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第一話 灰色の紋

朝靄がまだ晴れきらないうちから、村の広場には人だかりができていた。


 辺境の集落にしては珍しいことだった。普段は鶏の鳴き声と、畑仕事に向かう大人たちの足音くらいしか聞こえないこの村が、今日ばかりは違う。子供たちの甲高い声、親たちの緊張した囁き、そして誰もが同じ方向――広場の中央に設えられた粗末な台の上――に視線を向けていた。


 鑑定院の出張鑑定官が、五年ぶりにこの辺境の集落を訪れていた。


 台の上には、灰色のローブを纏った初老の男が一人。傍らに置かれた木箱からは、いくつもの水晶や羊皮紙が覗いている。彼の背後には、護衛としてついてきたのだろう、若い兵士が二人、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。


 列には、赤子を抱いた母親から、よちよち歩きの幼子まで、この五年の間に生まれた子供たちが並んでいる。前回の巡回から今日までに生まれた子は、まだ一度も鑑定を受けていない。だからこそ、五歳に満たない子供たちがまとめてこの日、初めての鑑定を受けることになる。それより上の年齢の子は、五年前の巡回で既に済ませているため、列に並ぶことはない。


 紋様そのものは、誰の手の甲にも、生まれた時から薄く浮かんでいる。ただ、普段のそれは肌に滲む淡い影のようなもので、線の細かな作りや、色の正確な深さまでは、肉眼では判じきれない。鑑定官の水晶は、紋に微かな光を通して、その輪郭と色彩を鮮明に浮かび上がらせるための道具だった。ランクと属性を正式に読み取るには、これが要る。


「次、テオ・バニスター。四歳」


 鑑定官の声に、母親に手を引かれた小さな男の子が緊張した面持ちで前に出る。差し出された右手の甲に、鑑定官が水晶をかざすと、淡い光が走った。普段は肌に滲む程度の複雑な幾何学模様――紋様が、輪郭も色も、くっきりと輝きを増す。線は精緻に整い、全体がほのかな朱色を帯びていた。


「ランクC。色彩、赤」


「おお……! やったなテオ!」


 村人たちがどよめく。ランクCは辺境の子供にしては上出来な部類だ。母親が涙ぐみながら息子を抱きしめるのを、ユリオは列の一番後ろから眺めていた。


「次、フィア・オルコット。三歳」


 今度は幼い女の子だった。水晶にかざされた手の甲で、深い藍色の紋様が、鮮やかに輝きを増す。


「ランクD。色彩、藍」


「水属性か。うちの一族は水が多いんだよ」


 父親らしき男が満足げに頷いた。木の翠、火の紅、土の琥珀、金の銀、水の藍――この世界に生きる者は、生まれながらにこの五行のいずれかを宿す。五行の「金」は黄金のことではなく、刃や鉱石といった金属を指す言葉で、その色彩は、研ぎ上げた刃のような白銀の輝きとして現れる。紛らわしいが、黄金色の紋はむしろ、光属性のものだ。もっとも、光の黄金や闇の漆黒といった特異な色は、聖職者の家系や名家の血筋にごく稀に現れると聞くだけで、辺境の村でそんな話を耳にすることはまずない。五行のどれかを宿して生まれる――それが当たり前で、疑う余地のないことだった。


 前に並ぶのは、彼よりずっと年下の、物心つくかつかないかの子供たちばかりだ。十八の大人がその列に混ざっているのは、この村でも彼一人だった。もっとも、それ自体は当然のことでもある。他の子供たちは今日が最初で最後の鑑定だが、ユリオだけは違う。異常な結果を出した者だけが、五年ごとに何度でも呼び戻される――それが、この村でユリオにだけ課された特別な扱いだった。


「次、ユリオ・カイン」


 鑑定官の声は、面倒そうだった。手元の記録簿には、既に三度分の結果が記されている。三歳の時にこの村へ初めて鑑定官が訪れた際の初回鑑定、それから八歳、十三歳と、五年ごとに行われてきた再確認の記録。ユリオの紋は「判定不能」という前例のほとんどない結果を出したがゆえに、通常なら一生に一度で済むはずの鑑定を、五年ごとに受け直すよう中央から指定されていた。


