第七十話 ユリオの焦り
王都の片隅、目立たない裏長屋での日々は、思っていた以上に、単調だった。
ユリオは、狭い部屋の中で、今日もまた、木剣を振っていた。素振り、型稽古、そして、ガレオンから叩き込まれた基礎の反復。村にいた頃と、やっていることは、何一つ変わらない。変わったのは、周りの景色だけだった。
(もう、何日目だ)
指折り数えるのも、いつしかやめていた。王都に着いてから、二月近くが過ぎようとしていた。その間に、リィナは開示請求を出し、却下され、それでも諦めずに動き続けている。カイエルは、家との軋轢と向き合いながら、鑑定院の闇に、少しずつ迫りつつある。フェルドという協力者まで現れ、深夜の書庫にまで、二人は足を踏み入れた。
自分は――何をしている。
木剣を握る手に、無意識のうちに力がこもった。
◇
「よう、精が出るな」
声の主は、ガイだった。時折、こうして顔を出しては、稽古相手になってくれる、カイエルの私兵の若い剣士だ。主であるカイエルの意を受けて、待機の身のユリオたちを、何かと気にかけてくれる一人でもあった。
「ガイか。今日も暇なのか」
「暇っていうか、休みだ。お前の相手でもしてやろうかと思ってな」
ガイは、そう言って、稽古用の木剣を手に取った。二人は、狭い裏庭で、型を合わせるように、打ち合いを始めた。
しばらくの間、木剣の音だけが、静かに響いていた。ガイの剣筋は、ヴァンドール家で正式に鍛えられただけあって、無駄がなかった。ユリオは、それを何とか凌ぎながら、必死に食らいついていく。
「相変わらず、筋は悪くねえな。だが、まだまだ粗い」
「うるせえ。お前と違って、俺は独学みたいなもんだ」
軽口を叩き合いながらも、ユリオの内心には、素直に喜べない何かが、燻っていた。
◇
打ち合いを終え、二人で井戸端に座り込んだ時、ガイが、ふと尋ねた。
「なあ、聞いていいか」
「何だよ、改まって」
「お前、最近、なんか苛立ってねえか」
その一言に、ユリオは、一瞬、言葉に詰まった。
「……そう見えるか」
「見えるさ。木剣の振り方に、いつもより、力みが多い」
図星を指され、ユリオは、思わず苦笑した。
「バレバレか」
「まあな。何か、あったのか」
ユリオは、しばらく黙り込んだ後、ぽつりぽつりと、胸の内を語り始めた。
「別に、何かがあったわけじゃねえ。ただ……周りのやつらが、みんな、少しずつでも前に進んでるのが、見えるんだ。リィナは調査官として動いてるし、カイエルは、家族とまでぶつかりながら、真実に近づこうとしてる」
「お前は?」
「俺は、ここで、ただ待ってるだけだ。何の力にもなれずに」
その声には、これまでユリオが、あまり人前で見せてこなかった、剥き出しの苛立ちが滲んでいた。
◇
「お前、自分が何のためにここにいるか、忘れてねえか」
ガイの言葉に、ユリオは、思わず顔を上げた。
「どういう意味だ」
「お前は、灰色の紋を持つ、鑑定院の記録上、極めて特異な存在だ。表立って動けば、それだけで、反対派に目をつけられる格好の的になる。だから、待機してるんだろうが」
「分かってる。分かってるけど……」
「分かってても、苛立つのは仕方ねえよ。だがな」
ガイは、そこで、少し声のトーンを落とした。
「今のお前が、大人しく身を潜めていること自体が、リィナ様やカイエル様にとっちゃ、立派な援護になってるんだよ。お前が下手に動いて、反対派に嗅ぎつけられてみろ。今まで積み上げてきたもんが、全部、ひっくり返る」
その言葉は、頭では理解できる正論だった。それでも、ユリオの胸のつかえは、簡単には晴れなかった。
「頭じゃ、分かってるんだけどな」
「気持ちの方は、そう簡単にはついてこねえよな。まあ、それが人間ってもんだ」
ガイは、そう言って、軽く肩を叩いた。それだけの仕草に、少しだけ、救われる思いがした。
◇
ガイが帰った後、入れ違いのように、リィナが裏長屋を訪ねてきた。開示請求の却下以来、忙しく動き回っていた彼女が、こうしてふらりと顔を出すのは、珍しいことだった。
「調子は、どう?」
「見ての通りだよ。木剣振って、飯食って、寝るだけの毎日だ」
自嘲気味に答えるユリオに、リィナは、少し眉をひそめた。
「その言い方、前より、刺々しくなった気がするけど」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないと思うわ」
リィナは、ユリオの向かいに腰を下ろすと、まっすぐに彼を見つめた。
「私、フェルドさんの協力で、少しずつだけど記録を読み進められるようになった。カイエルも、お父様と、ぶつかりながらも、前に進もうとしてる。あなたは、それを見て、焦ってるんじゃない?」
