第十五話 決死の防衛
「ユリオ、下がって!」
リィナの叫びも届かず、ユリオは棒切れを構えたまま、靄の中心へと突っ込んでいった。
「何も持たずに突っ込んでどうする、馬鹿者が!」
ガレオンの怒声が背中に突き刺さったが、ユリオは止まらなかった。頭では危険だとわかっている。それでも、体が勝手に動いていた。目の前で、大切な人たちが傷ついているのを、これ以上黙って見ていることなど、できなかった。
靄の間近まで迫ると、肌を刺すような冷気と共に、耐え難いほどの圧迫感がユリオを包み込んだ。息が詰まる。まるで、見えない手に喉を締め付けられているかのような感覚だった。それでも、ユリオは棒切れを振りかぶり、靄の中心――あの輪郭の定まらない影に向かって、力の限り叩きつけようとした。
「うおおおっ!」
だが、棒切れは何の手応えもなく、靄をすり抜けた。同時に、影がこちらへと反転する。まるで、獲物を見定めたかのような、粘つく視線を感じた。
靄の中心の影が、ユリオの接近に反応するように、大きくうねった。
次の瞬間、視界が真っ白に染まった。
冷たい、というより、感覚そのものが引き剥がされるような感触。まるで、体の輪郭が世界から切り離されていくような、形容しがたい恐怖が全身を包んだ。
「が――っ!?」
声にならない悲鳴が漏れる。手足の感覚が遠のいていく。まるで、自分という存在そのものが、あの靄に溶かされていくような錯覚に襲われた。
「ユリオ!」
遠くで、リィナの声がした気がした。ガレオンの怒声も、もう一度聞こえた気がした。だが、その全てが、水の中で聞くように、ひどく歪んで届いた。
(やば……い……)
意識が急速に薄れていく。視界の端で、リィナが何かを叫んでいるのが見えたが、その声はもう、ほとんど聞き取れなかった。
(また、ここで――)
崖から落ちたあの日と同じ、抗いようのない喪失の感覚。だが、あの時とは違う。今度は、逃げ場すらない。体の自由が利かないまま、ただ意識だけが、暗闇の底へと引きずり込まれていく。
(上等じゃねえか……)
薄れゆく意識の中、それでもユリオは、心の中でその言葉を手放さなかった。手の中の棒切れの感触だけを、最後の拠り所のように、強く握りしめる。
視界が、再び白く弾けた。
◇
気がつくと、ユリオは広場の入り口付近に立っていた。
全身が、燃えるように熱い。いや、熱いというより、燃え尽きたかのような、深い疲労感が骨の髄まで満ちていた。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「――っ、ユリオ!?」
異変に気づいたリィナが、すぐさま駆け寄ってきた。
「ど、どこから現れたの? さっきまで、あなたは靄の中に……」
「わかん、ねえ……」
息も絶え絶えに答えながら、ユリオは自分の手を見つめた。指先が小刻みに震えている。頭の中は、まるで濃い霧がかかったように、判然としない曖昧さに覆われていた。
(また、あれが起きたのか……?)
