第五十五話 壁
開示請求を提出してから、数週間が過ぎていた。その間、王都での生活にも、少しずつ、ある種の日常が根付き始めていた。ユリオは相変わらずの待機生活、ロトは読み書きの練習、カイエルは家との折り合いをつけながらの調整――それぞれが、それぞれの持ち場で、静かに時を過ごしていた。
リィナは、待ちわびていた鑑定院からの正式な回答を、ついに受け取ることになった。宿の一室で、彼女は、緊張した面持ちで、その封書を開封した。
鑑定院の紋章が押された、格式ばった封筒。中に収められた書面は、驚くほど簡潔なものだった。
「……」
書面に目を通したリィナの表情が、みるみるうちに険しくなっていった。
「どうしたんだ?」
傍らで見守っていたユリオが、心配そうに尋ねた。
「却下されたわ。理由は――」
リィナは、書面の一文を、読み上げた。
「『当該記録は、鑑定院上層部の専権事項として機密指定されており、一般調査官の開示請求権限の対象外である』」
「それって、要するに、断る理由は言わないってことか」
「ええ、その通りよ」
その官僚的な、木で鼻を括ったような回答に、ユリオも、思わず眉をひそめた。
「そんなの、ただの言い訳じゃねえか」
「形式上は、正当な手続きに則った回答よ。だからこそ、厄介なの」
リィナは、書面を丁寧に折りたたみながら、静かに息を吐いた。数週間もの間、この回答を待ち続けてきた。それが、たった数行の、しかも実質的には何も語らない文言で終わらされたことに、彼女の胸には、深い無力感が広がっていった。
◇
その日の夕方、カイエルも交えて、今後の方針についての話し合いが持たれた。
「予想通りの結果ではあるが、こうも明確に拒絶されると、腹立たしいものだな」
カイエルが、苦々しげに呟いた。
「正式なルートは、これで完全に塞がれたと考えるべきね」
リィナの分析に、皆が、重い沈黙で頷いた。
「フェルドさんの方は、どうなってるんだ」
ユリオの問いに、リィナは、少し表情を和らげた。
「近く連絡すると仰っていたわ。まだ具体的な話は聞けていないけれど」
「じゃあ、それに賭けるしかないってことか」
「今のところは、そうなるわね」
◇
夜、一人になったリィナは、改めて、これまでの調査の道筋を振り返っていた。
(正攻法では、これ以上進めない。だとしたら――)
これまで築いてきた、調査官としてのキャリアと信用。それを、正式な手続きの範囲内で使い続けることには、もはや限界があった。この先、真実に近づくためには、より踏み込んだ、そして、より危険な手段を取らざるを得ないのかもしれない。
その覚悟の重さに、リィナは、一瞬、たじろぎそうになった。だが、これまでの旅で見てきた光景――国境の町の理不尽、ロトの過酷な過去、そして、灰色の紋を持つ一人の青年の運命――それらを思い出すたびに、退くという選択肢は、消えていった。
「必ず、真実に辿り着いてみせるわ」
誰にともなく、そう呟いた声は、静かな決意を持って、部屋の中に響いた。
◇
翌日、フェルドから、密かに連絡があった。指定された、王都の外れにある、目立たない喫茶店。リィナは、単身、その場所へと向かった。
「開示請求、正式に却下されたようだな」
席につくなり、フェルドが、静かに切り出した。
「はい。予想はしていましたが、やはり、堪えるものですね」
「当然の反応だ。だが、これで、正攻法は使えないという確証が得られたとも言える」
その前向きな捉え方に、リィナは、少し勇気づけられた。
「却下の文言、見せてもらえるか」
リィナが差し出した書面に、フェルドは、じっくりと目を通した。
「……やはりな。この文言、以前にも見たことがある」
「以前にも、ですか」
「ああ。三十年ほど前、別件で似たような開示請求が出された時にも、ほぼ同じ文言で却下されている。恐らく、定型の拒絶文だ。個別に理由を検討する手間すら、かけていないのだろう」
その指摘に、リィナは、改めて、この組織の隠蔽体質の根深さを実感させられた。
