第五十三話 ヴァンドール邸
王都の高級住宅街の一角、ヴァンドール家の屋敷は、その威容を、以前と変わらぬ姿で保っていた。
石造りの重厚な門構え、手入れの行き届いた庭園、そして、代々受け継がれてきた家紋が刻まれた紋章旗。その全てが、この家が背負ってきた歴史と誇りを、静かに物語っていた。
カイエルは、屋敷の門をくぐりながら、これまでにない緊張を覚えていた。生まれ育った、慣れ親しんだはずの場所。それなのに、今の自分にとっては、まるで見知らぬ場所に足を踏み入れるような、そんな感覚があった。
庭園を横切りながら、幼い頃の記憶が、ふと蘇った。この庭で、剣の素振りを繰り返した日々。父から、紋の意味と責務について、繰り返し教え込まれた日々。その全てが、今の自分を形作る土台であったことに、改めて気づかされる。
「お帰りなさいませ、カイエル様」
出迎えた執事が、恭しく頭を下げた。
「父上は」
「書斎で、お待ちです」
その言葉に、カイエルは、小さく頷き、屋敷の奥へと足を進めた。
◇
書斎の扉を開けると、そこには、机に向かい、書類に目を通す父――ヴァンドール卿の姿があった。
「改めて、ご報告に参りました」
「うむ」
顔も上げずに、短く応じる父の姿は、記憶にあるものと、何一つ変わっていなかった。
「辺境での視察、ご苦労だった。報告書には、目を通した」
「そうですか」
「ゼルギアの脅威、そして、灰色の紋を持つという個体の存在。実に興味深い報告だった」
父は、ようやく顔を上げ、鋭い眼差しをカイエルに向けた。
「それで、お前自身の見解は、どうなのだ」
その問いに、カイエルは、一瞬、言葉に詰まった。これまで、父の前では、常に、家の教えに沿った答えを返してきた。だが今、その答えは、以前とは、大きく違うものになっていた。
「私は……この旅を通じて、多くのことを学びました。紋の色だけでは、測れないものがあるということを」
その言葉に、父の表情が、わずかに険しくなった。
「それは、どういう意味だ」
「灰色の紋を持つ、ユリオという青年がいます。紋のランクも色彩も、既存のどの分類にも当てはまらない。ですが、彼の在り方は、決して劣ったものではありませんでした。むしろ、私が知る多くの者よりも、真摯で、確かな強さを持っていました」
カイエルは、慎重に言葉を選びながら、これまでの旅で得た経験を、父に語り始めた。
「エルフの集落にも、立ち寄りました。彼らの中には、紋という制度そのものを、人を測る愚かな行為だと考える者たちがいます。最初は、その考えに抵抗を覚えました。ですが、旅を続けるうちに、彼らの言い分にも、一理あると思うようになりました」
「エルフの言葉に、耳を傾けたというのか」
父の声に、微かな驚きが滲んだ。
「はい。それに、ザイラス帝国との国境地帯で、鑑定紋制度が生み出す、目を覆いたくなるような理不尽も目にしました。ランクが低いというだけで、人間としての尊厳すら奪われている人々を」
その報告に、父は、しばらく沈黙した。
「……帝国の運用が、行き過ぎているというのは、私も知っている。だが、それは、あくまで帝国の問題だ。我が国の在り方とは、切り離して考えるべきではないか」
「切り離せるとは、思えません。制度の根幹にある思想が同じである以上、程度の差こそあれ、同じ危うさを、我が国も抱えているはずです」
その反論に、父は、初めて、明確な戸惑いの色を見せた。
◇
父は、長い沈黙の後、静かに、しかし重い声で応じた。
「お前は、変わったな」
「はい。自分でも、そう思います」
「その変化を、私が歓迎するとでも思っているのか」
その厳しい問いかけに、カイエルは、真っ直ぐに父を見据えた。
「歓迎されるとは、思っていません。ですが、私自身の実感として、目を逸らすことはできません」
「紋の絶対性を疑うということは、我が家が代々守ってきた在り方そのものを、否定することに繋がる。それを、理解しているのか」
「理解しています。それでも――」
カイエルは、一度、深く息を吸ってから、続けた。
「秩序を守るということと、目の前の一人一人に、誠実に向き合うこと。この二つは、必ずしも矛盾しないはずです。私は、その両立の道を、これから探っていきたいと考えています」
その答えに、父は、しばらく無言のまま、息子を見つめていた。
