第十三話 調査官の迷い
村長の家の一室、リィナは机に向かい、白紙の報告書を前にしたまま、ペンを握る手を止めていた。
これまでに集めた情報を整理し、正式な追加報告として王都へ送る必要があった。だが、いざ筆を執ろうとすると、何をどこまで書くべきか、リィナの判断は鈍っていた。
これまでの調査で判明したこと。ユリオの紋が、五行にも光にも闇にも属さない、前例のほとんどない異常であること。十三歳時の照会が、五年間も回答のないまま放置されていること。そして、本院への照合の結果、類似の記録が一件だけ存在するものの、機密指定により詳細が閲覧できないこと。老司祭の手記に記された、旧ヴェルニア領に関する言い伝え。そして――村の西の森で確認された、地面の歪みという明確な異変。
事実だけを淡々と書き連ねれば、それで報告書としては十分だった。だが、その報告が、王都でどのように扱われるのかを考えると、リィナの手は自然と重くなった。
(もし、彼が「災厄と同じ系譜の力を持つ危険人物」として扱われたら――)
鑑定院という組織は、時に非情な判断を下すことがある。秩序を守るという大義のもとに、個人の意思や事情が軽んじられることも、決して珍しくはない。カイエルのような、紋の絶対性を疑わない人間が上層部に多くいることを、リィナはよく知っていた。
もしユリオの存在が、王都で「脅威」として認識されてしまえば――保護という名目のもとに拘束されるか、あるいはもっと過酷な扱いを受けるか。最悪の想像が、リィナの脳裏を過った。
(それだけは、避けたい)
その想いが、調査官としての客観性よりも先に立とうとしていることに、リィナ自身、戸惑いを覚えていた。
ペンを置き、椅子の背にもたれかかる。窓の外では、夕暮れ時の村の風景が、いつも通りの穏やかさで広がっていた。
(私は、一体何のために、ここに来たんだったかしら)
最初は、単なる職務のはずだった。規格外の記録を確認し、必要であれば然るべき対応を取る。それだけの、事務的な任務のはずだった。
だが、この村に来て、実際にユリオという人間に触れてから、リィナの中の何かが確実に変わっていた。彼は、記録簿の中の「規格外」という文字ではない。笑い、悩み、それでも前を向いて生きている、一人の血の通った青年だった。
その事実を知ってしまった以上、もう、完全に客観的な立場ではいられない。それは調査官として、あるいはエルスフィア家の令嬢として、決して褒められた態度ではないのかもしれない。
(それでも――)
リィナは、机の上の白紙を見つめたまま、しばらく筆を執れずにいた。気分を変えようと、彼女は一度、外へ出ることにした。
夕暮れの村を歩きながら、自然と足は丘の方へと向かっていた。稽古を終えたユリオが、井戸端で顔を洗っているところに出くわす。
「あれ、リィナさん。また来たのか」
「少し、頭を整理したくて」
「難しい顔してるな。調査、うまくいってないのか?」
率直な問いかけに、リィナは思わず苦笑した。
「うまくいっていないというか……何をどう伝えるべきか、迷っているの」
「伝えるって、王都に?」
「ええ。あなたのことを、正直に報告すべきなのか、それとも――」
言いかけて、リィナは口を噤んだ。調査対象である本人に、こんな迷いを打ち明けるのは、調査官として適切ではない。
「それとも?」
「……何でもないわ。ごめんなさい、変なことを言って」
「別に構わないけど。ただ、俺のことなら、正直に伝えてくれた方が気が楽だけどな」
ユリオはそう言って、いつもの飄々とした調子で笑った。
「隠されたり気を遣われたりする方が、なんか居心地悪いし。爺さんがいつもそうだから、余計にそう思うのかもな」
その言葉に、リィナは小さく目を見開いた。単純なようでいて、核心を突いた言葉だった。
「……そう、かもしれないわね」
「まあ、あんたが決めることだから、口出しはしないけどさ」
