第十一話 向き合うとき
丘へと続く小道を、リィナは一人で歩いていた。
これまで何度も、この道を行き来してきた。最初は身分を隠した行商人として、その後は正体を明かした調査官として。だが、今日という日は、これまでとは違う。ようやく、正面から向き合う覚悟が決まっていた。
王都からの返信が届いてから、リィナの中で何かが変わっていた。機密指定という壁に阻まれ、記録の全容を知ることは叶わなかった。だが、その壁の存在自体が、逆説的にこの案件の重みを物語っていた。これ以上、遠回しな調査だけを続けているわけにはいかない。当人に、直接向き合う時が来ていた。
道の途中、風に揺れる木々の葉音が、やけに耳に心地よく感じられた。この村に来てからというもの、王都では気にも留めなかったような、些細な自然の音に、リィナはよく耳を傾けるようになっていた。
丘の上に着くと、いつものように木剣を振るユリオの姿が見えた。ガレオンの姿はない。今日はどうやら、一人で自主稽古をしているようだった。
「精が出るわね」
声をかけると、ユリオは驚いた様子で振り返った。
「リィナさん? どうしたんだよ、こんなとこまで」
村の寄り合いで正式に紹介されて以来、リィナの名と身分は村中に知れ渡っていた。ユリオも既に、彼女が鑑定院の調査官であることを知っている。だが、こうして、改まって、腰を据えて言葉を交わすのは、これが初めてのことだった。
「あなたに、話があって来たの」
「俺に? まあ、そんな気はしてたけど」
ユリオは木剣を置き、丸太の切り株に腰を下ろした。リィナも、少し距離を置いて別の切り株に腰掛ける。
「単刀直入に聞くわ。あなたの紋について、詳しく知りたいの」
「またその話か。もう散々聞かれたけどな、色々な人に」
ユリオは苦笑した。だが、その口調に、拒絶の色は感じられなかった。
「ごめんなさいね、しつこくて」
「別にいいよ。慣れてるし」
軽く肩をすくめるユリオに、リィナは思わず眉をひそめた。
「……その『慣れてる』っていう言い方、あまり好きじゃないわ」
「え?」
「傷ついていないふりをするのが上手すぎる。それって、本当に平気なわけじゃなくて、平気なふりをする練習を、それだけたくさん重ねてきたってことでしょう」
思いがけない指摘に、ユリオは目を丸くした。これまで、村の誰も、そんなことを面と向かって言ってきた者はいなかった。
「……なんだよ、いきなり」
「ごめんなさい、踏み込みすぎたわね。調査官としては失格だわ」
リィナは小さく咳払いをして、話を戻した。
「改めて聞くけれど。あなた自身は、自分の紋について、何か思うところはある?」
「思うところ、ねえ……」
ユリオはしばらく考え込んだ後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「正直、子供の頃はもっと堪えたよ。なんで自分だけ、って。でも、いつまでも凹んでたって、紋の色が変わるわけじゃないしさ。だったら、笑ってる方がまだマシだろって、そう思うようにしてる」
「それは、強さね」
「強さっていうか、開き直りだよ。それに――」
ユリオは一瞬、言葉を切った。
「爺さんが、ずっと俺のこと鍛えてくれてるからさ。紋がどうであれ、剣は振れる。それだけで、まあ、悪くないかなって」
その言葉には、飾り気のない、確かな実感が滲んでいた。リィナは、その素朴な強さに、静かに胸を打たれる思いがした。
「ガレオンさんは、あなたにとって、どういう存在なの」
「うーん……師匠? って言うと堅苦しいけど。まあ、そんな感じかな。口うるさいし、肝心なことは全然教えてくれないし。でも――」
「でも?」
「困った時、絶対に見捨てないってのは、なんとなくわかる。あの人、そういう人だから」
迷いのない言葉に、リィナは小さく頷いた。丘の上で目にした、あの穏やかな師弟の光景を思い出す。記録の上ではわからない、この村の人々の間にある温かな繋がりを、改めて実感させられた。
「なあ、逆に聞いていいか」
不意にユリオが切り出した。