 わざわざ確認する意味があるのかと、鑑定官の声色が雄弁に語っていた。


 ユリオは台の前に進み出ると、慣れた仕草で右手を差し出した。周囲の空気が、それまでとは違う色を帯びる。好奇と、嘲笑と、ほんの少しの憐れみ。十八年間、嫌というほど浴びてきた視線だった。


挿絵(By みてみん)


 鑑定官が水晶を近づける。淡い光が走り、薄く滲んでいた紋様が、輝きを帯びて浮かび上がった。


 その形自体は、確かに紋様だった。テオの手に浮かんだものよりもむしろ複雑で、幾重にも線が重なり合っている。けれど、その線の一本一本が絶えず滲み、輪郭を結ぼうとしては崩れていく。まるで水面に映った模様のように、掴もうとすればするりと逃げていく。


 そして――色がない。


 本来なら紋様に宿るはずの、木の翠も、火の紅も、土の琥珀も、金の銀も、水の藍も――この世界に生きる者ならば必ずいずれかを宿すはずの五行の色が、その紋様には一切乗っていなかった。それどころか、聖職者や名家にごく稀に現れるという、光の黄金や闇の漆黒でさえない。既知のどの属性にも当てはまらない、ただの灰色の靄のような色味だけが、揺らめく輪郭の内側に淀んでいる。


「……ランクE。色彩、判定不能」


 鑑定官はそう呟くと、羊皮紙にさらさらと数文字を書きつけ、興味を失ったようにユリオから目を逸らした。周囲でくすくすと笑いが起こる。聞き慣れた反応だった。


「相変わらずだな、ユリオ」


「灰色さんの紋、今年も真っ黒――じゃなくて真っ灰色だ」


「これで四回とも同じだってよ。逆にすごくないか?」


 子供たちの軽口に、ユリオは肩をすくめてみせた。


「悪いな、色気のない紋で。今度生まれ変わったら金色にしとくよ」


 そう返すと、思ったよりも笑いが起きて、少しだけ空気が緩んだ。卑屈にならないこと。それだけは、この十八年間で身につけた数少ない処世術だった。俯いて何かを堪えるより、先に自分から笑ってみせる方が、傷は浅く済む。少なくとも、ユリオはそう信じてやってきた。


「次の方、どうぞ」


 鑑定官は既にユリオのことなど忘れたように、次の名前を呼んでいた。列を離れながら、ユリオは背中に刺さる視線を意識しないよう努めて、広場の外へと足を向けた。


 村長の家の前を通り過ぎるとき、ふと護衛の兵士の一人が交わす言葉が耳に入った。


「しかし紋様が結ばない上に色彩なしってのは珍しいな。俺も鑑定院に何年もいるが、片手で数えるほどしか見たことがない」


「王都の方じゃ最近、そういう記録を集めてるらしいぞ。何でも、辺境で起きてる怪異と関係があるとかないとか」


「怪異? 穏やかじゃねえな」


 その会話は、風に紛れてすぐに聞こえなくなった。ユリオはそれ以上気にも留めず、村外れの丘へと続く小道を歩き出す。


 陽が高く昇り始め、朝靄もようやく晴れてきていた。ユリオは自分の右手を陽にかざしてみる。灰色に淀んだ紋様は、光の加減では確かにそこにあるとわかるのに、どうにも輪郭が定まらない。まるで、まだ完成していない絵のようだった。


 ユリオは小さく息を吐き、気持ちを切り替えるように頭を振った。落ち込んでいたところで、何かが変わるわけじゃない。それなら、さっさと次のことを考えた方がいい。


 丘の上には、小さな小屋があった。村の誰もが「変わり者の隠居爺」としか呼ばない老人――ガレオンが住む家だ。周囲には手入れの行き届いた薬草畑と、年季の入った的が並んでいる。


