第六十七話 カイエルの立場
フェルドとの密会から、三日が過ぎていた。
反対派の中心人物が見え始めたという報告は、確かな前進だった。だがその一方で、リィナとカイエルの調査そのものが、いつまでも水面下に隠れていられるはずもない――そのことを、カイエルは苦い予感として、胸の奥に飼い続けていた。
その予感が現実になったのは、ヴァンドール邸から遣わされた使者が、王都の隠れ家じみた宿にまで彼を訪ねてきた日だった。
「若様。旦那様が、至急お戻りいただきたいと」
初老の従者は、いつになく硬い声で告げた。カイエルに仕えて長い男が、ここまで表情を消して言葉を発するのは、珍しいことだった。
「何かあったのか」
「私の口からは、何とも……。ただ、旦那様のご様子から察するに、決して穏やかな用件ではないかと」
その言葉だけで、カイエルには、およその見当がついた。
(父上の耳に、入ったか)
脳裏をよぎったのは、つい数日前のことだった。フェルドの手引きによる深夜の潜入だけでは、書庫の奥――厳重に管理された機密区画までは、辿り着けない。そう判断したカイエルは、表向きの筋を通すため、鑑定院の記録管理課に、正式な閲覧申請書を提出していた。
申請書に記した身分は「王国騎士団、鑑定院連携担当」。だが、担当官の渋る態度を前に、カイエルは、ヴァンドールの家紋が刻まれた印章を、あえて閲覧申請書の隅に押していた。家名を出せば、多少の無理も通る――そう踏んでのことだった。事実、その印章のおかげで、通常は数週間かかるはずの許可が、異例の早さで下りていた。
便利さの代償は、いつか払わねばならない。分かっていたはずだった。それでも、こんなに早く跳ね返ってくるとは、正直、予想していなかった。
◇
「行くの?」
宿に戻ったカイエルから事情を聞き、リィナは、案じるように尋ねた。
「行かないという選択肢はない。今、家との関係をこじらせるのは、得策じゃない」
「私も、一緒に……」
「いや」
カイエルは、珍しく強い調子で、リィナの申し出を遮った。
「これは、家の問題だ。お前を巻き込む必要はない」
「でも、カイエルが調べていたのは、私のためでもあるのに」
リィナの声に滲む、後ろめたさに近い響き。カイエルは、それを聞いて、わずかに表情を緩めた。
「お前のためだけじゃない。俺自身が、知りたいと思ったからだ」
その言葉に、リィナは、一瞬、言葉を失った。かつての――「紋の数値こそが全て」と信じて疑わなかった頃のカイエルからは、決して出てこなかったはずの言葉だった。
「……分かったわ。無事に戻ってきて」
「心配するな。父上の説教くらい、慣れている」
軽い調子でそう言って見せたが、内心では、カイエル自身、決して楽観していたわけではなかった。
◇
ヴァンドール邸の書斎は、記憶にあるままの、重々しい静けさに満ちていた。
父――ヴァンドール卿は、書き物机の向こうで、こちらを一瞥もせず、手にした書類に目を落としたままだった。かつては、この沈黙こそが、父の威厳の表れだと信じて疑わなかった。今の彼には、その沈黙が、どこか芝居がかったものにさえ感じられた。
「お呼びと聞き、参りました」
カイエルが口を開いてから、ようやく、父は顔を上げた。
「鑑定院の機密区画に、正式な閲覧申請を出したそうだな」
前置きも何もない、単刀直入な言葉だった。カイエルは、一瞬の逡巡の後、あえて否定しなかった。
「事実です」
「申請書に、ヴァンドールの印章を押したとも聞いている。担当官の許可を、異例の早さで引き出すために、な」
「……それも、事実です」
父は、静かに息を吐いた。怒りというより、疲労に近い響きが、その吐息には混じっていた。
「お前が何を調べているのか、私には、細かいことまでは分からん。だが、鑑定院上層部の一角から、正式な抗議に近い問い合わせが届いた。『ヴァンドール家の印章を利用し、本来の権限を超えた形で機密区画への閲覧許可を引き出した疑いがある』とな」
「本来の権限を超えた、とは」
「担当官の裁量を、家名の重みで押し切ったということだ。お前にその自覚がなくとも、向こうにとっては、十分に付け入る隙になる。事実がどうであれ、外聞というものがある。お前がどう思おうと、この国では、家名というものが、それだけの重みを持っている」
父の言葉には、揺るぎない確信があった。それは、これまでカイエル自身が信じてきた「秩序」という言葉と、根の部分で繋がっているものだった。
「クレスタ伯爵の一件から、まだ日も浅い。あの噂が完全に収まってもいないところに、今度はこれだ。お前は、家の立場というものを、少しでも考えたことがあるのか」
父の口調に、初めて、明確な苛立ちが滲んだ。
「考えています。それでも、動かねばならないと判断しました」
「判断、だと?」
父は、机を軽く叩いた。大きな音ではなかったが、その一打には、これまでカイエルが幾度となく感じてきた、有無を言わさぬ圧があった。
