第六十話 下見
フェルドから告げられた決行の日まで、残り二日。リィナとカイエルは、その間に、入念な準備を進める必要があった。
「書庫の警備態勢を、まず把握しておく必要がある」
人気の少ない、王都の外れの喫茶店。フェルドは、そう切り出すと、懐から一枚の図面を取り出した。鑑定院本部の内部構造を、大まかに記したものだった。
薄暗い店内、他に客の姿はほとんどなく、三人が密談を交わすには、ちょうど良い環境だった。
「この書庫は、通常業務では、一般職員も立ち入れる区画だ。だが、機密指定された記録は、さらに奥――この一角に、厳重に保管されている」
フェルドの指が、図面の一点を示した。
「日中は、常に見張りが立っている。だが、深夜――日付が変わる頃から、明け方までの数時間、警備の人員が、大幅に減る」
「なぜですか」
リィナの問いに、フェルドは、苦笑した。
「単純な話だ。夜間まで、大勢の人員を割く予算が、鑑定院にはない。表向きは厳重な機密保持を謳っているが、実態は、それほど徹底されていない」
その説明に、カイエルは、険しい表情で頷いた。
「組織というのは、得てしてそういうものだ。建前と、実際の運用には、常に隙がある」
「俺が、若手だった頃から、この体質は変わっていない。予算は、常に、目に見える部分――正面玄関の装飾や、応接室の調度品などに優先的に割かれる。地味な夜間警備は、いつも後回しにされてきた」
フェルドの語りには、長年、この組織の内側を見てきた者だけが持つ、確かな諦観と、それでいて拭いきれない怒りが滲んでいた。
◇
その日の夕方、リィナとカイエルは、フェルドの案内で、実際に鑑定院の周辺を、それとなく歩いて回ることになった。
「怪しまれないよう、あくまで自然に振る舞え」
フェルドの忠告に、二人は、それぞれ頷いた。
カイエルは、貴族らしい何気ない散策を装い、リィナは、その隣を、まるで談笑する連れであるかのように、自然に振る舞った。
鑑定院本部の周囲を、ゆっくりと歩きながら、リィナは、さりげなく、建物の様子を観察していった。正門の警備、裏口の位置、そして、窓の配置。それら一つ一つが、決行の夜に向けた、貴重な情報になるはずだった。
「あの窓、明かりが灯っているな」
カイエルが、小声で指摘した。
「あそこは、通常業務の事務室よ。深夜まで、残業する職員がいることもあるわ」
「厄介だな」
「ええ。でも、フェルドさんの話だと、書庫のある区画は、もっと奥まった場所にあるはずよ」
二人は、慎重に、建物の周囲を一周した。裏口付近には、確かに、日中よりも手薄な警備の様子が見て取れた。
石畳の道を歩きながら、リィナは、頭の中で、これまで見てきた鑑定院の内部構造を、丁寧に組み立て直していった。五年間、この建物で働いてきたからこそわかる、動線の癖や、職員たちの習慣。それらの知識もまた、今回の計画において、決して小さくない武器になるはずだった。
「あなたが、内部の人間だったことが、これほど役立つとは思わなかった」
カイエルの言葉に、リィナは、複雑な笑みを浮かべた。
「皮肉なものね。長年勤めてきた組織の内情を、こうして裏をかくために使うことになるなんて」
「必要な皮肉だ、今は」
その言葉に、リィナは、静かに頷いた。
◇
「裏口の警備は、二時間おきの巡回のようだな」
カイエルが、遠目に観察しながら、そう分析した。
「巡回の間隔が、二時間なら、その隙を突けば、十分な時間が確保できるはずです」
リィナが、そう続けた。フェルドが、静かに頷いた。
「決行の夜は、俺が、裏口の鍵を、事前に細工しておく。お前たちは、巡回の隙を突いて、そこから侵入するんだ」
「フェルドさんご自身は、本当に危険はないのですか」
リィナの心配そうな問いに、フェルドは、小さく笑った。
「俺は、表向き、書庫の管理者として、いつでも出入りできる立場だ。むしろ、お前たちの方が、よほど危険を冒すことになる」
その説明に、リィナは、改めて、この計画の危うさを実感した。
