第十話 王都からの影
「カイエル様、いくら何でも急ぎすぎです」
鑑定院本部の廊下を足早に進むカイエルの後を、副官が慌てて追いかけていた。
「悠長に構えている時間はない。エルスフィア調査官の報告が事実なら、事態は一刻を争う」
「しかし、正式な出動許可はまだ下りておりません。上層部の判断を待つべきかと」
「上層部の判断を待って、また五年前の二の舞になったらどうする」
カイエルの声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。五年前――辺境の鑑定官から王都本院への照会が、然るべき対応もされないまま棚上げにされていた事実を、彼はつい先日、記録庫で偶然目にしていた。
組織の怠慢が、この十年、放置され続けてきた異常を見過ごしてきた。その結果が、今、辺境一帯に広がりつつある不穏な兆候だとしたら――責任の一端は、自分たち鑑定院の側にもある。
カイエルはそう考えていた。だからこそ、悠長な手続きを待つことに、我慢がならなかった。
その足で、彼は上級管理官の執務室へと向かった。老齢の管理官は、カイエルの訴えを一通り聞いた後、深々とため息をついた。
「カイエル卿の懸念はわかる。だが、正式な部隊派遣には、それ相応の手続きと予算の承認が必要だ。辺境の一村落のために、そう易々と動かせるものではない」
「では、また事態が悪化するまで、指をくわえて見ていろと?」
「そうは言っていない。だが、確証もないまま大部隊を動かせば、いたずらに民を混乱させることにもなりかねん。エルスフィア調査官の報告を、まずは慎重に精査する必要がある」
管理官の言い分には一理あった。だが、その慎重さが、これまでどれほどの機会を逃してきたのか――カイエルはそれを、記録庫の埃をかぶった書類の山の中に、嫌というほど見てきていた。
「――結構。ならば、私は、私個人の裁量で動く」
「カイエル卿、それは……」
「正式な部隊は動かさない。あくまで、私的な視察だ。……何か、問題でも?」
有無を言わせぬ口調で言い切ると、カイエルは一礼し、執務室を後にした。管理官は苦い顔をしながらも、それ以上引き止めることはしなかった。
執務室に戻ると、机の上には、実家――ヴァンドール家からの書状が届いていた。封を切ると、そこには父の筆跡で、簡潔な文面が記されていた。
「――辺境行きの噂を耳にした。家の名を汚さぬよう、行動には慎重を期すように」
その一文に、カイエルは小さく息を吐いた。ヴァンドール家は代々、王国騎士団の中核を担ってきた名門である。鑑定紋制度が確立して以降、常にランクSの紋を持つ当主を輩出し続けてきたその家系にとって、体面と秩序を重んじることは絶対の掟だった。
(慎重に、か)
だが、慎重であることと、動かないことは違う。カイエルは書状を丁寧に折りたたみ、机の引き出しにしまった。
「副官」
「はい」
「私兵の中から、身元の確かな者を五名、選出しろ。正式な出動命令ではなく、私個人の護衛という体裁で構わない」
「……カイエル様の独断で、ということですか」
「私が咎めを受けるだけの話だ。お前たちに累は及ばせない」
副官は複雑な表情を浮かべながらも、それ以上の反論はしなかった。カイエルの決意が、もはや揺るぎないものであることを、長年の付き合いで理解していたからだ。
◇
準備を進める中、カイエルはふと、机の隅に置かれた一枚の肖像画に目をやった。幼い頃に描かせた、リィナとの婚約記念の肖像だ。今ではもう色褪せかけている。
(エルスフィア嬢は、今頃どうしているだろうか)
辺境の村に単身赴き、既に三週間近くが経過している。彼女からの正式な報告は届いているが、それ以外の、個人的な連絡は一切なかった。
正式には今も婚約者のままだが、互いの心はとうに離れつつある――カイエルの中で、リィナへの想いは、その事実を認めきれないまま、複雑な形で燻り続けていた。互いに家格が釣り合う者同士として、幼い頃から共に育てられてきた仲だ。彼女の聡明さも、意志の強さも、カイエルにとっては誰よりも眩しく映るものだった。