「遅いぞ、小僧」


 戸を開けるなり、しわがれた声が飛んできた。丸太を切ったような椅子に腰かけたガレオンは、片目を眇めてユリオを睨む。白髪交じりの髭、節くれ立った手、けれど背筋だけは若者顔負けにまっすぐ伸びている。かつて名のある冒険者だったという噂もあるが、本人は決して昔語りをしない。


「鑑定があったんだよ、爺さん。今年もランクE、色彩判定不能。四回連続、パーフェクトだ」


「ふん。数字遊びに興味はない」


 ガレオンは立ち上がると、壁に立てかけてあった木剣を無造作に放った。ユリオは慌ててそれを受け止める。


「今日も素振りだ。千回」


「またかよ! たまには新しい技とか教えてくれてもいいだろ。剣に炎を纏わせるとか、風を斬るとか、そういうのさ」


「基礎もできん奴に技を教えても宝の持ち腐れだ。いいから振れ」


 文句を言いながらも、ユリオは素直に木剣を構えた。この老人の稽古は、いつも呆れるほど地味だった。剣の振り方、足の運び方、呼吸の仕方――何年経っても、それ以上のことは教えてくれない。他の村の子供たちが年頃になれば近くの町へ出て、鑑定紋の色彩に応じた初歩の術を習うのが普通だというのに、ユリオだけはずっと、この丘の上で剣を振り続けている。


 もっとも、通えるような色彩が自分にはないのだから、選択肢自体がなかったとも言える。


 振り始めて百を数えたあたりで、額から汗が滴り落ちた。空を切る音が規則正しく丘に響く。けれど、ユリオは知らなかった。ガレオンが自分にだけ、他の誰にも見せたことのない目を向けていることに。


 小屋の奥、影になった場所からユリオの素振りを見つめながら、ガレオンは低く独りごちた。


「……やはり、あの時と同じ揺らぎ方をする」


 その声は、木剣が空を切る音にかき消され、ユリオの耳には届かなかった。老人の視線は、ユリオの右手の甲――あの灰色に滲んだ紋様の上に、長く長く留まっていた。


   ◇


 同じ日の夕刻、王都から遠く離れたこの辺境の空を、一頭の飛竜が横切っていた。


 巨大な翼が風を切る音、眼下に広がる緑の絨毯のような森林地帯。その背に乗るのは、鑑定院所属の調査官、リィナ・エルスフィアだった。長い銀髪を風になびかせながら、彼女は懐から一枚の羊皮紙を取り出す。そこには、辺境各地から集められた「規格外」の鑑定記録が並んでいた。


 王都を発ってから、もう三日になる。慣れない長距離飛行に体は疲弊していたが、リィナの意識は羊皮紙の記録に集中していた。


 その中の一行に、彼女の視線が止まる。


 ――ランクE、色彩判定不能。個体名・ユリオ・カイン。年齢十八。所属・アルカナ王国最辺境、名もなき集落。三歳・八歳・十三歳の鑑定記録あり、いずれも同一結果。次回の定期再確認は本年、十八歳での実施予定。


「三度とも、同じ……」


 リィナは眉をひそめた。鑑定院の記録において、紋様の線が結ばず、なおかつ色彩が一切発現しないケースは極めて稀だ。単なる出力の低さではない。紋そのものが、既存のどの分類にも当てはまらないという意味だった。しかも一度きりではなく、十年の間に三度、同じ異常が確認され続けている。今日、ちょうど四度目の再確認が行われている頃のはずだ――結果はまだ、この空の上には届いていない。鑑定院に入って五年、彼女自身、こうした記録を目にしたのは数えるほどしかない。


「単なる記載ミスであってくれればいいのだけれど」


 呟きながらも、リィナは内心、そうではないという予感を拭えずにいた。この半年、王都では奇妙な事件が相次いでいる。国境近くの砦が一夜にして崩落した事件。辺境の森で、時間の流れが乱れたように証言する目撃者たち。畑の作物が一晩で数十年分老いたかのように朽ち果てた村。そのいずれの現場からも、「測定不能な力の痕跡」が検出されていた。


