第十四話 歪む山、再び
報告書を送ってから数日、村には表向き、平穏な日常が戻りつつあった。
動物たちの怯えも次第に落ち着き、村人たちの間でも、あの朝の騒動は徐々に過去の出来事として語られるようになっていた。だが、リィナだけは、決して警戒を緩めていなかった。西の森で目にしたあの地面の歪みが、消えてなくなったわけではないことを、彼女は誰よりもよく知っていたからだ。
「――村長、念のため、もう一度西の様子を見に行こうと思います」
「またですか。エルスフィア様も、お体を大事になさってください」
村長の心配そうな言葉に、リィナは小さく頷きながらも、支度を整えた。
昼下がり、森の外れまで足を運んだリィナは、以前訪れたときよりも明らかに濃くなった違和感に、思わず息を詰めた。地面の歪みは、以前見たときよりも範囲を広げており、周囲の木々の葉は、いつの間にか色を失い始めていた。まるで、その一帯だけ、時間の流れが狂ってしまったかのような光景だった。
空気にはあの日感じた鉄錆に似た匂いが、より濃く漂っている。距離を保ちながら観察を続けるうち、リィナはふと、視界の端に、灰色がかった靄のようなものが揺らめくのを見た気がした。
「……気のせい、じゃないわね」
目を凝らしても、次の瞬間にはもう見えなくなっている。だが、確かに何かが、そこにいた。リィナは慎重に距離を取りながら、村へと引き返すことにした。この異変は、もはや静観していい段階を過ぎている――そんな予感が、彼女の胸の中で警鐘を鳴らしていた。
村へ戻る道すがら、リィナは村長に緊急時の対応について改めて相談しておくべきだと考えていた。だが、その懸念が現実のものとなるまで、さほど時間はかからなかった。
◇
その日の夕刻、丘の上では、ユリオがガレオンとの稽古を終えたところだった。
「今日はここまでだ」
「おう、ありがと――」
言いかけたユリオの言葉が、途中で止まった。西の空、日が沈みかけた薄闇の中に、何か奇妙なものが見えたのだ。
「爺さん、あれ……」
ユリオが指差す方向を、ガレオンも目で追った。森の際、木々の隙間から、灰色がかった靄のようなものが、ゆっくりと立ち上っているのが見えた。
風に流されるにしては、あまりにも不自然な動きだった。まるで意志を持っているかのように、その靄は形を変えながら、少しずつ、村の方角へと近づいてきているように見えた。
「……まずいな」
ガレオンの表情が、これまでにないほど険しくなった。
「まずいって、あれ、何なんだよ」
「詳しいことはわからん。だが、あれは、ただの霧じゃない。近づくな」
その言葉を裏付けるように、村の方から、複数の悲鳴のような声が上がった。
「村の方で何か……!」
ユリオが駆け出そうとするのを、ガレオンが腕を掴んで止めた。
「待て、一人で行くな」
「でも、村が――!」
「わかっている。俺も行く。だが、無闇に飛び出すな。あれの正体もわからんうちは、慎重に動け」
ガレオンは素早く、壁に立てかけていた本物の剣――ずっと手入れを欠かさずにいた、使い込まれた一振りを手に取った。木剣ではない、真剣だった。
「爺さん、それ――」
「今は説明している暇はない。行くぞ」
二人は丘を駆け下り、村へと向かった。
◇
村に着くと、そこには騒然とした光景が広がっていた。
広場の一角に、あの灰色がかった靄が、渦を巻くようにして漂っている。その中心には、輪郭の定まらない、何か生き物のようなものの影が、うっすらと浮かび上がっていた。
「な、なんだあれ……!」
「みんな、家の中に! 早く!」
村人たちが逃げ惑う中、リィナが剣を手に、靄の前に立ちはだかっていた。
「リィナさん!」
ユリオが駆け寄ると、リィナは険しい表情のまま、視線を靄から離さずに言った。
「来ないで! これは、あなたが思っているより厄介なものよ」
「何なんだよ、あれ」
「わからない。でも、鑑定院の記録にあった『測定不能な力の痕跡』――その正体そのものかもしれない」
