↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/73

第十三話 調査官の迷い

村長の家の一室、リィナは机に向かい、白紙の報告書を前にしたまま、ペンを握る手を止めていた。


 これまでに集めた情報を整理し、正式な追加報告として王都へ送る必要があった。だが、いざ筆を執ろうとすると、何をどこまで書くべきか、リィナの判断は鈍っていた。


 これまでの調査で判明したこと。ユリオの紋が、五行にも光にも闇にも属さない、前例のほとんどない異常であること。十三歳時の照会が、五年間も回答のないまま放置されていること。そして、本院への照合の結果、類似の記録が一件だけ存在するものの、機密指定により詳細が閲覧できないこと。老司祭の手記に記された、旧ヴェルニア領に関する言い伝え。そして――村の西の森で確認された、地面の歪みという明確な異変。


 事実だけを淡々と書き連ねれば、それで報告書としては十分だった。だが、その報告が、王都でどのように扱われるのかを考えると、リィナの手は自然と重くなった。


(もし、彼が「災厄と同じ系譜の力を持つ危険人物」として扱われたら――)


 鑑定院という組織は、時に非情な判断を下すことがある。秩序を守るという大義のもとに、個人の意思や事情が軽んじられることも、決して珍しくはない。カイエルのような、紋の絶対性を疑わない人間が上層部に多くいることを、リィナはよく知っていた。


 もしユリオの存在が、王都で「脅威」として認識されてしまえば――保護という名目のもとに拘束されるか、あるいはもっと過酷な扱いを受けるか。最悪の想像が、リィナの脳裏を過った。


(それだけは、避けたい)


 その想いが、調査官としての客観性よりも先に立とうとしていることに、リィナ自身、戸惑いを覚えていた。


 ペンを置き、椅子の背にもたれかかる。窓の外では、夕暮れ時の村の風景が、いつも通りの穏やかさで広がっていた。


(私は、一体何のために、ここに来たんだったかしら)


 最初は、単なる職務のはずだった。規格外の記録を確認し、必要であれば然るべき対応を取る。それだけの、事務的な任務のはずだった。


 だが、この村に来て、実際にユリオという人間に触れてから、リィナの中の何かが確実に変わっていた。彼は、記録簿の中の「規格外」という文字ではない。笑い、悩み、それでも前を向いて生きている、一人の血の通った青年だった。


 その事実を知ってしまった以上、もう、完全に客観的な立場ではいられない。それは調査官として、あるいはエルスフィア家の令嬢として、決して褒められた態度ではないのかもしれない。


(それでも――)


 リィナは、机の上の白紙を見つめたまま、しばらく筆を執れずにいた。気分を変えようと、彼女は一度、外へ出ることにした。


 夕暮れの村を歩きながら、自然と足は丘の方へと向かっていた。稽古を終えたユリオが、井戸端で顔を洗っているところに出くわす。


「あれ、リィナさん。また来たのか」


「少し、頭を整理したくて」


「難しい顔してるな。調査、うまくいってないのか?」


 率直な問いかけに、リィナは思わず苦笑した。


「うまくいっていないというか……何をどう伝えるべきか、迷っているの」


「伝えるって、王都に?」


「ええ。あなたのことを、正直に報告すべきなのか、それとも――」


 言いかけて、リィナは口を噤んだ。調査対象である本人に、こんな迷いを打ち明けるのは、調査官として適切ではない。


「それとも?」


「……何でもないわ。ごめんなさい、変なことを言って」


「別に構わないけど。ただ、俺のことなら、正直に伝えてくれた方が気が楽だけどな」


 ユリオはそう言って、いつもの飄々とした調子で笑った。


「隠されたり気を遣われたりする方が、なんか居心地悪いし。爺さんがいつもそうだから、余計にそう思うのかもな」


 その言葉に、リィナは小さく目を見開いた。単純なようでいて、核心を突いた言葉だった。


「……そう、かもしれないわね」


「まあ、あんたが決めることだから、口出しはしないけどさ」


 軽く肩をすくめるユリオに、リィナは静かに頭を下げた。


「参考になったわ、ありがとう」


「よくわかんないけど、力になれたならよかった」


 丘を後にしながら、リィナは先ほどの言葉を、頭の中で反芻していた。隠すことよりも、正直であることの方が、時に誠実さになる。それは、調査官としての慎重さとは、また別の種類の誠実さだった。


