第十二話 蔑まれた日々
リィナと話した夜、ユリオはなかなか寝付けずにいた。
「傷ついていないふりをするのが上手すぎる」
彼女の言葉が、頭の中で繰り返し響いていた。図星を突かれた、という自覚はあった。だが、それを誰かに指摘されたのは、これが初めてのことだった。
狭い寝台に横になり、天井の木目をぼんやりと見つめる。窓の外では、虫の声だけが規則正しく響いていた。この静かな夜、ユリオの記憶は、自然と遠い日々へと遡っていった。
◇
物心つく前――四歳の頃、村に熱病が流行った。
その記憶は、断片的にしか残っていない。母の熱い手のひらの感触。父の咳き込む声。誰かが泣いている気配。そして、ある朝目覚めたとき、家の中がやけに静かだったこと。
両親は、一週間も経たないうちに、揃って世を去った。あまりにも幼かったユリオには、それが何を意味するのか、当時はよくわかっていなかった。ただ、周りの大人たちが、自分を見るたびに、いつもより優しい、けれど少し困ったような顔をするようになったことだけは、覚えている。
それからしばらくは、村の色々な家を転々としながら育った。今日はこの家で夕餉を、明日はあの家で寝床を。決して裕福とは言えない村人たちが、それぞれにできる範囲で、幼いユリオの面倒を見てくれた。
誰か一人が背負うには重すぎる荷を、村全体で少しずつ分け合う。それが、この辺境の集落なりの、優しさの形だった。
だが、幼心にも、ユリオは薄々気づいていた。自分が、どの家にとっても「本当の家族」ではないということに。優しくしてもらえばもらうほど、その優しさの裏にある、微かな距離感を感じ取ってしまう。
そこに追い打ちをかけたのが、灰色の紋だった。
「あの子、紋がおかしいんだって」
「灰色なんだって。気味悪いね」
物心ついた頃には、既にそんな噂が、村中に広まっていた。子供たちの残酷さに、悪意はなかったのかもしれない。ただ、自分たちと違うものを、無邪気に指差していただけなのかもしれない。それでも、向けられる側にとっては、十分すぎるほど鋭い刃だった。
七つ、八つの頃には、同年代の子供たちの輪から、自然と外れることが多くなっていた。一緒に遊んでいても、ふとした瞬間に「灰色」「気味悪い」という言葉が耳に入る。最初のうちは、泣いて家に帰ることもあった。だが、泣いたところで、何も変わらないということに、幼いユリオはやがて気づいていく。
十歳を過ぎた頃、ユリオは両親が遺した小さな家に、一人で暮らし始めることを選んだ。あちこちの家を転々とする生活に、自分でも疲れを感じ始めていたからだ。誰かの厚意に頼るより、自分の力で何とかする方が、気が楽だった。
薪割りを手伝えば、野菜を分けてもらえる。力仕事を引き受ければ、食事に呼んでもらえる。決して楽な暮らしではなかったが、それでも、何とか生きていくことはできた。
その頃から、ユリオは意識して、笑うようになった。
悲しい顔をしていても、誰も助けてはくれない。むしろ、憐れみの目を向けられるだけだ。それなら、いっそ笑っていた方がいい。灰色の紋を笑われても、一緒になって笑い返してやればいい。そうすれば、少なくとも、惨めな気持ちにだけはならずに済む。
それは、処世術という名の、小さな鎧だった。
◇
十二歳のある日、ユリオは村の子供たちの集まりから、はっきりと拒絶される出来事を経験した。
村祭りの出し物で、子供たちだけの劇を演じることになったときのことだ。誰が何の役をやるか、皆で話し合っていた輪の中に、ユリオも当然のように加わろうとした。
「ユリオは、いいよ」
誰かが、そう言った。
「え、なんで」
「だって……お前が出たら、お客さんとか、変な目で見るだろ。灰色のやつが出てるって」