 鑑定院上層部は、これを一つの名で呼び始めていた。


 ――災厄、ゼルギア。


 その名の由来を知る者は、鑑定院の中でもごく一部に限られている。リィナ自身、断片的な情報しか与えられていなかった。ただ、旧ヴェルニア領――あの、今も瘴気が立ち込めるという禁忌地に、その正体が眠っているらしいということだけは知っていた。


「辺境の、灰色の紋、か」


 リィナは羊皮紙を折りたたみ、飛竜の手綱を握り直した。もし本当にこの記録が、ゼルギアの気配と何らかの関係があるのだとしたら――一人の少年の運命は、これから大きく揺らぐことになるかもしれない。


 だが、それはまだ憶測に過ぎない。確かめもせずに決めつけるのは、調査官として最もしてはならないことだ。


「会ってみないと、わからないわね」


 眼下に、森と山に囲まれた小さな集落が見えてきた。夕陽に照らされた家々の煙突からは、夕餉の支度をする煙がのんびりと立ち上っている。だが、この時刻から村に降り立つには遅すぎる。突然の来訪者に驚かせるのも本意ではない。


「今夜はここまでね」


 リィナは飛竜の向きを変え、村を見下ろす森の外れへと降下させた。正式に村へ足を踏み入れるのは、夜が明けてからにしよう――そう決めて、彼女は野営の支度を始める。


 焚き火の向こうに霞んで見える村の灯りを眺めながら、リィナは羊皮紙の記録をもう一度たたみ直した。王都からすればほとんど存在しないも同然の、名もなき辺境の集落。そこで生まれ育った十八年間、ユリオ・カインという名が都に届いたことは、これまで一度もなかった。


 明日、その名を持つ少年に、自分は初めて会うことになる。


   ◇


 王都の一角、鑑定院本部。


 純白の礼服に身を包んだ若き騎士、カイエル・ヴァンドールは、報告書に目を通しながら、静かに苛立ちを募らせていた。窓の外はすでに夕闇が迫り、執務室には燭台の灯りだけが揺れている。


「――辺境に、色彩判定不能の個体、だと? しかも十年にわたって同一の異常が確認され続けている、と」


 彼にとって、鑑定紋とは絶対の秩序だった。生まれながらに刻まれたその紋こそが、人の価値を、役割を、そして生きる意味そのものを規定する。彼自身、幼い頃からランクSの紋を持つ者として育てられ、その責務を誇りとしてきた。厳しい教育、絶え間ない鍛錬、家門の期待――それら全てに応え続けてきたのは、紋が示す己の価値を裏切りたくなかったからだ。


 だからこそ、許せなかった。


 紋によって測ることのできない者――それは、秩序そのものへの侮辱に他ならない。数値化され、格付けされ、それぞれの立場に応じた義務を果たすことで社会は成り立っている。その根幹を揺るがす存在が、よりにもよって辺境の名もなき村に、しかも十年もの間、放置されていたというのか。


「災厄の気配が辺境に集中しているという報告と、時期が一致する」


 カイエルは報告書を握りつぶすように閉じると、立ち上がった。長身の体躯、鍛え上げられた所作の一つ一つに、育ちの良さと同時に、抜き身の刃のような鋭さが滲んでいる。


「調査官エルスフィアが向かったか。ならば私も動く。これは、鑑定院の威信に関わる問題だ」


 傍らに控えていた副官が、恐る恐る口を挟んだ。


「カイエル様、正式な出動命令はまだ……」


「命令を待っている間に、災厄が牙を剥いたらどうする。私が動く方が早い」


 有無を言わせぬ口調に、副官はそれ以上何も言えず頭を下げた。


 カイエルは窓辺に歩み寄り、西の空へと視線を向ける。そこには、彼がまだ知らない――けれど、これから何度も刃を交えることになる少年が暮らす、小さな集落があった。


「灰色の紋、か……。秩序を乱す者には、それ相応の報いがあると知るがいい」


 その呟きは、誰に届くこともなく、静かな執務室に溶けて消えた。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は全八章構成を予定している長編で、毎日更新予定です。

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