第六十八話 板挟み
父との対峙から、五日が過ぎていた。
あの日以来、ヴァンドール邸からの使者は途絶えていた。表向きは、何事もなかったかのような静けさだった。だが、その静けさこそが、かえってカイエルの神経を苛んでいた。
(父上のことだ。黙って済ませるはずがない)
案の定、その予感は的中した。
「若様に、旦那様からお手紙です」
初老の従者――今度は文を携えてきただけで、直接呼びつけられたわけではなかった。それが、かえって不気味だった。カイエルは、その場で封を切った。
文面は、簡潔だった。だがその簡潔さの奥に、有無を言わさぬ強制力が滲んでいた。
――今後、鑑定院との連携任務を辞し、王国騎士団本隊への復帰を命ずる。日取りは追って沙汰する。
たった数行の文だった。それでも、そこに込められた意味の重さは、カイエルの胸を、鈍く締め付けた。
◇
「連携任務を、辞めさせられる……?」
リィナは、その報告を聞いて、言葉を失った。
「表向きの理由は、『家督を継ぐ者として、そろそろ本隊で実績を積むべき時期だ』ということらしい」
「本当の理由は」
「分かっているだろう。俺を、これ以上、お前たちの調査に関わらせないためだ」
カイエルの声は、努めて平静を装っていたが、その奥には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「拒否は、できないの?」
「命令という形を取っている以上、正面から拒めば、それこそ家との決別を意味する。父上は、そこまで分かった上で、この手を打ってきた」
リィナは、しばらくの間、何も言わなかった。やがて、静かに口を開いた。
「私のために、あなたがそこまで背負う必要は……」
「その話は、もう終わったはずだ」
カイエルは、その言葉を、静かに、しかし、はっきりと遮った。
「俺は、お前のためだけに動いているわけじゃない。何度も言っている」
リィナは、それ以上、何も言えなかった。ただ、彼女の胸の中には、これまで以上に重い、責任にも似た感情が渦巻いていた。
◇
その夜、カイエルは、一人で王都の外れを歩いていた。考えを整理する時間が、どうしても必要だった。
辿り着いた先は、ユリオたちが身を寄せている、目立たない裏長屋だった。監視の気配が強まったのを機に、人の出入りの多い宿を引き払い、フェルドの世話で、ユリオとロトは、この下町の一角に、ひっそりと居を移していた。目立たぬように――ただ、その一点のための、住み替えだった。待機の身であるユリオもまた、この王都で、静かに、しかし確かに、自分なりの葛藤を抱えていた。それを、カイエルは知っていた。
「珍しいな、こんな時間に」
顔を出したユリオは、少し驚いた様子で、彼を迎え入れた。
「少し、話がしたくてな」
「別にいいけど……何かあったのか?」
カイエルは、しばらく躊躇った後、これまでの経緯を、かいつまんで語った。書庫への調査、家からの圧力、そして今回の、連携任務からの解任命令。
ユリオは、黙って、その話を聞いていた。話し終えた頃には、夜も、すっかり更けていた。
「……大変なんだな、貴族ってのも」
ユリオの、どこか間の抜けた感想に、カイエルは、思わず、小さく笑った。
「お前らしい言い方だ」
「別に、馬鹿にしてるわけじゃねえよ。ただ、俺には想像もつかない重さだと思っただけだ」
ユリオは、そう言って、傍らに置かれた木剣を、何気なく手に取った。村を出てからも、彼はこうして、暇を見つけては素振りを続けていた。
「俺なんかは、失うものが、そもそも何もない。両親もいない、家名もない、鑑定紋の格付けも底辺だ。だからこそ、身軽に動けてるだけなのかもしれねえ」
「正直に言えば……その身軽さを、羨ましいと思うことがある」
カイエルのその一言に、ユリオは、少し驚いたように、彼の顔を見つめた。
「へえ。お前でも、そんなことを思うのか」
「意外か」
「まあ、な。お前は、いつも自分の立場に迷いなんてなさそうに見えてたから」
ユリオは、そう言って、小さく笑った。それから、少し考えるような間を置いて、続けた。
「けど、な。お前は、失うものがある分だけ、その中でどう動くか、自分で選べる立場にいるとも言えるんじゃねえか」
その言葉に、カイエルは、はっとした。
「選べる、立場……」
「俺には、そもそも選ぶための材料が、最初からなかった。お前には、それがある。だったら、悩んで選べばいい。誰に何を言われようとな」
不器用な言い方だったが、その言葉には、確かな芯があった。かつて、圧倒的な実力差でユリオを打ちのめした自分が、今、こうしてユリオの言葉に、救われている。その事実に、カイエルは、静かな戸惑いを覚えていた。
◇
翌日、カイエルは、再び、ヴァンドール邸へと足を運んだ。今度は、呼び出されたわけではなかった。自ら望んで、父と話す機会を作った。
「話とは何だ」
書斎の父は、相変わらず、感情の読めない表情のままだった。
「連携任務からの解任命令、正式にお受けします」
その言葉に、父は、わずかに眉を動かした。予想していなかった反応だったのかもしれない。
「……素直に従う気になったか」
「はい。ですが、条件があります」
「条件、だと?」
父の声に、微かな警戒が滲んだ。
「本隊への復帰は受け入れます。ですが、非番の日まで、私の行動を縛ることは、お許しいただきたい」
「つまり、これまでの調査は、続けるということか」
「はい」
カイエルは、はっきりと頷いた。
「表の立場では、家の意向に従います。ですが、私自身の信念までは、譲れません」
