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第二話 隠居爺の稽古

鑑定の日から、数日が経っていた。


 木剣が空を切る音が、丘の上に規則正しく響いていた。


 一、二、三――ユリオは口の中で数を数えながら、汗を拭う暇も惜しんで剣を振り続けていた。もう五百は超えている。腕はとうに悲鳴を上げているが、ここで止まればガレオンにどやされるのはわかりきっていた。


「フォームが崩れてるぞ、小僧」


 案の定、影になった軒先から声が飛んでくる。ガレオンは丸太椅子に腰かけたまま、片目だけでユリオの動きを追っていた。


「これでも直したんだけどな……」


「直った気になってるだけだ。剣先が三寸流れてる」


「三寸て。爺さん、目ぇいいな」


「年寄り扱いするな。振れ」


 ユリオはため息をつきながらも、剣を持ち直す。この老人の指導は、いつだってこうだ。褒めることは滅多にない。かといって、突き放すわけでもない。ただ静かに、飽きるほど同じことを繰り返させる。


 もう三年になる。十五の歳、村の悪童たちに囲まれて一方的に殴られていたところを、たまたま通りかかったガレオンに助けられたのが始まりだった。「灰色のくせに生意気だ」――理由なんて、いつもその程度のものだった。地面に転がされたユリオを一瞥すると、ガレオンは何も言わずに悪童たちを追い払い、そのまま踵を返して丘へと戻っていった。


 次の日、ユリオは自分でもよくわからないまま、丘の小屋を訪ねていた。それから三年、雨の日も雪の日も、ユリオはこの丘に通い続けている。


 ガレオンのもとで教わったのは、剣の振り方、足の運び方、呼吸の合わせ方――それだけだった。魔法の一つも、技の一つも教わったことがない。他の村の子供たちが年頃になれば、近くの町の道場で自分の属性に応じた初歩の術を習うのが普通だ。木の翠なら手当てや治癒の基礎、火の紅なら闘気の高め方、土の琥珀なら身を守る構え方、金の銀なら得物への力の込め方、水の藍なら簡単な詠唱――この五行のいずれかを持っていれば、それぞれに合った道場がどこかしらにある。ごく稀に、光の黄金や闇の漆黒という五行の外側にある属性を持って生まれる者もいるというが、そういう者は大抵、王都の教会や名家に召し上げられていくと聞く。


 だがユリオには、そもそも通えるような属性がない。五行のどれでもなく、光でも闇でもない。行くあてのある道場など、最初からどこにもなかった。だからこそ、この地味な稽古だけが、彼にとっての唯一の"修行"だった。


「なあ爺さん」


 素振りの手を止めずに、ユリオは軽い調子で切り出した。


「なんだ」


「俺、いつになったら"すごい技"みたいなの教えてもらえるんだ? 村の連中、俺のこと年がら年中バカにしてくるしさ。せめて一発、見返せるくらいの何かが欲しいんだけど」


 半分は本気、半分は冗談のつもりだった。先日の鑑定でまた笑われたばかりだ。剣の一振りで誰かを黙らせられたら、少しは気が晴れるだろうとも思う。


 ガレオンは、しばらく黙っていた。長い沈黙の後、ぽつりと言葉を落とす。


「……技なんてものはな、小僧。土台がなけりゃ、砂の上に城を建てるようなもんだ。派手な技を一つ二つ覚えたところで、根っこが腐ってちゃ意味がない」


「またそれかよ」


「何度でも言う。お前の場合は、特にな」


 その言葉の端に、いつもと違う重さが混じっていた気がした。ユリオは手を止めて、ガレオンの方を見る。だが老人は既に興味を失ったように目を閉じ、日向ぼっこを決め込んでいた。


「……俺の場合は特に、ね」


 呟いても、返事はなかった。ユリオは肩をすくめて、また剣を構え直す。


 この爺さんは、たまにそういう顔をする。何かを知っていて、それを言わずにいる顔。子供の頃から――いや、この三年の付き合いの中で、何度もそんな瞬間を見てきた。聞いても答えは返ってこない。だからユリオも、それ以上は踏み込まないことにしていた。踏み込んだところで、この頑固な老人が口を割るとは思えなかったから。