◇
「国境の町で、獣人の少年を保護したそうだな」
不意に、父が話題を変えた。
「はい。私財を投じて、労働契約を買い取りました」
「家の名を使って、な」
その指摘に、カイエルは、静かに頷いた。
「軽率だったとは、思っていません。あの状況で、他にできることは、ありませんでした」
「軽率とは言っていない。ただ、その行動が、家に何をもたらすか――それを、お前は、正しく理解しているのか、と聞いている」
父の声には、単なる叱責ではない、より深い問いかけが込められていた。
「理解しているつもりです。ですが、それでも、あの選択を、後悔してはいません」
その毅然とした答えに、父は、微かに、目を細めた。
「……その少年は、光の属性を持っていたそうだな」
「よくご存知で」
「王都で噂になっている。稀少な属性を持つ獣人の子供を、ヴァンドール家の跡取りが保護した、と」
その情報の広がりの速さに、カイエルは、内心で少なからず驚いた。
「その噂が、家にとって、有利に働くか、不利に働くか――お前は、考えたことがあるか」
「正直、そこまでは、考えが及んでいませんでした」
その率直な答えに、父は、小さく息を吐いた。
「まったく……お前らしいと言えば、お前らしいがな」
その言葉には、これまでにない、微かな柔らかさが滲んでいた。
◇
しばらくの沈黙の後、父は、静かに口を開いた。
「私は、これまで、紋の絶対性を疑ったことは、一度もない。それが、正しいことだと、心から信じてきた」
「はい」
「だが、お前が語る話を聞いていると……もしかしたら、私自身、狭い世界しか見ていなかったのかもしれない、という気もしてくる」
その意外な言葉に、カイエルは、思わず目を見開いた。
「父上……」
「勘違いするな。私は、まだ、お前の考えに、全面的に賛同したわけではない。だが――」
父は、窓の外に視線を向けながら、続けた。
「息子が、自分の頭で考え、自分の言葉で語る姿を見るのは、悪くないものだ」
その言葉には、これまでの厳格な父の姿からは、想像もつかない、確かな情が込められていた。
「機密記録の開示請求について、エルスフィア嬢が動いていると聞いた。お前も、それに協力しているのだろう」
「はい」
「……好きにするがいい。ただし、家に累が及ぶような真似だけは、慎重に避けよ」
その言葉は、明確な賛成ではなかった。それでも、頭ごなしの拒絶ではない――その事実だけで、カイエルにとっては、わずかな前進のように感じられた。
だが、父の表情には、まだ何か言い足りないような、割り切れなさが残っていた。
「父上、まだ何か」
「……いや。今日のところは、これでいい。だが、この話は、まだ終わったわけではないと、心得ておけ」
その一言には、これまでの穏やかな対話とは、また違う、重い響きが込められていた。
「ありがとうございます、父上」
「礼を言うのは、まだ早い」
素っ気なく、しかしどこか含みのある言葉を残し、父は、再び書類へと視線を落とした。カイエルは、それ以上何も言えず、静かに一礼して、書斎を後にした。
屋敷を出たカイエルは、夕暮れの空を見上げながら、静かに息を吐いた。
(父上は、一体、何を考えているのだろうか)
完全な拒絶ではなかった。だが、完全な理解を得られたとも、到底言い切れない。むしろ、その割り切れなさの奥に、何か別の懸念――家門の体面や、これから起こりうる波紋への警戒が、まだ色濃く残っているようにも感じられた。
門を出る間際、見送りに出てきた執事が、ふと、控えめに声をかけてきた。
「カイエル様、道中お気をつけて」
「ああ……父上の様子は、どうだった。私が来る前は」
その問いに、執事は、一瞬、言葉を選ぶような間を置いた。
「……差し出がましいことは、申し上げられません。ただ、今日ほど、旦那様が長く思案されているお姿は、久しぶりに拝見いたしました」
その曖昧な答えに、カイエルは、かえって、拭いきれない不安を覚えた。まだ何かが、この家の内側で、静かに動き始めているのかもしれない――そんな予感を抱きながら、カイエルは、夕暮れの街を、宿へと向かって歩き始めた。
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