第六十一話 社交界の余波
クレスタ伯爵の訪問から、一週間ほどが過ぎた頃だった。
カイエルは、久しぶりに、王都の貴族社会の集まり――ある侯爵家主催の夜会に、顔を出すことになった。表向きは、家門の付き合いの一環に過ぎなかった。
磨き上げられた大理石の床、シャンデリアの輝き、そして、優雅な音楽が流れる会場――かつては、当たり前のように馴染んでいた、この華やかな社交の場。だが今、その煌びやかな光景を前に、カイエルは、これまでにない違和感を覚えていた。
「ヴァンドール卿、お久しぶりです」
会場に足を踏み入れると、顔見知りの貴族たちが、次々と声をかけてきた。だが、その挨拶の端々に、これまでとは、微妙に異なる空気が滲んでいることに、カイエルはすぐに気づいた。
「灰色の紋の少年を、庇われたそうですね」
ある子爵が、探るような目で尋ねてきた。
「保護した、というのが正確な表現だ」
カイエルの毅然とした返答に、子爵は、意味深な笑みを浮かべた。
「ヴァンドール家ともあろう家が、規格外の者に肩入れするとは、意外でしたな」
その言葉には、明確な棘があった。
「それに、鑑定院の機密記録にまで、手を伸ばそうとされているとか」
別の貴族が、興味津々といった様子で、会話に加わってきた。
「噂とは、随分と早く広まるものだな」
カイエルの皮肉めいた返答に、その貴族は、悪びれる様子もなく笑った。
「社交界とは、そういう場所ですよ、ヴァンドール卿」
◇
夜会が進むにつれ、カイエルは、これまでにない種類の疎外感を、肌で感じ始めていた。
以前であれば、当然のように交わされていたはずの会話が、どこかよそよそしくなっている。挨拶は交わすものの、深く踏み込んだ話題には、誰も触れようとしない。まるで、腫れ物に触るような扱いだった。
「カイエル様」
同じ夜会に招かれていた、旧知の令嬢が、そっと声をかけてきた。
「エリーゼ嬢」
「あまり、気になさらないでください。皆、興味本位で噂しているだけですから」
その気遣いに、カイエルは、小さく頭を下げた。
「ありがとう。だが、思っていた以上に、風当たりが強いようだ」
「秩序を重んじる家系の方々ほど、変化を恐れるものです。カイエル様の行動は、ある意味、彼らの価値観そのものへの挑戦に映っているのでしょう」
その分析に、カイエルは、静かに頷いた。
「エリーゼ嬢は、私の行動を、どう思う」
その問いに、エリーゼは、少し考えるように視線を落とした。
「正直に申し上げれば……最初は、驚きました。カイエル様が、そこまで大胆な行動を取られるとは、思っていませんでしたから」
「今は?」
「今は、少し、羨ましく思っています」
その意外な答えに、カイエルは、思わず目を見開いた。
「羨ましい、とは」
「私たちは、皆、この社会の秩序の中で、決められた役割を演じることに慣れきってしまっています。それが正しいのかどうか、疑うことすら忘れて。カイエル様は、その慣れ親しんだ在り方に、正面から疑問を投げかけられた。それは、簡単にできることではありません」
その言葉には、社交界という華やかな世界の裏に潜む、閉塞感のようなものが滲んでいた。
「もし、私に何かできることがあれば、遠慮なく仰ってください」
「その言葉だけで、十分だ。ありがとう」
その温かいやり取りに、カイエルは、少しだけ、この場に感じていた孤立感が和らぐのを感じた。
◇
夜会の終盤、カイエルは、招待状の減少という、より具体的な形で、その余波を実感することになった。
「そういえば、来月のセレスティン家の舞踏会、招待状は届いているか」
帰り際、ふと思い出したように、従者に尋ねた。
「……いえ、今年は、届いておりません」
その返答に、カイエルは、微かに眉をひそめた。セレスティン家の舞踏会は、毎年、必ず招待されてきた、恒例の行事だった。
「他にも、いくつか、例年届いていた招待が、今年は見送られているようです」
「具体的には、いくつだ」
「把握している限りでは、三件ほど。いずれも、これまで欠かさず届いていたものです」
その報告を、カイエルは、努めて平静に受け止めた。だが、内心では、確かな重みを感じずにはいられなかった。これが、社交界という場における、静かな、しかし確実な排除の形なのだと、改めて実感させられた。
馬車に揺られながら、カイエルは、窓の外を流れる、煌びやかな夜景を見つめていた。これまで、当然のように享受してきた社交界での地位。それが、これほど脆く、そして容易く揺らぐものだったのかと、改めて実感させられる出来事だった。
◇
宿に戻ったカイエルは、この日の出来事を、リィナに報告した。
「招待状が、減っているの?」
リィナの表情が、険しくなった。
「ああ。表立った非難ではない。だが、これは、明確な意思表示だろうな」
「私のせいでもあるわ。開示請求のことも、あなたの家門の名を通じて、広まっているはずだから」
その自責の言葉に、カイエルは、静かに首を振った。
「お前のせいではない。私が、自分の意志で選んだ道だ」
「でも……」
「気に病むな。むしろ、こうした反応があるということ自体が、我々の動きが、確かに何かを揺るがし始めている証だと、前向きに捉えるべきだろう」
その言葉に、リィナは、少しだけ、表情を和らげた。
◇
その夜、ユリオも交えて、改めて、今後の方針について話し合いが持たれた。
「社交界での風当たり、そんなに強いのか」
ユリオの問いに、カイエルは、苦笑した。
「表立った暴力や脅迫ではない。だが、じわじわと、外堀を埋められていくような、そんな感覚だ」
「なんつーか、卑怯なやり方だな」
「貴族社会とは、そういうものだ。直接的な対立を避けながら、間接的に、相手の力を削いでいく。ある意味、最も洗練された、そして最も陰湿な戦い方とも言える」
その説明に、ユリオは、思わず顔をしかめた。
「それでも、あんたは、続けるんだろ」
「当然だ。これしきのことで、私の決意が揺らぐと思うか」
その毅然とした答えに、ユリオは、頼もしそうに頷いた。
「なら、俺たちも、できる限りのことをするだけだな」
その言葉に、リィナも、カイエルも、静かに頷いた。
「なあ、カイエル。本当に、大丈夫なのか。家のこととか、社交界のこととか」
ユリオの心配そうな問いに、カイエルは、少し考えてから答えた。
「正直に言えば、簡単なことではない。だが、これまでの人生で、これほど自分の意志で選んだ道だと、実感できたことはなかった」
「それって、いいことなんだよな?」
「ああ、そう思っている」
その静かな決意に、ユリオは、深く頷いた。
「じゃあ、俺たちにできることは、あんたらのこと信じて、待つことだけだな」
「その通りだ。だが、それだけで、十分すぎるほどの支えになっている」
その言葉に、リィナも、優しく微笑んだ。
「フェルドさんとの決行、いよいよ明日ね」
「ああ。全ての準備は整った」
その緊張感を孕んだ会話に、部屋の空気が、一段と引き締まった。
社交界という、これまでとは違う種類の戦場での圧力。それは、剣を交える戦いとは異なる、静かで、しかし確実な重みを持つものだった。それでも、この一行の決意は、揺らぐことなく、次なる決行の夜へと、静かに向けられ続けていた。
窓の外に広がる、王都の夜景を見つめながら、それぞれが、明日という日への、確かな覚悟を、静かに胸に刻み込んでいった。
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