 千回目が近づく頃には、手のひらの皮が、また一枚、剥けかけていた。三年前は、百回で音を上げていた。マメが潰れ、固まり、また潰れ――それを繰り返すうちに、いつの間にか、手のひらは道具のように硬くなっていた。紋には何も刻まれなくても、この手のひらにだけは、三年分が、確かに刻まれている。誰にも数えられたことのない、その積み重ねだけは、嘘をつかなかった。


 結局その日も、千回の素振りを終える頃には陽はすっかり傾いていた。


「今日はここまでだ。帰って飯食って寝ろ」


「はいはい。ありがとよ、爺さん」


 汗だくのまま木剣を小屋に返し、ユリオは丘を下り始める。ガレオンはいつものように、戸口に立ってその背中を見送っていた。何も言わずに。ただ、いつもより少しだけ長く。


   ◇


 夕方、村へ戻る道すがら、ユリオは幼馴染のミラと出くわした。パン屋の娘で、小さい頃から数少ない「普通に話してくれる」相手の一人だった。


「あ、ユリオ。今日も爺さんのとこ行ってたの?」


「おう。今日も千回素振りだよ、千回。腕がもげるかと思った」


「相変わらずだね」ミラは苦笑しながら、焼きたてのパンをひとつ差し出した。「はい、余り物だけど」


「マジで? ありがたい」


 受け取ったパンにかぶりつきながら、ユリオは村の広場の方を見やる。先日の鑑定の余韻はまだ村に残っているようで、通り過ぎる子供たちが、ちらちらとこちらを見ては何かを囁き合っていた。


「……気にしてないよ、ああいうの」


 ミラが小さく言った。ユリオの視線に気づいたのだろう。


「知ってる。ミラは前から普通だもんな」


「そうじゃなくて。ユリオが、気にしてないふりしてるの、知ってるってこと」


 思わぬ一言に、ユリオは軽く目を見開いた。それから、いつもの調子でへらりと笑ってみせる。


「ふり、じゃないさ。俺はほんとに気にしてない。灰色だろうが何だろうが、俺は俺だしな」


「……そっか」


 ミラはそれ以上何も言わず、少しだけ寂しそうな顔をした。彼女は覚えていた。もっと小さい頃、ユリオが誰もいない場所で膝を抱えて座り込んでいるのを見たことがある。あのときの背中と、今の飄々とした態度が、本当に同じ人間のものなのか――ミラにはいまだにわからないでいた。


「じゃあね、また明日」


 結局それ以上は何も言わず、ミラは手を振って去っていった。


 一人残されたユリオは、パンを頬張りながら、灰色に染まった自分の右手の甲を見つめる。夕陽に照らされたそれは、いつもよりほんの少しだけ、輪郭が揺らいで見える気がした。気のせいだろう、と思うことにした。


   ◇


 その夜、丘の上の小屋では、ガレオンが一人、囲炉裏の炎を見つめていた。


 傍らに置かれた古い木箱の中には、もう何年も開けていない一振りの剣があった。柄には、色褪せた刻印が一つ。かつての仲間の名だ。指先でその刻印をなぞりながら、ガレオンは長い息を吐いた。


「……あの子は、まだ気づいていない」


 低く呟く声は、誰に届くこともない。


「だが、いずれ気づく日が来る。お前がそうだったようにな」


 炎の向こうに、遠い日の光景が揺らめいて見えた気がした。若き日の自分と、隣に立っていた誰か。屈託なく笑うその横顔。そして、灰色に濁った紋を持つ、もう一人の男の姿――孤独に耐えかねて、静かに壊れていった一人の青年の姿。


 あの日、自分は何を見誤ったのか。何を言えていれば、何かが変わったのか。三十年近く経った今でも、答えは出ていない。


 ガレオンは目を閉じ、木箱の蓋をそっと閉じた。


 剣を振るユリオの姿を思い出す。あの実直さ、あの粘り強さ。今日もまた、卑屈にならず、笑って見せていたのだろう。村の連中に何を言われても。


 ――今度こそは、と、ガレオンは思う。今度こそは、あの子を独りにはしない。


 老人はそれから、囲炉裏の炎を静かに見つめ続けた。夜はまだ、長かった。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。

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