「あんた、調査官って柄でもないっていうか……なんで、こんな辺境の村くんだりまで、わざわざ来たんだ? 王都で言われた仕事をこなすだけなら、もっと適当に済ませられるだろ」
鋭い問いに、リィナは一瞬、言葉に詰まった。
「それは……」
単なる職務だと答えるのは簡単だった。だが、そう言い切ってしまうことに、リィナ自身、抵抗を覚えた。
「私、ずっと、紋の色が全てを決めるのが当たり前だと思って生きてきたの。ランクが高ければ価値がある。低ければ、価値がない。単純な話でしょう?」
「まあ、そうだよな、世の中的には」
「でも、この村に来てから、その考えが揺らいでいるの。あなたを見ていると特に、そう思う」
「俺を見てて?」
「紋の色なんて何もなくても、あなたはちゃんと、自分の足で立っている。誰に嘲られても、腐らずに。それって――本当は、とても難しいことだと思うから」
リィナの言葉に、ユリオは少し驚いたように目を瞬かせた。それから、照れ隠しのように頭を掻く。
「……そんな大層なもんじゃないと思うけどな。ただ、諦めが悪いだけだよ」
「諦めが悪いことも、立派な強さよ」
きっぱりと言い切るリィナに、ユリオは苦笑しながらも、まんざらでもなさそうな顔をした。
「まあ、なんつーか……あんたと話してると、調査官っていうより、普通に話しやすい人だな」
「あら、光栄だわ」
軽口を交わし合いながら、二人の間には、いつしか自然な空気が流れ始めていた。
「それで、結局のところ、俺に何を聞きたかったんだ?」
ユリオが本題を促すと、リィナは表情を引き締めた。
「あなたの紋について、もっと詳しい記録を確かめたいの。中央には、あなたと似た事例が過去に一件だけ存在するという記録があるらしいのだけれど、詳細が機密扱いになっていて」
「俺と似た事例? マジで?」
「ええ。まだ確証はないけれど、もし本当なら――あなたの紋の正体を知る手がかりになるかもしれない」
その言葉に、ユリオの表情が真剣なものに変わった。
「それがわかれば、俺に何が起きてるのか、わかるってことか」
「可能性の話よ。でも、私はそれを確かめるつもりでいる」
「……頼む。俺も、知りたい」
ユリオの声には、これまでの飄々とした調子とは違う、真摯な響きがあった。自分の身に何が起きているのか、その正体を知りたいという想いは、ガレオンに何度尋ねても得られなかった答えへの、切実な渇望でもあった。
「約束はできないけれど、できる限りのことはするわ」
リィナはそう言って、静かに頷いた。
夕暮れの光が、丘の上を茜色に染め始めていた。眼下に広がる村の景色を、二人はしばらく、言葉を交わすことなく眺めていた。畑から戻る村人たちの影、夕餉の支度をする煙突の煙、遠くで響く子供たちの笑い声――ありふれた、けれど確かに温かい光景だった。
「王都だと、こういう景色、見ないんだろ?」
「ええ。窓から見えるのは、石造りの建物と、整然とした庭園くらいのものね」
「それはそれで、綺麗そうだけどな」
「綺麗だけれど……何というか、息苦しいと感じることもあるわ。特に、最近は」
その言葉には、リィナ自身の胸の奥にある、言葉にしきれない葛藤が、微かに滲んでいるようだった。ユリオはそれ以上深くは尋ねず、ただ黙って、彼女の横顔を見つめていた。それは、これまでの緊張を孕んだやり取りとは違う、不思議と穏やかな沈黙だった。
「そろそろ帰るわ。今日は、話せてよかった」
「ああ、また来いよ。爺さんがいる時なら、もっと面白い話も聞けると思うぜ。あの人、口は悪いけど物知りだから」
「それは楽しみにしておくわ」
軽く笑い合いながら、リィナは丘を下り始めた。振り返ると、ユリオはまだその場に立って、こちらを見送っていた。
(あの子の紋の正体、必ず突き止めてみせる)
夕焼けに染まる道を歩きながら、リィナは静かに、しかし確かな決意を新たにしていた。それは、もはや単なる調査官としての職務感だけではない、もっと個人的な想いに支えられたものになりつつあった。
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