予感が、彼女の胸の奥で静かに膨らんでいった。
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「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。
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