↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/71

第五十三話 ヴァンドール邸

王都の高級住宅街の一角、ヴァンドール家の屋敷は、その威容を、以前と変わらぬ姿で保っていた。


 石造りの重厚な門構え、手入れの行き届いた庭園、そして、代々受け継がれてきた家紋が刻まれた紋章旗。その全てが、この家が背負ってきた歴史と誇りを、静かに物語っていた。


 カイエルは、屋敷の門をくぐりながら、これまでにない緊張を覚えていた。生まれ育った、慣れ親しんだはずの場所。それなのに、今の自分にとっては、まるで見知らぬ場所に足を踏み入れるような、そんな感覚があった。


 庭園を横切りながら、幼い頃の記憶が、ふと蘇った。この庭で、剣の素振りを繰り返した日々。父から、紋の意味と責務について、繰り返し教え込まれた日々。その全てが、今の自分を形作る土台であったことに、改めて気づかされる。


「お帰りなさいませ、カイエル様」


 出迎えた執事が、恭しく頭を下げた。


「父上は」


「書斎で、お待ちです」


 その言葉に、カイエルは、小さく頷き、屋敷の奥へと足を進めた。


   ◇


 書斎の扉を開けると、そこには、机に向かい、書類に目を通す父――ヴァンドール卿の姿があった。


「改めて、ご報告に参りました」


「うむ」


 顔も上げずに、短く応じる父の姿は、記憶にあるものと、何一つ変わっていなかった。


「辺境での視察、ご苦労だった。報告書には、目を通した」


「そうですか」


「ゼルギアの脅威、そして、灰色の紋を持つという個体の存在。実に興味深い報告だった」


 父は、ようやく顔を上げ、鋭い眼差しをカイエルに向けた。


「それで、お前自身の見解は、どうなのだ」


 その問いに、カイエルは、一瞬、言葉に詰まった。これまで、父の前では、常に、家の教えに沿った答えを返してきた。だが今、その答えは、以前とは、大きく違うものになっていた。


「私は……この旅を通じて、多くのことを学びました。紋の色だけでは、測れないものがあるということを」


 その言葉に、父の表情が、わずかに険しくなった。


「それは、どういう意味だ」


「灰色の紋を持つ、ユリオという青年がいます。紋のランクも色彩も、既存のどの分類にも当てはまらない。ですが、彼の在り方は、決して劣ったものではありませんでした。むしろ、私が知る多くの者よりも、真摯で、確かな強さを持っていました」


 カイエルは、慎重に言葉を選びながら、これまでの旅で得た経験を、父に語り始めた。


「エルフの集落にも、立ち寄りました。彼らの中には、紋という制度そのものを、人を測る愚かな行為だと考える者たちがいます。最初は、その考えに抵抗を覚えました。ですが、旅を続けるうちに、彼らの言い分にも、一理あると思うようになりました」


「エルフの言葉に、耳を傾けたというのか」


 父の声に、微かな驚きが滲んだ。


「はい。それに、ザイラス帝国との国境地帯で、鑑定紋制度が生み出す、目を覆いたくなるような理不尽も目にしました。ランクが低いというだけで、人間としての尊厳すら奪われている人々を」


 その報告に、父は、しばらく沈黙した。


「……帝国の運用が、行き過ぎているというのは、私も知っている。だが、それは、あくまで帝国の問題だ。我が国の在り方とは、切り離して考えるべきではないか」


「切り離せるとは、思えません。制度の根幹にある思想が同じである以上、程度の差こそあれ、同じ危うさを、我が国も抱えているはずです」


 その反論に、父は、初めて、明確な戸惑いの色を見せた。


   ◇


 父は、長い沈黙の後、静かに、しかし重い声で応じた。


「お前は、変わったな」


「はい。自分でも、そう思います」


「その変化を、私が歓迎するとでも思っているのか」


 その厳しい問いかけに、カイエルは、真っ直ぐに父を見据えた。


「歓迎されるとは、思っていません。ですが、私自身の実感として、目を逸らすことはできません」


「紋の絶対性を疑うということは、我が家が代々守ってきた在り方そのものを、否定することに繋がる。それを、理解しているのか」


「理解しています。それでも――」


 カイエルは、一度、深く息を吸ってから、続けた。


「秩序を守るということと、目の前の一人一人に、誠実に向き合うこと。この二つは、必ずしも矛盾しないはずです。私は、その両立の道を、これから探っていきたいと考えています」