(事実を隠すのではなく、伝え方を工夫する。それが、今の私にできる、誠実さの形かもしれない)


 村長の家へと戻る道すがら、リィナの心は、いくらか軽くなっていた。


 やがて、彼女は静かにペンを取り直した。事実は事実として、正確に報告する。それが調査官としての責務だ。だが、その書き方には、いくらでも工夫の余地がある。


 例えば、老司祭の手記の内容を、あくまで「未確認の伝承」として扱い、断定的な表現を避けること。ユリオ個人に関する記述は、必要最小限に留め、彼の人柄や日常については触れないこと。そして何より――この案件が、性急な対応を必要とするものではなく、慎重な継続調査こそが適切であるという結論を、報告書の随所に滲ませること。


 事実を歪めるわけではない。ただ、伝え方を選ぶ。それが、今の自分にできる、精一杯の配慮だった。


   ◇


 筆を進めるうちに、日はすっかり暮れていた。ランプの灯りを頼りに、リィナはなおも報告書と向き合い続けていた。


 ふと、扉を叩く音がした。


「エルスフィア様、少しよろしいですか」


 村長の声だった。リィナが応じると、初老の男が静かに部屋に入ってきた。


「夜分に申し訳ありません。少し、お耳に入れておきたいことがありまして」


「何でしょうか」


「ユリオのことです」


 その名前に、リィナは思わず筆を止めた。


「あの子の両親のこと、あなたも既にお聞き及びかと思いますが」


「ええ、少しだけ」


「あの子は、決して恵まれた境遇ではありませんでした。それでも、村の誰からも、真っ直ぐに、腐らずに育ってくれた。それだけは、我々村人一同、誇りに思っていることなのです」


 村長の言葉には、素朴だが、確かな重みがあった。


「もし、あの子の身に、これ以上の苦難が降りかかるようなことがあるのなら――僭越ながら、我々村人一同、できる限りの助力をさせていただきたいと思っております」


 深々と頭を下げる村長に、リィナは胸を打たれる思いだった。血縁もない一人の青年のために、村全体がこれほどまでに心を寄せている。その事実が、改めて、この村の温かさを物語っていた。


「……ありがとうございます。その気持ち、しかと受け止めました」


 リィナは静かに頭を下げ返した。村長が退室した後、彼女は再び、机の上の報告書に向き合った。


(この村の人たちの想いも、無駄にはできない)


 その決意が、揺れていた心に、一つの軸を与えてくれたような気がした。


   ◇


 深夜、ようやく報告書を書き上げたリィナは、ペンを置き、大きく息を吐いた。


 完璧な報告書だとは、自分でも思えなかった。調査官としての客観性と、一人の人間としての想い――その狭間で揺れながら書き上げた、不完全な文章だった。それでも、今の自分にできる、精一杯の判断だった。


 窓の外を見上げると、雲間から覗く月が、静かな光を地上に注いでいた。


(あなたは今、何をしているのかしら)


 脳裏に浮かんだのは、王都に残してきた婚約者――正式には今も、その立場のままのカイエルの顔だった。彼が、この報告書をどう読むか。あるいは、既に何か別の行動を起こしているのではないか。そんな漠然とした不安が、リィナの胸をよぎった。


 だが、今の自分にできることは、目の前のこの村と、一人の青年を、できる限り守ることだけだ。


 リィナは報告書を丁寧に封じ、翌朝、駅逓所へ届けるための準備を整えた。窓の外の月明かりに照らされながら、彼女はしばらくの間、静かに物思いに耽っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定です。

ブックマーク・下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。