◇
下見を終え、喫茶店に戻った三人は、改めて、計画の詳細を詰めていった。
「侵入経路は、裏口から。書庫内での滞在時間は、できる限り短く」
フェルドが、図面を指しながら、丁寧に説明を続けた。
「目的の記録がある場所は、俺が事前に把握している。無駄な時間をかけずに、目的の記録だけを確認し、速やかに撤収する」
「どれくらいの時間で、済ませられそうですか」
「うまくいけば、半刻程度だろう。だが、油断は禁物だ」
その言葉に、カイエルとリィナは、揃って頷いた。
「もし、途中で誰かに見つかった場合は、どうしますか」
カイエルの問いに、フェルドは、少し重い表情を見せた。
「その時は、正直に言えば、詰みだ。だから、それだけは、絶対に避けねばならない」
その率直な答えに、三人の間に、緊張が走った。
「万が一の際の、言い訳は考えてありますか」
リィナの実務的な問いに、フェルドは、小さく頷いた。
「俺が、単独で忍び込んだということにする。お前たちの名は、決して出さない」
「それでは、フェルドさんお一人に、全ての責任が」
「構わん。俺はもう、先の短い年寄りだ。それに、真実を明るみに出すためなら、これしきの覚悟は、とうにできている」
その老練な記録官の覚悟に、リィナとカイエルは、揃って言葉を失った。
「そんな覚悟をさせるわけには、いきません」
リィナが、強い口調で言った。
「私たちも、共に、責任を負うつもりで臨みます。あなた一人に、背負わせるようなことは、決してしません」
その言葉に、フェルドは、少し驚いた様子を見せた後、静かに、しかし温かく笑った。
「……そうか。お前の祖父も、そういう男だった。仲間を、決して見捨てない」
その言葉に、リィナの胸に、深い感慨が広がった。祖父の記憶は、彼女の中で、常に断片的なものでしかなかった。だが、こうして、フェルドの口から語られる祖父の人柄は、彼女にとって、かけがえのない繋がりの証のように感じられた。
◇
夜、宿に戻ったリィナとカイエルは、ユリオとロトに、下見の結果を報告した。
「思ったより、綿密な計画なんだな」
ユリオが、感心したように呟いた。
「当然よ。失敗すれば、これまでの全てが、水の泡になりかねないもの」
リィナの言葉には、確かな緊張が滲んでいた。
「本当に、俺は、何も手伝えないのか」
「今回は、待機していてくれ。何かあった時、外から動ける者が必要だと、前にも言ったはずだ」
カイエルの言葉に、ユリオは、渋々ながらも頷いた。
「わかったよ。でも、絶対に、無事に戻ってこいよ」
「約束する」
その真剣なやり取りに、ロトも、心配そうな表情を浮かべていた。
「僕にも、何かできることは、ないでしょうか」
その申し出に、リィナは、優しく微笑んだ。
「あなたは、ユリオと一緒に、待っていてくれるだけでいいわ。それだけで、十分な支えになるから」
その言葉に、ロトは、真剣な面持ちで頷いた。
「もし、何かあったら、僕、何でもします。手紙を届けるとか、走り回るとか」
「頼りにしているわ」
リィナの言葉に、ロトは、誇らしげに胸を張った。
その夜、それぞれが、床に就く前に、静かに、これから訪れる決行の夜への想いを、胸の中で反芻していた。
ユリオは、寝台に横になりながら、自分にできることの少なさに、改めてもどかしさを感じていた。それでも、待つことこそが、今の自分にできる、精一杯の協力なのだと、言い聞かせるしかなかった。
リィナは、これまで積み重ねてきた調査の全てが、この一夜に集約されるのだという緊張感と共に、静かに眠りについた。
カイエルもまた、この計画がもたらすであろう、様々な結果を思い巡らせながら、深い眠りに落ちていった。
決行の日まで、あと二日。それぞれが、それぞれの役割を胸に、静かな緊張感の中で、その日を待つことになった。
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