 その答えに、父は、しばらく無言のまま、息子を見つめていた。


   ◇


「国境の町で、獣人の少年を保護したそうだな」


 不意に、父が話題を変えた。


「はい。私財を投じて、労働契約を買い取りました」


「家の名を使って、な」


 その指摘に、カイエルは、静かに頷いた。


「軽率だったとは、思っていません。あの状況で、他にできることは、ありませんでした」


「軽率とは言っていない。ただ、その行動が、家に何をもたらすか――それを、お前は、正しく理解しているのか、と聞いている」


 父の声には、単なる叱責ではない、より深い問いかけが込められていた。


「理解しているつもりです。ですが、それでも、あの選択を、後悔してはいません」


 その毅然とした答えに、父は、微かに、目を細めた。


「……その少年は、光の属性を持っていたそうだな」


「よくご存知で」


「王都で噂になっている。稀少な属性を持つ獣人の子供を、ヴァンドール家の跡取りが保護した、と」


 その情報の広がりの速さに、カイエルは、内心で少なからず驚いた。


「その噂が、家にとって、有利に働くか、不利に働くか――お前は、考えたことがあるか」


「正直、そこまでは、考えが及んでいませんでした」


 その率直な答えに、父は、小さく息を吐いた。


「まったく……お前らしいと言えば、お前らしいがな」


 その言葉には、これまでにない、微かな柔らかさが滲んでいた。


   ◇


 しばらくの沈黙の後、父は、静かに口を開いた。


「私は、これまで、紋の絶対性を疑ったことは、一度もない。それが、正しいことだと、心から信じてきた」


「はい」


「だが、お前が語る話を聞いていると……もしかしたら、私自身、狭い世界しか見ていなかったのかもしれない、という気もしてくる」


 その意外な言葉に、カイエルは、思わず目を見開いた。


「父上……」


「勘違いするな。私は、まだ、お前の考えに、全面的に賛同したわけではない。だが――」


 父は、窓の外に視線を向けながら、続けた。


「息子が、自分の頭で考え、自分の言葉で語る姿を見るのは、悪くないものだ」


 その言葉には、これまでの厳格な父の姿からは、想像もつかない、確かな情が込められていた。


「機密記録の開示請求について、エルスフィア嬢が動いていると聞いた。お前も、それに協力しているのだろう」


「はい」


「……好きにするがいい。ただし、家に累が及ぶような真似だけは、慎重に避けよ」


 その言葉は、明確な賛成ではなかった。それでも、頭ごなしの拒絶ではない――その事実だけで、カイエルにとっては、わずかな前進のように感じられた。


 だが、父の表情には、まだ何か言い足りないような、割り切れなさが残っていた。


「父上、まだ何か」


「……いや。今日のところは、これでいい。だが、この話は、まだ終わったわけではないと、心得ておけ」


 その一言には、これまでの穏やかな対話とは、また違う、重い響きが込められていた。


「ありがとうございます、父上」


「礼を言うのは、まだ早い」


 素っ気なく、しかしどこか含みのある言葉を残し、父は、再び書類へと視線を落とした。カイエルは、それ以上何も言えず、静かに一礼して、書斎を後にした。


 屋敷を出たカイエルは、夕暮れの空を見上げながら、静かに息を吐いた。


(父上は、一体、何を考えているのだろうか)


 完全な拒絶ではなかった。だが、完全な理解を得られたとも、到底言い切れない。むしろ、その割り切れなさの奥に、何か別の懸念――家門の体面や、これから起こりうる波紋への警戒が、まだ色濃く残っているようにも感じられた。


 門を出る間際、見送りに出てきた執事が、ふと、控えめに声をかけてきた。


「カイエル様、道中お気をつけて」


「ああ……父上の様子は、どうだった。私が来る前は」


 その問いに、執事は、一瞬、言葉を選ぶような間を置いた。


「……差し出がましいことは、申し上げられません。ただ、今日ほど、旦那様が長く思案されているお姿は、久しぶりに拝見いたしました」


 その曖昧な答えに、カイエルは、かえって、拭いきれない不安を覚えた。まだ何かが、この家の内側で、静かに動き始めているのかもしれない――そんな予感を抱きながら、カイエルは、夕暮れの街を、宿へと向かって歩き始めた。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定です。

ブックマーク・下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。