崖崩れの時と同じ、あの奇妙な浮遊感。そして、気づけば全く違う場所に立っている、あの感覚。今回もまた、自分の身に何かが起きたのだということだけは、朧げながら理解できた。
だが、今度は、はっきりとした違和感があった。あの崖崩れの時よりも、ずっと重い疲労感。そして――何かを、確かに忘れている感覚。今、自分がここに立つまでの数分間の記憶が、まるで水に溶けた絵の具のように、輪郭を失っていた。
「爺さん、リィナさん……大丈夫、なのか?」
辛うじてそれだけを尋ねると、リィナは戸惑いながらも頷いた。
「私たちは無事よ。でも、あなたが靄の中に消えた瞬間、急に靄自体が怯んだように後退したの。それで、私たちも何とか持ちこたえられた」
「靄が、怯んだ……?」
その言葉に、ユリオは目を見開いた。
少し離れた場所で膝をついていたガレオンが、こちらへと視線を向けた。その目には、驚きと、そして何か――確信めいたものが宿っているように見えた。
「小僧、お前……」
言いかけて、ガレオンは口を噤んだ。今この場で、多くの村人たちが見ている前で、口にすべきことではないと判断したのだろう。
広場に漂っていた靄は、まるで潮が引くように、じわじわと森の奥へと後退していった。その動きは、明らかに何かを恐れているかのようだった。
「消えて、いく……?」
村人たちが、恐る恐る様子を窺う。やがて、靄は完全にその姿を森の中へと消し、広場には、静けさだけが戻ってきた。
「――終わった、のか?」
誰かが、そう呟いた。安堵のため息が、広場のあちこちから漏れる。だが、ガレオンとリィナ、そしてユリオ自身の表情だけは、決して晴れやかなものではなかった。
◇
騒動が収まった後、村人たちは口々に、あの奇妙な現象について語り合っていた。
「あの靄、ユリオが飛び込んだ途端に消えたよな」
「まさか、あの子が何かしたのか?」
「灰色の紋のせいで、また何か……」
ひそひそと交わされる噂話に、ユリオは複雑な思いを抱えながら、その場を離れた。自分でも、何が起きたのか理解できていないのに、周囲からは既に、都合の良い解釈や、あるいは不気味がる視線が向けられ始めている。
広場の隅で座り込んでいると、リィナが静かに歩み寄ってきた。
「大丈夫? かなり顔色が悪いわ」
「……ちょっと、疲れただけだから」
誤魔化そうとするユリオに、リィナは真剣な眼差しを向けた。
「本当のことを教えて。あなたに、何が起きたの」
その問いに、ユリオは一瞬、言葉に詰まった。だが、これ以上一人で抱え込むことに、限界を感じてもいた。
「……前にも、一回あったんだ。森で崖から落ちた時。気づいたら、何事もなかったみたいに、元の場所に立ってた」
「今回と、同じように?」
「うん。でも、今回の方が、なんか……疲れがすごいっていうか。記憶も、もっとぼんやりしてる」
リィナは、そのユリオの言葉を、一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
「教えてくれて、ありがとう」
「役に立つ話か、わかんねえけどな」
「ええ、きっと重要な手がかりよ」
リィナの声には、確かな手応えのようなものが滲んでいた。長年の調査で積み上げてきた、様々な情報の欠片が、少しずつ、一つの形を結び始めているのを、彼女は感じ取っていた。
その一方で、少し離れた場所から、ガレオンが二人の様子を静かに見つめていた。老人の胸中には、もはや疑いようのない確信と、それに伴う、重い決意が渦巻いていた。
(もう、隠し通せる段階ではないのかもしれん)
いずれ話さねばならない時が、思っていたよりも早く、すぐそこまで迫ってきていた。
◇
その夜、村は珍しく、どの家にも明かりが灯ったまま、なかなか寝静まろうとしなかった。
広場では、大人たちが集まり、今日の出来事について夜遅くまで話し合っていた。恐怖と困惑が入り混じった空気の中、ある者は村を離れるべきだと主張し、またある者は、住み慣れた土地を離れることに強く反対した。
「王都に、正式な援軍を要請すべきじゃないか」
「悠長なこと言ってる場合か。今すぐにでも避難した方が……」
議論は平行線を辿ったまま、なかなか結論が出なかった。リィナは、その様子を見守りながら、静かに口を開いた。
「今夜のところは、これ以上の異変が起きる兆候はありません。ですが、油断はできません。私の方でも、明日、改めて王都に緊急の報告を送ります。しばらくは、夜間の見回りを増やすことをお勧めします」
その落ち着いた提案に、村人たちも幾分か冷静さを取り戻したようだった。話し合いは、その日のところはひとまず解散となった。
自宅に戻ったユリオは、疲れ切った体を寝台に横たえながらも、なかなか寝付けずにいた。今日起きたことの全てが、まだうまく整理できていなかった。
靄の中に消えた瞬間の記憶は、やはり曖昧なままだった。だが、一つだけ、はっきりと感じたことがある。あの瞬間、確かに自分は、何かをした。何かの力が、自分の内側から働いた。その感覚だけは、朧げながらも、確かに残っていた。
(俺の中に、一体何があるんだよ……)
答えの出ない問いを抱えたまま、疲労が限界に達していたユリオは、いつしか深い眠りへと落ちていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「巡り紋」は毎日更新予定です。
ブックマーク・下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。