核心を突かれ、ユリオは、思わず視線を逸らした。
「……そうかもな」
「無理もないと思う。でも、忘れないで。あなたがここで大人しくしていること自体が、私たちにとっては、大事な意味を持ってるの」
「ガイにも、同じことを言われたよ」
「そう。それだけ、大事なことだからよ」
リィナの声には、押し付けがましさはなかった。ただ、静かな確信だけが、そこにあった。
「それに――ユリオ。あなたの力は、まだ、何も終わってない。あの時から、三度も発動してきたその力が、これから先、どんな形で意味を持つのか。私は、それを、一番近くで見届けたいと思ってる」
「見届ける、ね」
「ええ。だから、焦らないで。あなたの出番は、必ず来る」
その言葉に、ユリオは、しばらくの間、何も言えなかった。焦りが、完全に消えたわけではない。それでも、リィナのまっすぐな言葉は、確かに、彼の胸に届いていた。
「……ありがとよ」
それだけを、ようやく絞り出すように言った。リィナは、小さく微笑むと、それ以上は何も言わず、静かに腰を上げた。
「また、様子を見に来るわね」
「ああ」
リィナが去った後の部屋には、彼女の言葉の余韻だけが、しばらくの間、残っていた。
◇
その日の夕方、ユリオは、久方ぶりに、ロトの様子を見に行った。
ロトは、この頃、教会からの勧誘を断った後も、変わらず、静かな日々を送っていた。それでも、その佇まいには、以前とは違う、確かな落ち着きが加わっていた。
「ユリオさん。今日は、どうしたんですか」
「別に、大した用じゃねえよ。ちょっと、様子を見に来ただけだ」
ロトは、小さく微笑んで、隣に座るよう促した。しばらくの間、二人は、他愛のない話を交わしていた。だが、話の流れの中で、ユリオは、つい、本音を漏らしてしまった。
「なあ、ロト。お前は、焦ったりしねえのか」
「焦る、とは」
「その……お前の力は、王都のやつらにも一目置かれるくらい、はっきりしてる。俺の力は、いまだに、何が何だか分からねえままだ。三度も発動してるのに、自分でも、制御の仕方一つ分からねえ」
ロトは、その言葉を、静かに受け止めていた。
「僕も、最初は、戸惑うことばかりでした。光の力が、何のためにあるのか。誰かに利用されるだけの力なんじゃないかって、怖くなったこともあります」
「今は?」
「今は……この力を、自分の選んだ人たちのために使おう、そう思えるようになりました。時間は、かかりましたけど」
その言葉には、飾り気のない、確かな実感が込められていた。ユリオは、それを聞いて、少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
「時間、か」
「ユリオさんの力も、きっと、いつか、そうなる時が来ると思います。焦らなくても、大丈夫ですよ」
ロトの、穏やかな笑顔。それは、ガイの正論とはまた違う形で、ユリオの胸に、静かに染み込んでいった。
◇
その夜、裏長屋に戻ったユリオは、狭い部屋の中で、一人、天井を見上げていた。
(力になれない、か)
ガイの言葉も、ロトの言葉も、それぞれに、正しいと思えた。それでも、胸の奥に燻る焦燥は、完全には消えなかった。
(村にいた頃は、こんな風に、何かに苛立つことなんて、なかったのにな)
ふと、村での日々が、脳裏をよぎった。ガレオンとの、代わり映えのしない稽古の日々。何気ない村人たちとのやり取り。今にして思えば、あの頃の自分は、卑屈にはならずとも、どこか、諦めにも似た静けさの中で生きていた。
王都に来て、色々なものを見た。広い世界を知り、様々な人と出会い、自分の非力さを、これまで以上に思い知らされた。それでも、その非力さと真正面から向き合う気力を、失ってはいなかった。それだけは、確かだった。
(ガレオンなら、今の俺を見て、何て言うだろうな)
ふと、そんな思いが、胸をよぎった。
王都に着いたばかりの頃、一度だけ、ガレオンに宛てて手紙を書いたことがあった。あの時は、慣れない都市生活への戸惑いを、半ば愚痴のように綴っただけの、他愛のないものだった。返事はまだ届いていない。届くまでには、まだしばらくかかるはずだった。
あれから、伝えるべきことは、いくつも積み重なっていた。それでも、うまく言葉にできずに、そのままにしていた。
だが、今なら――この焦りも、この苛立ちも、この不甲斐なさも、ありのままの言葉にして、あの老爺に伝えられるかもしれない。
そんな気がした。
ユリオは、ゆっくりと体を起こすと、部屋の片隅に置かれた、粗末な紙とペンに、手を伸ばした。
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