軽く肩をすくめるユリオに、リィナは静かに頭を下げた。
「参考になったわ、ありがとう」
「よくわかんないけど、力になれたならよかった」
丘を後にしながら、リィナは先ほどの言葉を、頭の中で反芻していた。隠すことよりも、正直であることの方が、時に誠実さになる。それは、調査官としての慎重さとは、また別の種類の誠実さだった。
(事実を隠すのではなく、伝え方を工夫する。それが、今の私にできる、誠実さの形かもしれない)
村長の家へと戻る道すがら、リィナの心は、いくらか軽くなっていた。
やがて、彼女は静かにペンを取り直した。事実は事実として、正確に報告する。それが調査官としての責務だ。だが、その書き方には、いくらでも工夫の余地がある。
例えば、老司祭の手記の内容を、あくまで「未確認の伝承」として扱い、断定的な表現を避けること。ユリオ個人に関する記述は、必要最小限に留め、彼の人柄や日常については触れないこと。そして何より――この案件が、性急な対応を必要とするものではなく、慎重な継続調査こそが適切であるという結論を、報告書の随所に滲ませること。
事実を歪めるわけではない。ただ、伝え方を選ぶ。それが、今の自分にできる、精一杯の配慮だった。
◇
筆を進めるうちに、日はすっかり暮れていた。ランプの灯りを頼りに、リィナはなおも報告書と向き合い続けていた。
ふと、扉を叩く音がした。
「エルスフィア様、少しよろしいですか」
村長の声だった。リィナが応じると、初老の男が静かに部屋に入ってきた。
「夜分に申し訳ありません。少し、お耳に入れておきたいことがありまして」
「何でしょうか」
「ユリオのことです」
その名前に、リィナは思わず筆を止めた。
「あの子の両親のこと、あなたも既にお聞き及びかと思いますが」
「ええ、少しだけ」
「あの子は、決して恵まれた境遇ではありませんでした。それでも、村の誰からも、真っ直ぐに、腐らずに育ってくれた。それだけは、我々村人一同、誇りに思っていることなのです」
村長の言葉には、素朴だが、確かな重みがあった。
「もし、あの子の身に、これ以上の苦難が降りかかるようなことがあるのなら――僭越ながら、我々村人一同、できる限りの助力をさせていただきたいと思っております」
深々と頭を下げる村長に、リィナは胸を打たれる思いだった。血縁もない一人の青年のために、村全体がこれほどまでに心を寄せている。その事実が、改めて、この村の温かさを物語っていた。
「……ありがとうございます。その気持ち、しかと受け止めました」
リィナは静かに頭を下げ返した。村長が退室した後、彼女は再び、机の上の報告書に向き合った。
(この村の人たちの想いも、無駄にはできない)
その決意が、揺れていた心に、一つの軸を与えてくれたような気がした。
◇
深夜、ようやく報告書を書き上げたリィナは、ペンを置き、大きく息を吐いた。
完璧な報告書だとは、自分でも思えなかった。調査官としての客観性と、一人の人間としての想い――その狭間で揺れながら書き上げた、不完全な文章だった。それでも、今の自分にできる、精一杯の判断だった。
窓の外を見上げると、雲間から覗く月が、静かな光を地上に注いでいた。
(あなたは今、何をしているのかしら)
脳裏に浮かんだのは、王都に残してきた婚約者――正式には今も、その立場のままのカイエルの顔だった。彼が、この報告書をどう読むか。あるいは、既に何か別の行動を起こしているのではないか。そんな漠然とした不安が、リィナの胸をよぎった。
だが、今の自分にできることは、目の前のこの村と、一人の青年を、できる限り守ることだけだ。
リィナは報告書を丁寧に封じ、翌朝、駅逓所へ届けるための準備を整えた。窓の外の月明かりに照らされながら、彼女はしばらくの間、静かに物思いに耽っていた。
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