父は、しばらくの間、無言でカイエルを見つめていた。その視線の奥に、これまで見たことのない、複雑な感情が揺れていることに、カイエルは気づいていた。
「お前は、本当に……変わったな」
二度目に聞く、その言葉。今度は、そこに滲むものが、単なる非難ではないことを、カイエルは感じ取っていた。
◇
「これだけは、言っておく」
父は、ゆっくりと、言葉を選ぶように続けた。
「私とて、鑑定紋の在り方に、疑問がないわけではない。だが、その疑問を口にすることが、この家にとって、どれほどの危険を伴うか――お前は、まだ、理解しきれていない」
その言葉に、カイエルは、思わず、父の顔を見つめ直した。
「父上も、疑問を……?」
「昔の話だ。今更、蒸し返すつもりはない」
父は、それ以上、多くを語ろうとはしなかった。だが、その一言だけで、カイエルの中に、これまでとは違う、父という存在への理解が、静かに芽生え始めていた。
(父上もまた、何かを抱え、諦めてきたのかもしれない)
その可能性に思い至った瞬間、これまで単なる「秩序への固執」としか見えなかった父の姿が、少しだけ、違う輪郭を帯びて見えた。
◇
「本隊への復帰は、一月後だ。それまでは、好きにするがいい」
父の言葉に、カイエルは、深く頭を下げた。
「ご配慮、感謝いたします」
「勘違いするな。配慮ではない。お前が、自分の言葉で選んだ道の、責任の重さを、思い知る機会をやっているだけだ」
突き放すような言葉。それでも、そこに込められた響きは、以前とは、確かに違うものだった。
◇
邸を辞したカイエルを、あの初老の従者が、再び玄関先で見送った。
「若様。旦那様が、あそこまで譲歩されるのは、私も、久しく見たことがございません」
「そうなのか」
「はい。旦那様もまた、若様と同じように、若い頃には、ご自身の信念と、家の在り方との間で、悩まれた時期があったと聞き及んでおります」
その言葉に、カイエルは、先ほどの父の言葉を、改めて思い返していた。
「詳しいことを、お前は知っているのか」
「私の口から申し上げられることは、多くはございません。ただ、旦那様が、若様のことを、誰よりも案じておられることだけは、確かでございます」
従者は、それだけを言って、深く一礼した。カイエルは、その背に、しばらくの間、視線を向け続けていた。
◇
一月という猶予。それは、決して長い時間ではなかった。それでも、今のカイエルにとっては、確かな意味を持つ猶予だった。
家との関係は、完全には修復されていない。むしろ、これから先、より大きな試練が待ち受けていることを、カイエル自身、予感していた。それでも、父との対話の中で得た、小さな理解の芽――それは、これまでの板挟みの日々に、ひとすじの光を差し込むものだった。
(父上もまた、かつて何かと戦っていたのかもしれない)
その事実は、カイエルにとって、家という存在の重さを、これまでとは違う形で、受け止め直すきっかけになっていた。
板挟みの日々は、まだ、終わってはいなかった。だが、その板挟みの中にこそ、自分自身の選び取るべき道があるのだと、カイエルは、静かに確信し始めていた。
◇
その足で、カイエルは、リィナのもとへと向かった。父との話し合いの結果を、真っ先に伝えるべき相手だと、迷わずそう思えたことに、彼自身、少し驚いていた。
「本隊への復帰は、受け入れた。だが、非番の日までは、これまで通り、動ける」
その報告に、リィナは、安堵と、それでもなお拭えない申し訳なさとが入り混じった表情を浮かべた。
「良かった……と言っていいのか、正直、分からないわ。あなたが、そこまでして、この調査に関わり続ける理由が」
「理由なら、この間、はっきり言ったはずだ」
「ええ。でも、家との関係にまで、ここまでの傷を負わせてしまったことは、事実だもの」
リィナの声には、責任を感じずにはいられない者特有の、重さがあった。カイエルは、しばらくその顔を見つめた後、静かに首を振った。
「傷、というほどのものじゃない。むしろ――」
「むしろ?」
「父上と、あそこまで踏み込んだ話をしたのは、初めてだったかもしれない。今まで、俺は、父上の言葉に、ただ従うか、あるいは、内心で反発するだけだった。今日は、初めて、対等な形で、言葉を交わせた気がする」
その言葉に、リィナは、少し驚いた様子で、カイエルを見つめ返した。
「それは……あなたにとって、良い変化なのね」
「ああ。悪いことばかりじゃなかった、ということだ」
カイエルは、そう言って、いつになく穏やかな表情を見せた。かつての、紋の数値だけを絶対視していた頃の彼からは、想像もつかなかった顔だった。
「それにしても、意外だったわ」
「何がだ」
「あなたが、ユリオのところに、相談に行ったこと」
リィナの言葉に、カイエルは、少しばつが悪そうな顔をした。
「別に、深い意味はない。ただ、あいつの言葉には、時々、妙に的を射たものがあるだけだ」
「ふふ。あなたたち、思っていたより、良い関係を築けているのね」
からかうような響きを含んだリィナの言葉に、カイエルは、あえて反論しなかった。
窓の外では、王都の夜が、静かに更けていく。反対派の存在、家との緊張、そして、ザイラス帝国を巡る不穏な情勢――解決すべき問題は、まだ、山積していた。それでも、この夜だけは、二人の間に、確かな、束の間の安らぎが流れていた。
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