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第十六話 二つの空白

翌朝、目を覚ましたユリオは、しばらくの間、ぼんやりと天井を見つめていた。


 昨夜のことが、まるで悪い夢のように感じられた。だが、体に残る重い倦怠感が、あれが紛れもない現実だったことを、否応なく突きつけてくる。


 起き上がり、水がめの水で顔を洗いながら、ユリオは自分の右手を見つめた。灰色に滲んだ紋様は、いつもと変わらず、そこにあった。だが、その紋の奥に、何か得体の知れないものが潜んでいるのだという事実を、もう無視することはできなかった。


(記憶を、整理してみよう)


 村の外れ、人気のない場所まで歩いていき、ユリオは切り株に腰掛けた。昨日の出来事を、順を追って思い出そうと試みる。


 靄に近づいた。冷たい感覚に包まれた。意識が遠のいた。そして――気づいたら、広場の入り口に立っていた。


 その間の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。いや、正確には、抜け落ちているというより、輪郭がぼやけているという方が近い。何かがあった、という感覚だけは確かにあるのに、その中身を思い出そうとすると、まるで霧の中を手探りするような、もどかしい感覚に襲われる。


(崖の時も、同じだった)


 あの時も、崩れる直前の記憶と、無事だった後の記憶の間に、同じような空白があった。そして、どちらの時も、共通していることが一つある。


(死ぬかもしれない、って思った瞬間だ)


 その仮説に思い至った瞬間、ユリオの背筋に、ぞくりとしたものが走った。もし本当にそうなら、自分の身に起きているこの現象は、単なる偶然や運の良さでは説明がつかない、もっと根深い何かということになる。


(試してみるべきか……いや、それは危なすぎるか)


 命の危険を意識的に作り出して、現象を確かめる――そんな馬鹿げた実験を考えかけて、ユリオは慌てて首を振った。それこそ、本末転倒というものだ。


 だが、何か手がかりが欲しかった。誰かに、この不安を打ち明けたかった。


 考えあぐねているうちに、水を汲みに来たミラと鉢合わせた。


「あれ、ユリオ。なんか、思いつめた顔してるね」


「そう見えるか?」


「うん、すごく」


 ミラの率直な指摘に、ユリオは苦笑した。彼女には、隠し事をするのが昔から苦手だった。


「……ちょっと、自分でもよくわかんないことがあって」


「話してみたら? 私じゃ力になれないかもしれないけど、聞くことくらいはできるよ」


 その優しい申し出に、ユリオは一瞬、心が揺れた。だが、口を開きかけて、思い留まった。まだ自分自身、何が起きているのか整理できていない状態で、彼女にこの不確かな不安を打ち明けるのは、かえって心配をかけるだけのような気がした。


「……いや、大丈夫。ちゃんと自分で片付けられそうだから」


「そう? 無理しないでよね」


「ああ、ありがとな」


 軽く笑って誤魔化すと、ミラはそれ以上追及せず、水がめを抱えて去っていった。その背中を見送りながら、ユリオは小さく息を吐いた。誰かに頼りたい気持ちと、まだ誰にも本当のことを話せないもどかしさが、胸の中でせめぎ合っていた。ふと見下ろした掌では、あの日の、覚えのない擦り傷が、もう薄れかけている。だが、その下に潜む謎だけは、日ごとに、重さを増していくばかりだった。


