第六十九話 決別、あるいは
一月の猶予――それは、カイエルにとって、単なる時間の余裕ではなかった。父との関係を、これからどう捉え直すのか。その答えを出すための、猶予でもあった。
(父上もまた、若い頃、何かと戦っていたのかもしれない)
あの日、書斎で聞いた一言が、カイエルの中に、小さな棘のように残り続けていた。突き放すような態度の奥に、これまで見えていなかった父の一面がある。そう感じてしまった以上、それを確かめずに、先へ進むことは出来なかった。
◇
「若様が、旦那様の昔のことをお知りになりたいと?」
ヴァンドール邸を再び訪れたカイエルに、あの初老の従者――名をロウという。長年、家に仕えてきた男は、少し困ったような顔を見せた。
「お前になら、話せることもあるだろう。頼む」
「私の一存で、お話しできることかどうか……」
「父上には、聞かない。お前の胸のうちに、留めておいてくれて構わない」
ロウは、しばらく逡巡していたが、やがて、静かに息をついた。
「……分かりました。ですが、あくまで、私が若い頃に見聞きしたことの範囲で、ということでお許しください」
「十分だ」
ロウは、周囲に人の気配がないことを確かめてから、声を落として語り始めた。
「旦那様が、まだ若き日、ヴァンドール家の跡取りとなられる前のことでございます。当時の鑑定院の在り方に対し、旦那様は、かなり批判的なお考えをお持ちでした」
「父上が……?」
カイエルにとって、それは、にわかには信じ難い話だった。
「はい。特に、辺境の民に対する鑑定紋の運用――低い格付けの者への待遇の悪さに、強い憤りを抱いておられたと聞いております。当時のご友人――今は亡き、とある男爵家のご子息と共に、鑑定院への抗議文を起草されたこともあったとか」
「その、抗議文は」
「握りつぶされました。当時の鑑定院上層部によって、なかったことにされたのです。そして、その一件をきっかけに、ヴァンドール家全体が、しばらくの間、社交界で肩身の狭い思いをすることになりました」
ロウの声には、当時を知る者にしか出せない、重みがあった。
「先代――旦那様のお父上は、その一件で、大層お怒りになったと聞いております。『家の名を、私情のために使うとは何事か』と。以来、旦那様は、ご自身の考えを、表に出すことをやめられました」
◇
カイエルは、しばらくの間、言葉を失っていた。
これまで、父を「紋の絶対性を、疑いもなく信じる人物」だとばかり思っていた。だが、その内側には、かつて自分と同じように、疑問を抱き、それを行動に移そうとした過去があった。そして、その結果、痛烈な代償を払わされた過去も。
(俺が今、辿ろうとしている道を、父上は、かつて一度、歩こうとしていたのか)
その事実は、これまでの父への理解を、根底から揺さぶるものだった。
「若様。これは、あくまで昔のことでございます。今の旦那様が、どうお考えかは、私には分かりかねます」
「いや……十分だ。よく話してくれた」
カイエルは、ロウに深く礼を言い、邸を後にした。
◇
王都の街並みを歩きながら、カイエルは、これから自分がどう動くべきかを、静かに考え続けていた。
選択肢は、大きく分けて二つあった。
一つは、家との関係を、このまま断ち切る覚悟を固めること。父の反対を押し切り、リィナやユリオと共に、鑑定院の闇と真正面から向き合う道。それは、明確で、迷いのない道だった。だが同時に、ヴァンドール家という後ろ盾を完全に失い、これから先の調査における、様々な選択肢を狭めることにもなる。
もう一つは、家との関係を、なんとか繋ぎ止めながら、内側から少しずつ、変化を促していく道。それは、迂遠で、時間のかかる道だった。だが、父が、かつて同じ道を志し、そして挫折した過去があるのなら――今度こそ、その道を、違う形で歩き直せるのではないか。そんな考えが、カイエルの中に、静かに芽生え始めていた。
(決別か、それとも……)
答えは、まだ、はっきりとは出ていなかった。それでも、ロウから聞いた話は、その天秤を、確かに一方へと傾けつつあった。
◇
「決別、しないの?」
その夜、宿でカイエルの考えを聞いたリィナは、意外そうな顔をした。
「今のところは、な」
カイエルは、ロウから聞いた父の過去を、リィナにも語って聞かせた。話を聞き終えたリィナは、しばらくの間、考え込むような表情を浮かべていた。
「……なんだか、少し、切ない話ね」
「切ない?」
「だって、そうでしょう。かつて、あなたと同じように動こうとした人が、それを押しつぶされて、今のお父様になった。もし、その時に誰かが、味方をしていたら――お父様は、今とは違う道を歩んでいたかもしれない」
リィナの言葉に、カイエルは、はっとした。それは、彼自身、うっすらと感じていながら、言葉に出来ずにいたことだった。
