第六十五話 気配
深夜の書庫での一件から、数日が過ぎていた。
リィナは、いつものように、鑑定院での通常業務をこなしながら、慎重に、周囲の様子を窺っていた。表向きは、何も変わらない日常。それでも、彼女の中には、拭いきれない違和感が、次第に膨らみつつあった。
(誰かに、見られている……?)
その感覚は、最初、ただの気のせいだと思っていた。長年、調査官として働いてきた彼女にとって、周囲の視線に敏感になることは、いわば職業病のようなものだった。だが、日を追うごとに、その違和感は、確かな実感へと変わっていった。
資料室で書類を整理している時、ふと顔を上げると、廊下の向こうから、こちらを窺うような視線を感じることがあった。振り返っても、そこには、いつも通りの職員たちの姿があるだけだった。それでも、その一瞬の違和感は、確かに、彼女の神経を、じわじわと蝕んでいった。
◇
廊下を歩いていると、すれ違う職員たちの視線が、以前とは、微妙に異なることに気づく。挨拶を交わす際の、ほんの一瞬の間。話しかけようとして、思い直したように口をつぐむ、そんな様子。
「エルスフィア調査官、少しよろしいですか」
ある日、廊下で呼び止められた。振り返ると、見知らぬ職員が、丁寧な口調で話しかけてきた。
「何か、ご用でしょうか」
「いえ、大したことではないのですが……最近、何か、変わった動きをされていないか、気になりまして」
その問いかけに、リィナは、内心で、鋭く警戒を強めた。
「特に、何もありませんが」
「そうですか。それなら、いいのですが」
その職員は、意味深な笑みを浮かべたまま、そのまま去っていった。名前も所属も名乗らなかったその男の後ろ姿を、リィナは、しばらくの間、じっと見つめ続けていた。
(今の質問、明らかに探りを入れられていたわね)
リィナは、平静を装いながらも、内心で、確かな緊張を覚えていた。同僚に、それとなく確認してみたところ、その職員の名前を知る者は、誰もいなかった。まるで、幻のように現れ、そして消えていった、その存在の不気味さに、リィナの警戒は、いっそう強まっていった。
◇
その日の夕方、宿に戻ったリィナは、カイエルに、この日の出来事を報告した。
「探りを入れられた、か」
カイエルの表情も、険しくなった。
「私の方にも、似たようなことがあった」
「カイエル様にも?」
「ああ。今日、家に戻った際、見慣れない使用人が、庭先をうろついているのを見かけた。父上に確認したが、そのような者を雇った覚えはない、とのことだった」
その報告に、リィナの背筋が、冷たくなった。
「監視されている、ということですね」
「恐らくな。書庫への侵入が、何らかの形で、感づかれたのかもしれない」
その可能性に、二人の間に、緊張が走った。
◇
「痕跡は、残していないはずですが」
リィナが、慎重に確認した。
「ああ、その点は、フェルドさんも、細心の注意を払っていたはずだ。だが……」
カイエルは、一度、言葉を切ってから続けた。
「侵入そのものではなく、我々の一連の動き――開示請求、フェルドさんとの接触、そういった外側の動きから、何かを察知された可能性がある」
その分析に、リィナは、深く頷いた。
「反対派が、私たちの動きを、既に把握している、ということかもしれないわね」
「その可能性は、十分にある」
その結論に、部屋の空気が、一段と重くなった。
「これから、フェルドさんとの接触は、どうすればいいでしょうか」
リィナの問いに、カイエルは、しばらく考え込んだ。
「しばらくは、直接会うことは控えた方がいいだろう。もし、彼が既に、監視の対象になっているのだとすれば、我々が接触すること自体が、彼をさらに危険に晒すことになる」
「フェルドさん自身は、大丈夫でしょうか」
「彼は、長年、あの組織で生き抜いてきた人だ。無闇に動くような真似はしないはずだ」
その言葉に、リィナは、少しだけ、安堵した。それでも、拭いきれない不安は、胸の奥に、確かに残り続けていた。
