第六十二話 深夜の書庫
決行の夜が、静かに訪れた。
月明かりの乏しい、曇り空の夜。リィナとカイエルは、それぞれ、動きやすい暗色の衣装に身を包み、指定された裏路地で、フェルドと落ち合った。
「準備は、いいか」
フェルドの問いに、二人は、緊張した面持ちで頷いた。
「行くぞ。物音を立てるな」
その言葉を最後に、三人は、鑑定院本部へと、静かに歩を進めた。
夜の王都は、昼間の賑わいが嘘のように、静まり返っていた。時折聞こえる、夜警の巡回の声、遠くの酒場から漏れる笑い声――それらの音が、かえって、静寂の深さを際立たせていた。
リィナは、心臓が早鐘のように打つのを感じながら、フェルドの背中を、慎重に追いかけた。これまで、正規の調査官として、何度も鑑定院の建物に出入りしてきた。だが、こうして、闇に紛れて忍び込むのは、初めての経験だった。
(大丈夫。落ち着いて)
自分にそう言い聞かせながら、リィナは、一歩一歩、確実に足を進めていった。
(五年間、勤めてきた場所に、こんな形で、忍び込む日が来るなんて)
それでも、後悔は、なかった。正規の手続きは、ことごとく、壁に阻まれた。開示請求は退けられ、照会の記録は、闇に葬られた。ならば、真実の方へ、自分から、踏み込んでいくしかない――その覚悟だけが、震えそうになる足を、前へと押し出していた。
隣を歩くカイエルもまた、いつになく張り詰めた表情を浮かべていた。剣を交える戦いには、幾度となく身を投じてきた彼にとっても、こうした隠密行動は、まったく異質な緊張を強いるものだった。
「怖くはないか」
小声で、カイエルが尋ねた。
「怖いですよ、当然。でも、ここまで来て、引き返すつもりはありません」
その毅然とした答えに、カイエルは、静かに頷いた。
◇
裏口に辿り着くと、フェルドが、事前に細工しておいた鍵を、慎重に外した。
「入るぞ」
扉を、音を立てないよう、ゆっくりと開ける。中は、日中の賑わいが嘘のように、静まり返っていた。
薄暗い廊下に足を踏み入れた瞬間、リィナは、これまで何度も歩いてきたはずのこの場所が、まるで見知らぬ迷宮のように感じられた。昼間、明るい陽光の下で見る廊下と、夜の闇に沈んだそれとでは、まったく違う表情を見せていた。
三人は、足音を殺しながら、書庫のある区画へと、慎重に進んでいった。フェルドが先導し、その後ろに、リィナとカイエルが続く。
「巡回は、あと十分ほどで、この区画を通るはずだ」
フェルドの囁きに、二人は、緊張を高めた。
「急ぎましょう」
リィナの言葉に、フェルドは、頷きながら、足を速めた。
廊下の角を曲がるたびに、心臓が跳ね上がるような緊張が走った。それでも、三人は、着実に、目的地へと歩を進めていった。
◇
書庫の前に辿り着くと、フェルドは、慣れた手つきで、扉を開けた。
「ここが、機密指定の記録が保管されている一角だ」
薄暗い書庫の中、フェルドが、小さなランプに火を灯した。その灯りが、埃をかぶった、無数の木箱や書架を、ぼんやりと照らし出した。書架は天井近くまで積み上げられ、長年触れられていない古い紙の匂いが、辺り一面に漂っていた。
「目的の記録は、この辺りにあるはずだ」
フェルドが、記憶を頼りに、書架の一角を指し示した。
「手伝います」
リィナが、慎重に、木箱の一つを取り出した。埃を払い、中身を確認していく。
「これは……違うわね」
「こっちも、違う」
カイエルも、別の木箱を検めながら、そう呟いた。
時間だけが、静かに過ぎていく。三人は、額に汗を滲ませながら、目的の記録を、丹念に探し続けた。木箱を一つ開けるたびに、埃が舞い上がり、微かな咳を必死に堪えながらの作業だった。
「フェルドさん、この辺りの分類は、どういう規則になっているのですか」
リィナが、小声で尋ねた。
「年代順だ。だが、機密指定されたものは、通常の分類から外れて、別扱いになっている。恐らく、あと少し奥のはずだ」
奥へ進むにつれ、木箱の側面に記された年号が、目に見えて、古いものになっていった。だが、その年号を眺めていたカイエルが、ふと、眉をひそめた。
「この年号は……建暦では、ないな」
「鑑定暦よ」
リィナが、小声で、答えた。
「鑑定院の設立を元年とする、内部記録専用の暦。院の公式文書には、こちらが使われるの。……つまり、数字が小さいほど、制度の創設期に近い記録、ということ。探すべきは、一桁台の年号の箱よ」
