第五十六話 小さな稽古場
王都での待機生活が、一月近くになろうとしていた。
ユリオは、あの日ガイと出くわした裏路地に、それとなく通うようになっていた。人気の少ないその場所は、いつしか、彼にとっての、ささやかな稽古場になっていた。古びた壁に囲まれ、頭上には、細く切り取られた空が見えるだけの、狭い空間。それでも、ここでなら、周囲の目を気にせず、体を動かすことができた。
「今日も、来たのか」
声をかけてきたのは、ガイだった。カイエルの目を盗んでは、こうして時折、顔を出してくれるようになっていた。
「暇なんだよ、こっちは。少しでも体動かさねえと、腐っちまう」
「気持ちはわかる。じゃあ、今日も少しやるか」
二人は、いつものように、素手での型稽古を始めた。木剣すらない、ごく簡素な稽古だったが、それでも、ユリオにとっては、貴重な時間だった。
最初は、ただ体をなまらせないための、簡単な運動のつもりだった。だが、日を追うごとに、その稽古は、少しずつ、より深いものへと発展していった。
◇
しばらく打ち合いを続けるうち、ガイが、ふと、興味深そうに口を開いた。
「そういえば、坊主の力のこと、少し試してみるか」
「力って、刻の狭間を歩く者のことか?」
「いや、そっちじゃなくて。属性がないことの利点の方だ」
その提案に、ユリオは、少し身を乗り出した。
「どうやって試すんだよ」
「俺が、意識的に、闘気を纏わせた一撃を放つ。それを、お前が受けてみるんだ」
ガイは、右拳に、微かな熱を感じさせるような、闘気の高まりを見せた。
「行くぞ」
放たれた一撃を、ユリオは、慎重に受け止めた。これまでのただの打ち合いとは、明らかに質の違う衝撃が、腕を通して伝わってくる。
「うっ……!」
それでも、以前よりは、確実に耐えられている感触があった。
「どうだ、感じるものはあるか」
「なんか……ちょっとだけ、わかる気がする。普通に受けるより、何か、こう……力が、素通りしていくような、そんな感覚」
その表現に、ガイは、興味深そうに頷いた。
「面白いな。もう少し、試してみるか」
その後も、二人は、様々な形で、ユリオの感覚を掘り下げる試みを続けた。ガイが纏う闘気の強さを変えてみたり、角度を変えて打ち込んでみたり。試行錯誤を繰り返す中で、ユリオは、少しずつ、自分の中にある、名状しがたい感覚を、言葉にできるようになっていった。
「これ、意識的にできるようになったら、結構な武器になりそうだな」
「ああ。ただ、意識してどうこうする類のものじゃないかもしれん、って、リィナ様も言ってただろう」
「そうなんだよな……。無意識の領域にあるものを、どうやって意識的に扱えるようにするか。そこが一番難しい」
その課題は、まだ、解決の糸口すら見えていなかった。それでも、少しずつ、確実に、理解が深まっていることだけは、確かな手応えとして感じられていた。
◇
「なんとなくだけど、掴めてきた気がする」
汗を拭いながら、ユリオが呟いた。
「どんな感じだ」
「相手の力を、真正面から受け止めようとするんじゃなくて、そもそも、噛み合わないようにする、みたいな感じ。うまく言えねえけど」
その説明に、ガイは、感心したように頷いた。
「悪くない表現だ。属性同士がぶつかり合う時、相性次第で、力が増幅したり相殺されたりするだろう。お前の場合、そもそも、その"噛み合い"自体が発生しない。だから、真正面から受けても、増幅されることがない」
「それって、結構、便利なんじゃねえのか」
「便利というより、異質、というのが正しいだろうな。だが、使い方次第では、大きな武器になる」
その分析に、ユリオは、自分の力への理解が、少しずつ深まっていくのを感じていた。
◇
ちょうどその頃、裏路地の入り口に、見慣れた人影が現れた。
「あら、こんなところにいたのね」