「もし、本当に監視されているのだとしたら、これから先、どこまで動けるのか、慎重に見極める必要があるわね」
「ああ。だが、萎縮しすぎるのも、また問題だ。真実を追うことを諦めるつもりは、毛頭ない」
カイエルの言葉には、揺るぎない決意が滲んでいた。
◇
その夜、ユリオも交えて、改めて、警戒態勢についての話し合いが持たれた。
「監視されてる、って、マジか」
ユリオが、驚いた様子で尋ねた。
「確証はない。だが、その可能性を、無視するわけにはいかない」
カイエルの説明に、ユリオは、真剣な表情で頷いた。
「これから、どうすればいいんだ」
「まず、これまで以上に、慎重な行動を心がける必要がある。フェルドさんとの接触も、しばらくは控えるべきだろう」
カイエルの方針に、リィナも、同意を示した。
「情報の受け渡しも、直接ではなく、何か別の方法を考えた方がいいかもしれないわね」
「ああ。それに、ロトのことも、これまで以上に気をつけねばならない」
その名前に、ロト自身が、少し不安げな表情を浮かべた。
「僕も、狙われるんでしょうか」
「わからん。だが、念のため、一人での外出は、控えた方がいいだろう」
カイエルの言葉に、ロトは、緊張した面持ちで頷いた。
◇
「なあ、反対派って、具体的に、誰なんだ」
ユリオの問いに、リィナは、静かに首を振った。
「まだ、はっきりとは、わからないわ。でも、鑑定院上層部の一角に、この件を隠蔽してきた勢力がいることは、ほぼ間違いない」
「その正体を、突き止められないのか」
「慎重に探る必要があるわ。下手に動けば、こちらの動きが、さらに露見してしまう」
その現実に、ユリオは、もどかしさを覚えながらも、頷くしかなかった。
「気をつけろよ、二人とも」
「ああ、もちろんだ」
カイエルの短い返答には、確かな決意が込められていた。
夕食を終えた後、それぞれが、それぞれの想いを抱えながら、床に就く準備を始めた。ユリオは、寝る前に、もう一度、ロトの様子を確認しに向かった。
「大丈夫か、ロト」
「はい……ちょっと、不安ですけど」
「無理もないよな。でも、俺たちが、ちゃんと守るから」
その言葉に、ロトは、少しだけ、表情を和らげた。
「僕も、何か、警戒すべきことがあれば、教えてください」
「わかった。何か変なことがあったら、すぐに教えろよ」
「はい」
その真剣なやり取りに、ユリオは、改めて、この見えない敵への警戒を、強めるのだった。
一方、リィナは、自室で、これまでの調査記録を、改めて見直していた。もし本当に、監視されているのだとしたら、これらの記録もまた、危険に晒されているのかもしれない。
(もっと、慎重に、保管方法を考えないと)
そう考えながら、リィナは、重要な記録を、目立たない場所に、分散して隠すことにした。万が一の事態に備えて、できる限りの対策を講じておく必要があった。
ただ一つ、あの手帳――旅の日々の記録と、ユリオの力の発動を書き留めてきた、あの一冊だけは、どこにも隠さず、常に、肌身離さず持ち歩くことに決めた。誰かに預けるにも、どこかに仕舞い込むにも、あまりに、大切すぎる。これだけは、自分の目の届く場所に――そう決めた理由を、リィナ自身、まだ、うまく言葉にすることは出来なかった。ただ、あの几帳面な文字の連なりが、いつか、何かの鍵になる――その予感だけが、確かに、あった。
見えない敵の気配。それは、これまでの、剣を交える戦いとは違う、静かで、しかし確実な緊張を、一行の間に、もたらし続けていた。真実に近づけば近づくほど、その影も、また濃くなっていく――そんな予感を、誰もが、密かに抱いていた。
窓の外に広がる、王都の夜景を見つめながら、リィナは、これから続くであろう、見えない敵との、静かな攻防に、確かな覚悟を固めていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「巡り紋」は毎日更新予定です。
ブックマーク・下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。