「ああ。狙いは、元年から数年のうちの記録だ」
フェルドの、その裏付けに、カイエルは、静かに頷いた。捜索の的が、確かに、絞られていく。
その説明に従い、三人は、さらに書架の奥へと進んでいった。ランプの灯りが届く範囲は限られており、周囲の闇が、じわじわと、圧迫感を増していくようだった。
「あった、かもしれない」
カイエルが、ひときわ古びた木箱を、指し示した。表面には、既に判読の難しくなった、古い封蝋の跡が残っていた。
◇
しばらく経った頃、外から、微かな足音が聞こえてきた。
「――っ、巡回だ」
フェルドが、緊張した声で囁いた。
「灯りを消せ」
三人は、慌ててランプの火を消し、書架の陰に、身を潜めた。
闇の中、リィナは、息を殺しながら、近づいてくる足音に、全神経を集中させた。心臓の鼓動が、やけに大きく響く気がした。もし今、見つかれば――その先に待つ結末を想像するだけで、背筋に冷たいものが走った。
その隣で、カイエルは、無意識のうちに、腰の剣の柄へと、手を伸ばしかけていた。だが、その指先は、柄に触れる寸前で、止まった。
(……何を、考えている)
扉の向こうにいるのは、敵ではない。ただ職務を果たしているだけの、同じ王国に仕える者だ。剣で切り抜けられる場面など、ここには、一つもない。慣れ親しんだ戦い方が、まるで通用しない戦場に、自分は今、立っている――カイエルは、伸ばしかけた手を、静かに、握り込んだ。
足音は、書庫の扉のすぐ外まで近づき、一瞬、止まった。
(気づかれた……?)
その一瞬の静寂が、永遠のように長く感じられた。だが、足音は、やがて、再びゆっくりと、遠ざかっていった。
「……行ったな」
安堵の息を吐きながら、フェルドが、再びランプに火を灯した。その顔にも、隠しきれない緊張の汗が浮かんでいた。
「危なかったですね」
「ああ。だが、まだ時間はある。急ごう」
その言葉に、三人は、再び、記録の捜索を再開した。だが、先ほどの緊張が、まだ体の奥に、重く残っていた。
◇
「――これだ」
しばらくして、フェルドが、一つの木箱を取り出し、静かにそう告げた。
「間違いないですか」
「ああ。この箱には、鑑定紋制度創設当初の、機密記録が収められているはずだ」
その言葉に、リィナとカイエルは、緊張した面持ちで、木箱を覗き込んだ。
中には、古びた羊皮紙の束が、几帳面に整理されて収められていた。表紙には、鑑定院の紋章と共に、「機密・閲覧制限」という文字が、赤い印で押されている。
「開けます」
リィナが、震える手で、羊皮紙の束を取り出した。ランプの灯りに照らされた文字を、慎重に読み進めていく。
最初の数枚は、制度の運用に関する、事務的な記録だった。それでも、リィナは、一枚一枚を、丁寧に確認していった。これまでの長い調査の全てが、この瞬間のためにあったのだと、改めて実感しながら。
「これは……」
その表情が、みるみるうちに、緊張から、驚愕へと変わっていった。
「何か、見つかったのか」
カイエルの問いに、リィナは、震える声で答えた。
「鑑定紋制度の理論的基礎を築いた人物に関する記録よ。……これまで、誰も、その正体を知らなかったはずの」
その言葉に、カイエルも、思わず息を呑んだ。
「読み上げてくれ」
その指示に、リィナは、慎重に、記録の内容を読み解き始めた。手にした羊皮紙が、ランプの灯りの中で、微かに震えていた。
フェルドもまた、固唾を呑んで、その様子を見守っていた。長年、この鑑定院に勤めながらも、決して触れることのできなかった真実。それが今、ようやく、明るみに出ようとしていた。
書庫の静寂の中、積み重ねてきた調査の全てが、今、一つの真実へと収束していく――その瞬間に、三人は、立ち会っていた。窓の外では、夜がまだ、深く更け続けていた。この一夜が、これから先の全てを、大きく揺るがすことになるだろうという予感を、三人は、それぞれの胸に、確かに抱いていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「巡り紋」は毎日更新予定です。
ブックマーク・下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。