「お前の『判断』とやらのために、この家が長年かけて積み上げてきた信用が、今どれほど揺らいでいるか、分かっているのか」
◇
沈黙が、書斎に落ちた。
カイエルは、その沈黙の中で、これまでの旅路を、静かに思い返していた。
辺境の村で、灰色の紋を蔑んだ自分。国境の町で、獣人の少年が理不尽に扱われる現実を、初めて目の当たりにした自分。エルフの集落で聞いた、色を持たぬ者にまつわる古い伝承。そして――測定出来ないはずの少年が、命を賭して仲間を守ろうとする姿。
その全てを経て、今の自分がある。父の言う「家の信用」を軽んじているつもりはなかった。それでも、かつての自分のように、家名と秩序だけを盾にして生きることは、もう出来なくなっていた。
「父上」
カイエルは、静かに、しかし、はっきりとした声で切り出した。
「私は、鑑定院の在り方そのものに、疑問を持っています」
「……何だと」
「灰色の紋を持つ者を無能と断じ、その一方で、都合の悪い記録は隠す。そんな組織の在り方に、これ以上、目をつぶっていることは出来ません」
父の目に、これまで見たことのない色――驚きとも、警戒とも取れる色が、一瞬よぎった。
「お前は、鑑定院そのものを、疑っているというのか」
「鑑定院の理念そのものを、否定するつもりはありません。ですが、その運用の裏側に、隠されてきた何かがある。それを、確かめずにはいられないのです」
父は、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、こちらを値踏みするような視線だけが、カイエルに向けられ続けていた。
「……お前は、変わったな」
やがて、絞り出すように、父はそう呟いた。それが、非難なのか、それとも別の何かなのか、カイエル自身にも、判別がつかなかった。
「良くも悪くも、な」
◇
「今回のことは、私の方で、なんとか収める。だが、次はない。もし、次にこの家の名が、こうした形で表沙汰になるようなことがあれば……」
父は、そこで言葉を切った。続く言葉を、あえて言わずに、その圧だけを残す。それは、かつてのカイエルが、最も畏れていた父のやり方だった。
だが今、その沈黙の圧に対して、カイエルの中に湧き上がったのは、恐れではなかった。
「その時は、この家との関係を、私自身の責任で、断つ覚悟もあります」
自分の口から出た言葉に、カイエル自身、驚いていた。それでも、撤回するつもりはなかった。
父の眉が、わずかに動いた。怒りとも、失望とも取れる、複雑な表情だった。
「……下がれ」
それだけを言って、父は再び、手元の書類に視線を落とした。それ以上の言葉は、もう、続かなかった。
カイエルは、一礼して、書斎を後にした。
◇
邸を出た彼を、玄関先で待っていたのは、幼い頃から世話になってきた、あの初老の従者だった。
「若様……よろしかったのですか、あのようなことを」
「分からない。だが、あれ以外の答えは、今の俺には出せなかった」
従者は、しばらくの間、何かを言いかけては、飲み込むような素振りを見せていた。やがて、静かに口を開いた。
「旦那様は、若様のことを、心底案じておいでです。それだけは、忘れないでいただきたく」
「……分かっている。分かっているつもりだ」
カイエルは、それだけ答えて、王都の喧騒の中へと、足を踏み出した。
家との関係に、明確な亀裂が入った。それは、これまで積み上げてきたものを、確かに揺るがす出来事だった。それでも、不思議と、後悔の念は湧いてこなかった。
(俺は、俺自身の言葉で、答えを出した)
その事実だけが、今のカイエルにとって、確かな支えだった。
◇
宿に戻ると、リィナが、心配そうな顔で出迎えた。
「どうだった?」
「今回のところは、父が、なんとか収めてくれるらしい。だが……」
カイエルは、そこで一度、言葉を切った。
「だが?」
「次はない、と言われた。それに――俺自身、家との関係を、断つ覚悟があると、口にしてしまった」
リィナは、目を見開いた。
「そこまで、言ったの」
「言ってしまった。今更、撤回するつもりもない」
その横顔には、これまでのカイエルからは想像もつかなかった、静かな覚悟が滲んでいた。リィナは、それをしばらく見つめた後、小さく息をついた。
「……無茶ばかりする人ね」
「お前にだけは、言われたくない」
軽口を交わしながらも、二人の間には、これまでとは違う、重みを増した緊張感が漂っていた。反対派は、確かに、家という急所を通じて、揺さぶりをかけてきた。それは、これから先、さらに大きな圧力がかかることの予兆でもあった。
(家との関係が、これで終わりというわけじゃない)
カイエルの脳裏に、父の――そして自分自身が抱えてきた、家という存在の重さが、改めて去来していた。板挟みの日々は、まだ、始まったばかりだった。
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