靄の中心の影が、ゆっくりと蠢いた。人型にも、獣型にも見える、判然としない輪郭。それが一歩、また一歩と、こちらへと近づいてくる。
近づくにつれて、空気が重く、粘つくように感じられた。肌が粟立ち、本能的な恐怖が全身を駆け巡る。
「下がっていろ」
ガレオンが前に出た。真剣を構えるその姿は、いつもの飄々とした老人とは、まるで別人のようだった。
「爺さん……」
「お前は下がっていろと言っている」
有無を言わせぬ声に、ユリオは思わず息を呑んだ。
ガレオンが一歩踏み込み、靄の中心へと剣を振るう。だが、剣先は靄をすり抜けるだけで、手応えらしい手応えは何も返ってこなかった。
「くっ……!」
「実体がないの? それとも……」
リィナが息を呑む。だが、靄そのものに実体がなくとも、そこから発せられる圧のようなものは、確かに存在した。近くにいるだけで、体力と気力が、じわじわと奪われていくような感覚があった。
「村の連中を、これ以上近づけるな! 全員、離れた場所まで避難させろ!」
ガレオンが叫ぶ。リィナはすぐに我に返り、村人たちの避難誘導に走った。
「みなさん、こちらへ! 家の中に隠れているだけでは危険です、村の外れまで避難を!」
混乱の中、リィナは的確な指示で村人たちを誘導していく。調査官としての訓練が、ここで生かされていた。
一方、ガレオンは一人、靄の前で対峙を続けていた。実体を持たないその存在に、剣が通用しないことは、既に明らかだった。それでも、老人はその場を動こうとしなかった。
(これ以上、村に近づけさせるわけにはいかん)
自分一人が食い止めれば、その間に村人たちを避難させる時間が稼げる。ガレオンはそう判断していた。だが、靄の圧は、思っていた以上に重く、老いた体には、その負荷が確実にのしかかり始めていた。
「爺さん、下がれ! 一人じゃ無理だ!」
様子を見ていられなくなったユリオが、再び駆け寄ろうとする。
「来るなと言っているだろうが!」
ガレオンの怒声が響いた瞬間、靄の中心の影が、ひときわ大きく揺らいだ。まるで、それ自体が何かに反応したかのように。
「――っ!?」
靄が、一気に膨れ上がった。輪郭の定まらない影が、鎌首をもたげるように大きく伸び上がる。ガレオンは咄嗟に飛び退いたが、膨れ上がった靄の一部が、彼の腕を掠めた。
「爺さん!」
「大丈夫だ、掠り傷程度だ……!」
だが、ガレオンの声には、明らかな疲労の色が滲んでいた。実体のないはずのその一撃は、まるで冷水を浴びせられたかのような、骨の髄まで凍えるような感覚を残していった。
「これは、斬るとか殴るとかで対処できる相手じゃない……」
リィナが村人たちの避難を終え、再び広場に駆け戻ってきた。
「ガレオンさん、下がって! 鑑定院の記録にも、この手の現象への対処法は載っていない。今は逃げるべきよ!」
「逃げれば、村がやられる」
「でも、このままじゃ……!」
三人が言葉を交わす間にも、靄はじりじりとその範囲を広げ続けていた。中心の影が、ゆっくりと、しかし確実に、広場の中央――ガレオンたちの方へと迫ってくる。
ユリオは、拳を握りしめながら、その光景を見つめていた。何もできない自分に、苛立ちにも似た焦りが込み上げてくる。剣を持たせてもらえない。役に立てない。灰色の紋を持つ自分には、この状況を打開する力など何もない。
(このままじゃ、また……)
立ち尽くすしかない足元から、これまで何度も味わってきた、あの無力感が這い上がってきた。
「ユリオ、あなたは下がっていて!」
リィナの声に、ユリオは我に返った。だが、体は動かなかった。目の前で、ガレオンが、リィナが、村のために戦おうとしている。それを、ただ黙って見ていることなど、できるはずがなかった。
「――っ、俺だって!」
叫ぶと同時に、ユリオは地面に落ちていた木の棒切れを拾い上げ、靄の方へと駆け出していた。
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