「俺は、父上のようにはならない。だが、父上を、切り捨てるつもりもない」
「それが、あなたの出した答えなのね」
「ああ。完全な決別ではなく、かといって、これまで通りでもない。俺は、家との関係を保ちながら、俺自身の信念を、貫く道を選ぶ」
その言葉には、これまでのカイエルにはなかった、明確な意志の強さが滲んでいた。
◇
数日後、カイエルは、再びヴァンドール邸を訪れた。父との対話を、もう一度、望んでのことだった。
「また来たのか」
「はい。今度は、対立のためではなく――提案のために来ました」
父は、わずかに眉を上げた。
「提案、だと」
「私は、本隊への復帰を、正式に受け入れます。ですが、非番の日を使って、これまでの調査を続けることも、変わらず続けます。その上で――もし、いずれ、確かな証拠と共に、鑑定院の在り方の歪みを明らかに出来た時には、父上のお力も、お借りしたいと思っています」
「私の、力を?」
「はい。父上は、かつて、同じ問題に、正面から向き合おうとされた。そのことを、私は最近、知りました」
その一言に、父の表情が、明確に強張った。
「……誰から聞いた」
「それは、申し上げられません。ですが――父上が、当時、なぜそこまでの行動を取られたのか。そして、その結果、何を失われたのか。私なりに、理解したつもりです」
書斎に、重い沈黙が落ちた。父は、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、その視線だけが、これまでとは違う色を帯びて、カイエルに向けられていた。
◇
「……お前は」
やがて、父は、絞り出すように口を開いた。
「お前は、あの頃の私よりも、遥かに、危うい橋を渡ろうとしている。それを、分かった上で言っているのか」
「分かっているつもりです。だからこそ、父上のお力が、必要になる時が来ると思っています」
「私が、お前に協力すると、本気で思っているのか」
「今は、まだ、そのつもりがないことも、分かっています。ですが――いつか、その時が来たら。その時にだけ、思い出していただければ、それで構いません」
カイエルは、深く頭を下げた。それ以上、多くを語ろうとはしなかった。
父は、しばらくの間、無言のまま、カイエルの姿を見つめていた。その沈黙の中に、怒りとも、諦めとも、あるいは、かつての自分自身への複雑な感情とも取れる、様々なものが、渦を巻いているように見えた。
「……下がれ。今日のところは、それで良い」
その言葉に込められたものが、単なる拒絶ではないことを、カイエルは、確かに感じ取っていた。
◇
邸を辞したカイエルの足取りは、来た時よりも、幾分軽くなっていた。父との関係は、決して完全には修復されていない。それでも、決別という最悪の選択は、避けることが出来た。そして何より――かつて父が挫折した道を、いつか違う形で歩み直せるかもしれないという、小さな希望が、カイエルの胸の中に芽生えていた。
(決別ではなく、説得の道を選ぶ)
それは、遠回りで、確証のない道だった。だが、ユリオの言葉を借りるなら――それもまた、自分自身で選び取った道だった。
王都の空は、夕暮れに染まり始めていた。ザイラス帝国を巡る不穏な情勢、鑑定院内部の反対派、そして、まだ解き明かされていないカイエル自身の体調不良の謎――解決すべき問題は、数え切れないほど残されていた。それでも、この日、カイエルは、自分自身の足で、確かな一歩を踏み出したという実感を、静かに噛みしめていた。
◇
その帰り道、カイエルは、再びユリオの元へ立ち寄った。父との顛末を、簡単に伝えるためだった。
「決別はしない、か」
話を聞き終えたユリオは、木剣を壁に立てかけながら、そう呟いた。
「意外か」
「いや……お前らしい選び方だと思うぜ。全部か無か、じゃなくて、間を探るってのは」
ユリオは、そう言って、少し複雑な表情を浮かべた。それに気づいたカイエルは、思わず尋ねた。
「どうした」
「別に。ただ……お前には、選べるだけの土台があるんだな、と改めて思っただけだ」
その声には、僅かながら、羨望とも焦りとも取れる響きが滲んでいた。カイエルと父の対話、リィナの鑑定院との対峙、フェルドの内部調査――周囲の誰もが、少しずつ、前へ進んでいるように見える。それに引き換え、自分は、待機の身のまま、王都の片隅で燻り続けている。ユリオの中に、そんな焦燥が、静かに積もり始めていることを、カイエルは、まだ知らなかった。
「何かあったら、遠慮なく言え」
「……ああ。分かってる」
ユリオは、いつもの飄々とした調子で、そう答えた。
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