「フェルドさん、非公式なルートというのは……」
「深夜の書庫だ」
その言葉に、リィナは、思わず息を呑んだ。
「俺はもう長年、あの書庫の管理を任されている。深夜、警備が手薄になる時間帯なら、内密に立ち入ることも、不可能ではない」
「それは……危険すぎませんか」
「危険は承知の上だ。だが、正式な手続きが全て塞がれた今、他に道はない」
フェルドの声には、老練な記録官らしい、確かな覚悟が滲んでいた。
「フェルドさんは、どうして、そこまでしてくださるのですか」
リィナの、その率直な問いに、フェルドは、しばらく、手元のカップを見つめていた。
「……長年、記録の番人をやっているとな。記録ってやつが、正直じゃないことに、嫌でも気づく。残されるべきものが残されず、消されるべきでないものが、消されていく。それを、見て見ぬふりをしてきた歳月が、俺にも、ある」
「フェルドさん……」
「年寄りの、罪滅ぼしみたいなもんだ。深くは、聞いてくれるな」
その、多くを語らない横顔に、リィナは、それ以上、問いを重ねることはしなかった。ただ、この老記録官の協力が、決して軽い気持ちからのものではないということだけは、確かに、伝わってきた。
「俺一人で行くわけにはいかない。手伝ってくれる者はいるか」
その問いに、リィナは、迷わず頷いた。
「カイエル様に、相談します」
「ヴァンドール家の跡取りか。心強いな」
フェルドは、小さく笑うと、声を落として、具体的な計画の詳細を語り始めた。
「決行は、五日後の深夜だ。その日は、警備の交代時間に、ちょうど手薄になる隙間ができる」
「五日後、ですね」
「ああ。それまでに、必要な準備を整えておいてくれ」
その具体的な計画に、リィナは、緊張と共に、確かな手応えも感じていた。ようやく、前へと進める道が、開けようとしていた。
◇
その夜、宿に戻ったリィナは、カイエルとユリオに、フェルドとの会談の内容を報告した。
「深夜の書庫への潜入、か」
カイエルが、腕を組みながら、慎重に検討する様子を見せた。
「危険な賭けだが……他に、現実的な手段が見当たらない以上、やるしかないだろう」
「私も、協力するわ」
「いや、リィナは、表向きの立場上、目立った動きは控えるべきだ。この件は、私が動く」
その申し出に、リィナは、少し驚いた様子を見せた。
「危険なのは、あなたも同じでしょう」
「私には、家名という、多少の言い訳が利く立場がある。万が一の際も、お前ほど、致命的な立場には陥らないはずだ」
その理屈には、一理あった。それでも、リィナは、簡単には引き下がらなかった。
「一緒に行くわ。この件は、私が始めたことだもの」
その頑なな意志に、カイエルは、ため息をつきながらも、最終的には頷いた。
「わかった。だが、慎重に事を運ぶぞ」
「ええ、もちろんよ」
二人のやり取りを見守っていたユリオが、ふと、口を挟んだ。
「俺は、何か手伝えねえのか」
「今回は、待機していてくれ。もし何かあった時に、外から動ける者が必要だ」
カイエルの説明に、ユリオは、渋々ながらも頷いた。
「わかったよ。でも、何かあったら、絶対に呼べよ」
「約束する」
カイエルの言葉に、ユリオは、まだ納得しきれない様子ながらも、それ以上は食い下がらなかった。自分にできることが限られている現実を、改めて受け入れるしかなかった。
「五日後、か」
ユリオが、ぽつりと呟いた。
「それまでに、俺も、何か準備しておいた方がいいのかもな」
「準備、というと?」
「わかんねえけど……何かあった時、すぐに動けるように、体の調子だけは、整えておく」
その言葉に、リィナは、静かに頷いた。
「ええ、それがいいと思うわ」
それぞれが、五日後の決行に向けて、静かに、しかし確かな準備を始めていった。
正攻法の壁は、むしろ、一行の腹を決めさせていた。真実へと近づく道は、これから、より険しいものになっていくはずだった。
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