リィナだった。宿にいないユリオを探して、たまたまこの辺りまで足を延ばしていたらしい。
「リィナ様」
ガイが、少し気まずそうに頭を掻いた。
「カイエル様には、内緒にしてもらえますか」
「ふふ、わかっているわ。今日のところは、見なかったことにしておく」
その言葉に、ガイは、安堵の表情を浮かべた。
「見てたのか、俺たちの稽古」
「少しだけ、ね。なんだか、以前より、動きに無駄がなくなった気がするわ」
その評価に、ユリオは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「そう見えるか?」
「ええ。地道に、確実に、力をつけているのね」
その言葉に、ユリオは、これまでの積み重ねが、確かに実を結びつつあることを、改めて実感した。
「私は、そろそろ戻るわ。フェルドさんとの約束があるの」
「ああ、気をつけてな」
リィナは、軽く手を振ると、来た時と同じように、静かに裏路地を後にした。その後ろ姿を見送りながら、ユリオとガイは、再び稽古へと戻ることにした。
◇
稽古を終え、汗を拭う二人の間に、束の間の休息が訪れた。
「なあ、ガイさん」
「なんだ」
「カイエルの家の方、大丈夫なのか。あんまり、詳しいことは聞かせてもらえてないけど」
その問いに、ガイの表情が、少し曇った。
「正直、簡単な状況じゃないな。旦那様も、色々と、板挟みになっておられるようだ」
「板挟み、か」
「家の体面と、カイエル様の信念。その両方を、うまく両立させる方法を、今、必死に探しておられるんだろう」
その説明に、ユリオは、複雑な思いを抱いた。自分の存在が、間接的にでも、カイエルや、その家族に重荷を背負わせていることは、決して軽い事実ではなかった。
「俺のせいで、迷惑かけちまってるよな」
「そういう考え方は、やめとけ」
ガイの声が、珍しく、鋭さを帯びた。
「坊主のせいじゃない。これは、この国が長年抱えてきた歪みが、今、表に出てきているだけの話だ。誰か一人の責任にできるようなもんじゃねえよ」
その言葉に、ユリオは、少し救われた思いがした。
「そんな風に、はっきり言ってもらえると、助かるよ」
「思ったことを言ってるだけだ」
ガイは、そっけなく答えながらも、その表情には、確かな温かさが滲んでいた。
「なあ、ガイさんは、なんで、そんなにカイエルのこと信じてるんだ?」
ふと、ユリオが尋ねた。
「信じてる、というより……あの人は、決して逃げない人だからな」
「逃げない?」
「難しい問題に直面した時、大抵の人間は、見て見ぬふりをする道を選ぶ。だが、カイエル様は、どれだけ厳しい現実でも、正面から向き合おうとする。それが、あの人の一番の美点だと、俺は思ってる」
その評価に、ユリオは、深く頷いた。
「わかる気がするよ、それ」
「だから、あの人がどんな決断を下したとしても、俺は、最後までついていくつもりだ」
その揺るぎない忠誠の言葉に、ユリオは、改めて、この旅の中で築かれてきた、様々な絆の重みを実感していた。
「ありがとな、ガイさん」
「礼はいらねえよ。それより、明日も、この時間、来られるか」
「ああ、行く」
その約束を交わし、ガイは、来た時と同じように、静かに裏路地を後にした。
一人残されたユリオは、夕暮れの空を見上げながら、これまでの旅路を、改めて振り返っていた。辺境の村を出てから、様々な出会いと別れ、そして数々の困難を乗り越えてきた。王都でのこの待機の日々もまた、いつか、大切な一歩として振り返る日が来るのだろう――そんな予感を抱きながら、ユリオは、宿への帰路についた。
束の間の稽古と、束の間の会話。それでも、その積み重ねが、ユリオにとって、この王都での日々を支える、確かな柱の一つになっていた。
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