   ◇


 その日の午後、ユリオは丘へと向かった。だが、いつもとは違う目的があった。今度こそ、ガレオンから本当のことを聞き出すつもりだった。


「爺さん」


 小屋に着くなり、ユリオは真剣な声で切り出した。ガレオンは、薬草を煎じている手を止め、こちらを見た。


「昨日の一件のことか」


「ああ。もう誤魔化しは通じないだろ。爺さん、俺に起きてることの正体、知ってるんじゃないのか」


 ガレオンは、しばらく黙り込んでいた。囲炉裏の炎が、パチリと小さく爆ぜる音だけが、小屋の中に響いた。


「……知っている、というほど確かなことではない。だが、心当たりはある」


「教えてくれよ」


「まだだ」


「なんでだよ! もう、これ以上一人で抱えてらんねえんだよ! 何が起きてるのかもわからないまま、また同じことが起きたらどうすんだよ!」


 ユリオの声が、思わず荒くなった。積み重なった不安が、堰を切ったように溢れ出す。


 ガレオンは、その激情を、静かに受け止めた。しばらくの沈黙の後、老人は深く息を吐いた。


「……お前の言い分は、もっともだ」


「じゃあ――」


「だが、今すぐ全てを話すことは、まだできん。話すべきことがあまりに重く、そしてお前一人で受け止めるには、あまりに大きすぎる」


「俺は、そんなに弱くねえよ」


「弱いとは言っていない。むしろ逆だ。お前は、思っている以上に強い。だからこそ――その強さに、これ以上の重荷を、無責任に背負わせたくないんだ」


 その言葉には、これまで聞いたことのないほどの、深い葛藤が滲んでいた。ユリオは、思わず言葉を失った。


「もう少しだけ、時間をくれ。必ず、然るべき時に、全てを話す。それだけは約束する」


「……その、然るべき時っていうのは、いつなんだよ」


「そう遠くはない。それだけは、確かだ」


「本当だろうな」


「ああ。それに――」


 ガレオンは、そこで一度言葉を切った。何かを言いかけて、思い直したような、そんな間があった。


「お前が思っている以上に、事は大きい。もし本当に、俺の懸念している通りのことなら――お前一人の話では、済まなくなる」


「どういう意味だよ」


「今はまだ、それ以上は言えん。ただ、心の準備だけは、しておいてくれ」


 その意味深な言葉に、ユリオの胸に、新たな不安がひとつ積み重なった。だが、ガレオンの目に宿る、真剣な、そしてどこか苦しげな色を見て、ユリオは不満を残しながらも、それ以上追及するのを諦めた。これ以上責め立てることが、正しいこととは思えなかったからだ。


「……わかったよ。でも、もし次に何かあったら、絶対に教えろよな」


「約束する」


 その日の稽古は、いつもより早く切り上げられた。丘を下りながら、ユリオの胸には、依然として答えの出ない疑問が渦巻いていた。


   ◇


 夜、自宅に戻ったユリオは、寝台に横になりながら、もう一度、これまでの出来事を反芻していた。


 崖崩れ。靄の襲撃。二度とも、死を覚悟した瞬間に、気づけば無事な自分がそこにいた。それは果たして、偶然なのか。それとも、自分の中に眠る何らかの力が、無意識のうちに働いた結果なのか。


 もし後者なら――その力は、一体何のためにあるのか。灰色の紋と、何か関係があるのだろうか。


 考えれば考えるほど、疑問は増える一方で、答えには近づけなかった。誰かに相談したくても、ガレオンは口を割らない。リィナには、既に断片的なことを話してはいるが、彼女自身も、まだ確証を得られていない様子だった。


(結局、俺一人で、この不安と向き合うしかないのか)


 そんな孤独感が、じわじわと胸を締め付けた。これまで、灰色の紋を蔑まれても、笑ってやり過ごしてきた。だが、今回ばかりは、笑って済ませられるような話ではなかった。自分の身に、理解の及ばない何かが起きている――その事実そのものが、これまで経験したことのない種類の恐怖を、ユリオの中に植え付けていた。


 それでも、ユリオは、その恐怖に押しつぶされまいと、小さく息を吐いた。


 答えが見つからないなら、見つかるまで、前を向いて進むしかない。そう自分に言い聞かせることでしか、今のこの不安定な足場に、立ち続けることができなかった。


 窓の外では、月が雲間から静かに顔を覗かせていた。その淡い光を見つめながら、ユリオは、いつしか浅い眠りへと落ちていった。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定です。

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