悪意があったわけではない、と今なら思う。むしろ、幼いなりの気遣いだったのかもしれない。だが、その時のユリオには、そんな風には受け取れなかった。
何も言い返せないまま、その場を離れた。誰もいない村外れまで歩いて、しばらく一人で座り込んでいた。
悔しかった。悲しかった。だが、それ以上に――誰にも、この気持ちを打ち明けられないことが、何よりも辛かった。両親がいれば、こんな時、抱きしめてくれたのだろうか。そんな詮無いことを、何度も考えた。
結局、その日のことを、誰にも話さなかった。次の日には、いつも通りの顔をして、村を歩いた。誰かに気づかれる前に、自分自身で、その痛みに蓋をした。
その帰り道、パン屋の店先で、当時まだ小さかったミラが、一人で店番をしていた。泣き腫らした目を隠しきれずに通り過ぎようとしたユリオを、彼女は呼び止めた。
「ユリオ、これ」
差し出されたのは、少し形の崩れたパンだった。売り物にならない、はみ出し品なのだろう。
「……別に、腹減ってねえけど」
「いいから。焼きすぎて余っただけだから、捨てるよりマシでしょ」
明らかな嘘だったが、その気遣いが、その日のユリオには何よりも有り難かった。何も聞かず、ただパンを差し出す。それだけの、小さな優しさ。
それ以来、ミラは事あるごとに、余り物のパンをユリオに分けてくれるようになった。多くを語らず、ただ気にかけてくれる。その距離感が、ユリオにとっては、ちょうどよかった。
◇
十五歳になったある日、いつものように陰口を叩かれていたところを、悪童たちに絡まれ、囲まれて殴られたことがあった。
抵抗する気力もなく、地面に転がされたまま、ユリオはぼんやりと空を見上げていた。ああ、また同じことの繰り返しか、と。慣れているはずのその痛みが、その日はなぜか、いつもより深く胸に刺さった。
そこへ、通りかかったのが、ガレオンだった。
多くを語らず、悪童たちを一喝して追い払うと、老人はユリオを一瞥した。憐れみでも、興味でもない、ただまっすぐな視線だった。
「立てるか」
それだけ言うと、老人は踵を返し、丘へと戻っていった。
その背中を見送りながら、ユリオの中で、何かが小さく動いた。憐れまれもせず、腫れ物扱いもされず、ただ「立てるか」とだけ問われる。それが、これほどまでに心に残る出来事になるとは、その時は思ってもいなかった。
次の日、ユリオは自分でもよくわからないまま、丘の小屋を訪ねていた。
◇
寝台の上で、ユリオはゆっくりと目を開けた。
窓の外は、まだ夜が深い。だが、不思議と、心は凪いでいた。
(ガレオンの爺さんがいてくれたから、俺は今、こうしていられるんだよな)
改めて、そう思う。あの日、老人が通りかからなければ、自分は今頃、どうなっていただろうか。考えても仕方のないことだが、ふとそんな想像が頭をよぎる。
ミラの顔も思い浮かんだ。多くを語らず、ただそっと寄り添ってくれる存在。彼女がいなければ、もっと早くに、笑うことすら忘れていたかもしれない。
両親の顔は、もうほとんど覚えていない。それでも、時折、誰かの何気ない仕草の中に、遠い記憶の欠片のようなものを見つけることがある。母の声だったか、父の温もりだったか、それすらも定かではない、曖昧な感覚。それでも、自分がこの世界に望まれて生まれてきたのだという確信だけは、なぜか消えることなく胸の奥に残り続けていた。
リィナの言葉が、再び脳裏に蘇った。
「傷ついていないふりをするのが上手すぎる」
図星だった。だが、それでいい、とユリオは思う。ふりでも何でも、笑っていられるなら、それでいい。その笑顔が、いつか本物になる日が来ると、信じているから。
そう自分に言い聞かせて、ユリオは再び目を閉じた。今度は、すんなりと眠りが訪れた。
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