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第十七話 基礎の意味

靄の襲撃から数日が過ぎた、ある朝のことだった。


 あの夜以来、村にはまだ張り詰めた空気が残っていた。夜警の当番を組む村人たちの姿、以前より頻繁に交わされる噂話。日常は表向き戻りつつあったが、誰もが心のどこかで、次の異変を警戒していた。


 そんな中、いつも通り丘を訪れたユリオを、ガレオンは意外な言葉で迎えた。


「今日は素振りはいい」


「え? 珍しいな」


「代わりに、話をしよう」


 その真剣な声色に、ユリオは思わず身構えた。ガレオンは小屋の中へ入るよう促すと、囲炉裏を挟んで向かい合わせに座った。いつもは開けっ放しの戸が、今日は静かに閉められていた。まるで、これから話すことを、誰にも聞かれたくないとでも言うように。


「全てを話すことは、まだできん。それは先日も言った通りだ」


「ああ」


「だが、お前がこれ以上、答えのない不安を一人で抱え続けるのも、見ていられん。だから、今話せる範囲でだけ、話しておこうと思う」


 ガレオンは、しばらく言葉を選ぶように沈黙した後、ゆっくりと切り出した。


「お前に起きていることは、正気を疑うような話じゃない。それだけは、はっきりと言っておく」


「……それは、前にも聞いたよ」


「もう一度言っておく必要があると思ってな」


 ガレオンの言葉には、確かな重みがあった。ユリオは、黙ってその先を待った。


「お前の中には、ある種の力が眠っている。それは、普通の紋の色――五行のどれにも、光にも闇にも属さない、まったく別の系統の力だ」


「別の系統……」


「詳しい仕組みは、俺にもわからん。だが、命の危機に瀕した時、その力が無意識のうちに発動し、お前を死の淵から引き戻している――そう考えれば、崖崩れの時も、あの靄の時も、辻褄が合う」


 その説明に、ユリオは息を呑んだ。これまで、自分の身に何が起きているのか、断片的にしか理解できずにいた。それが今、ようやく一つの筋道として示された。


「それって……つまり、俺は、時間を、戻ってるってことか?」


「おそらくは。だが、それがどういう理屈で起きているのか、どこまでの力があるのか、限界がどこにあるのか――そういった細部については、俺にもわからん」


「爺さんは、なんでそんなことを知ってるんだよ」


 核心を突く問いに、ガレオンは一瞬、目を伏せた。


「……昔、似たような力を持つ者を、一人だけ知っていた」


「その人は、今どうしてるんだよ」


「それは、今はまだ話せん」


 頑なな態度に、ユリオは苛立ちを覚えたが、それでも、これまでよりは確かに一歩踏み込んだ答えが得られたことに、ある種の安堵も感じていた。


「なあ、爺さん」


「なんだ」


「爺さんが、俺に基礎の稽古しか教えてこなかったのって……もしかして、これと関係あるのか?」


 その問いに、ガレオンは静かに頷いた。


「その通りだ。お前の力は、色に基づく修練法が、そもそも通用しない。剣に闘気を込めるのも、詠唱で術式を編むのも、全て紋の色を土台にした技術だ。だが、お前の紋には、色がない」


「じゃあ、俺はずっと、そのための下地作りをしてただけってことか」


「そうだ。色に頼らない、純粋な身体の強さと技術。それだけが、お前がこれから、自分の力と向き合う上での、確かな土台になる」


 その言葉に、ユリオはこれまでの三年間の稽古が、ようやく一つの意味を持って繋がっていくのを感じた。無意味に思えていた地味な素振りの一つ一つが、実は全て、この日のために積み重ねられてきたものだったのだ。


「……なんで、もっと早く教えてくれなかったんだよ」


「早くに知ったところで、お前には受け止めきれなかっただろう。それに、俺自身、確証が持てずにいた。お前の力が、俺の懸念している通りのものなのか、それとも、まったく別の何かなのか」


「今は、確証があるのか?」


「靄が、お前が消えた瞬間に怯んで後退した。あれを見て、確信に変わった」


 ガレオンは、そこで一度言葉を切り、囲炉裏の炎を見つめた。


「お前の力は、おそらく、あの靄――いや、その向こうにある何かにとって、無視できない存在なんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのか、今の俺には判断がつかん」