だからこそ、彼女が最近、任務にかこつけて距離を置こうとしていることが、カイエルには理解できなかった。二年前、婚姻を保留したいと申し出た時も、彼女は多くを語らなかった。ただ、静かに、しかし確固たる意志で、距離を置くことを選んだ。
(灰色の紋の少年、か)
報告書の中に記された名を、カイエルは思い出していた。ユリオ・カイン。会ったこともない、辺境の名もなき青年。だが、リィナがこの案件にこれほど熱心に取り組んでいる背景に、単なる調査官としての職務以上の何かがあるのではないか――そんな疑念が、カイエルの胸の奥で、じわりと形を成しつつあった。
もちろん、根拠のない邪推だということは、カイエル自身よくわかっていた。だが、その疑念を拭い去ることが、どうしてもできずにいた。
(秩序を乱す者が、彼女の心まで乱しているというのなら――なおのこと、見過ごすわけにはいかない)
自分でも歪んでいると自覚しながら、その考えを、カイエルは振り払うことができなかった。
◇
出発の前日、カイエルは久方ぶりに、家門の道場を訪れていた。幼い頃から鍛錬を積んできた、思い出深い場所だ。
壁に並ぶ歴代当主たちの肖像画を見上げながら、カイエルは静かに剣を抜いた。空を切る音が、がらんとした道場に響く。
紋こそが、人の価値を決める。それは、ヴァンドール家に生まれた者として、物心つく前から叩き込まれてきた教えだった。生まれながらにランクSを与えられた自分は、それに見合う責務を果たさねばならない。秩序を守り、乱す者を排除する。それこそが、己に課された使命なのだと、カイエルは信じてきた。
その信念に、一片の迷いもないはずだった。
だが――灰色の紋を持つ少年の話を耳にしてから、なぜかその信念の輪郭が、わずかに揺らいでいるような気がしてならなかった。理由のない苛立ちと、説明のつかない胸のざわめき。それを振り払うように、カイエルは剣を振り続けた。
汗が滴り落ちる頃、ようやく剣を納め、カイエルは静かに己に言い聞かせた。
(迷う必要はない。秩序を守るという私の役目に、変わりはないのだから)
◇
出発の朝、王都の東門には、五名の私兵と、身軽な旅装に身を包んだカイエルの姿があった。
「カイエル様、道中お気をつけて」
見送りに来た副官に、カイエルは短く頷いた。
「留守は任せる。何か動きがあれば、すぐに伝令を寄越せ」
「かしこまりました」
馬に跨り、手綱を握る。辺境までは、馬でおよそ十日の道のり。飛竜を使えばもっと早いが、私的な行動である以上、鑑定院の資産である飛竜を私用に使うわけにはいかなかった。
東門を抜け、王都の喧騒が徐々に遠ざかっていく。振り返れば、朝靄の向こうに、白く輝く鑑定院本部の尖塔が見えた。生まれてからずっと、あの尖塔の下で、紋の示す秩序に従って生きてきた。それが正しいことだと、疑ったことは一度もなかった。
馬を進めながら、カイエルは道中の五名の私兵たちを振り返った。皆、家中でも腕利きと評判の者たちだ。彼らもまた、それぞれに高いランクの紋を持ち、その力に見合う責務を果たすべく鍛錬を積んできた者たちだった。
「カイエル様、辺境までは相当な悪路が続くと聞きます。無理のない行程でよろしいですか」
私兵の一人が尋ねる。
「構わない。だが、必要以上に時間をかけるつもりもない。十日ほどで着く」
「畏まりました」
街道を進むにつれ、王都の整然とした石畳は、次第に踏み固められただけの土の道へと変わっていく。豪奢な貴族街の建物も、やがて質素な農村の風景に取って代わられた。
(灰色の紋、か……)
カイエルは前を向き、馬を進めた。辺境で何が待ち受けているのか、まだ何も知らないまま。彼はただ、自らが信じる秩序を守るため、そして――言葉にできない何かに突き動かされるようにして、西へと続く街道を進み始めた。
その旅路の先に、これまで信じてきたものの全てを揺るがすことになる出会いが待っていることを、この時のカイエルはまだ知らなかった。
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