 その重々しい言葉に、ユリオは思わず身を固くした。


「悪いことだったら、どうすればいいんだよ」


「その時は、お前一人に背負わせはしない。俺も、できる限りのことをする」


 きっぱりとしたその言葉に、ユリオは、これまで感じていた孤独感が、少しだけ和らぐのを感じた。全てが明らかになったわけではない。それでも、少なくとも、自分は一人ではないのだという確信が、胸の奥に灯った。


   ◇


 その日の午後、ガレオンは久しぶりに、実戦に近い形の稽古をユリオに課した。


「今日から、少しずつ稽古の内容を変える」


「変えるって、どんな風に?」


「これまでは、色に頼らない基礎の型だけを叩き込んできた。だが、今のお前になら、もう少し踏み込んだことを教えても良さそうだ」


 ガレオンは木剣を構え、実演を交えながら、これまでよりも高度な体捌きを指導し始めた。重心の移動、力の伝え方、相手の動きを読む間合いの取り方。それは、単なる素振りとは一線を画す、実戦を見据えた技術だった。


「重心を低く。……いや、俺の真似を、そのまま、するな」


 ガレオンは、ユリオの足元を、木剣の先で軽く叩いた。


「俺の型には、俺の癖が染みついてる。俺の紋は土だ。地に根を張って、受けて、しのぐ――それが土の戦い方で、俺の体には、それが骨の髄まで染みてる。だが、お前には、その根っこがない。だから、俺の型から、土の癖を削ぎ落とした、骨組みの部分だけを、写し取れ」


「骨組みだけ、って……難しいこと言うなよ」


「難しいさ。だから、三年もかけて、基礎だけをやらせてきた。癖のない型ってのは、この世で一番、身につけるのに時間がかかるんだ」


 その言葉に、ユリオは、改めて、この三年間の意味を噛みしめた。


「なんか、今日はやけに丁寧だな」


「これまでが、丁寧すぎるほど基礎に絞っていただけだ。お前はもう、その段階を抜け出しつつある」


 ユリオは、木剣を握り直しながら、静かに闘志を燃やしていた。自分の中に眠る、まだ正体のはっきりしない力。それをいつか、自分自身の意志で扱えるようになる日が来るかもしれない――そんな予感が、初めて前向きな形で、ユリオの胸に芽生えていた。


「よし、来い」


 ガレオンの声に、ユリオは大きく頷き、地面を蹴った。


 その日の稽古は、いつもより長く続いた。汗だくになりながらも、ユリオの表情には、これまでにない充実感が滲んでいた。答えの全てが得られたわけではない。それでも、霧の中を手探りで進んでいた状態から、わずかながらも前へ進む道筋が見えてきたことが、何より心強かった。


   ◇


 その夜、自宅に戻ったユリオは、寝台に横になりながら、今日聞いた話を何度も反芻していた。


 自分の中に眠る、色に属さない力。それが、命の危機に瀕した時、無意識のうちに時を戻す。そして、ガレオンはかつて、似たような力を持つ者を知っていたという。


(その人は、一体どうなったんだろう)


 ガレオンが頑なに語ろうとしなかったその先の話に、ユリオは漠然とした不安を覚えずにはいられなかった。もし本当に、自分と同じ力を持つ者が過去にいたのなら、その人物の運命が、これから先の自分の道標になるはずだ。それが明るい未来を示すものなのか、それとも――暗い影を落とすものなのか、今のユリオには知る由もなかった。


 それでも、今日ガレオンが見せてくれた変化――基礎稽古から一歩進んだ指導、そして何より、初めて本音で向き合ってくれたその態度に、ユリオは確かな希望を感じていた。


(一人じゃない、って言ってくれたもんな)


 その言葉を、ユリオは何度も心の中で繰り返した。答えの見えない不安の中でも、支えてくれる人がいる。それだけで、明日への一歩を踏み出す力になる。そんな気がした。


 静かに目を閉じると、今夜は、これまでのどの夜よりも、穏やかな眠りが訪れそうだった。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定です。

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