第五十二話 開示請求
鑑定院本部――その威容を誇る建物の前に立ち、リィナは、大きく息を吸い込んだ。
(今日から、本当の戦いが始まる)
辺境での日々、旅の途中で得た全ての知識と経験を、この一歩に込めて、リィナは、正門をくぐった。
院内は、相変わらずの活気に満ちていた。忙しなく行き交う職員たち、書類の山、そして、あちこちから聞こえる、事務的なやり取りの声。五年間、この場所で働いてきたリィナにとって、それは、見慣れた光景のはずだった。だが今日は、その全てが、これまでとは違う緊張感を伴って、彼女の目に映っていた。
高い天井、整然と並ぶ石柱、正面の壁に掲げられた鑑定院の紋章――その荘厳な内装は、この組織が短い歴史の中で築き上げてきた権威を、雄弁に物語っていた。かつては、その権威に、疑いを持ったことなど一度もなかった。だが今、その同じ場所を歩きながら、リィナの胸には、これまでにない複雑な感情が渦巻いていた。
「エルスフィア調査官、お戻りでしたか」
顔見知りの同僚が、声をかけてきた。
「ええ、少し前に」
「長期の出張、お疲れ様でした。今日は、どのようなご用件で」
「開示請求の手続きを」
その一言に、同僚は、わずかに表情を曇らせた。
「もしかして、あの件ですか」
「ええ」
あの件、という曖昧な表現だけで、話が通じてしまうことに、リィナは、複雑な思いを抱いた。既に、彼女の動きは、院内でもある程度、知られているらしかった。
◇
開示請求窓口に足を運んだリィナは、担当職員に、丁寧に事情を説明した。
「辺境で確認された、色彩判定不能の個体に関する機密記録の開示を、正式に請求します」
担当職員は、リィナの提出した書類に、ざっと目を通した。
「エルスフィア様、大変申し訳ございませんが、機密指定された記録の開示には、上級職員以上の承認が必要です」
「承知しています。ですから、正式な手続きに則って、開示請求を提出しているのです」
その毅然とした対応に、担当職員は、たじろいだ様子を見せた。
「し、少々お待ちください。上の者に確認して参ります」
しばらくして、戻ってきた職員は、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「大変恐縮ですが、当該記録は、現時点で開示不可との判断です」
「理由は?」
「詳細な理由については、私の一存では、お答えいたしかねます」
その官僚的な対応に、リィナは、内心で苛立ちを覚えながらも、努めて冷静に対応した。
「では、その判断を下した方に、直接お目にかかりたいのですが」
「それは……」
職員は、明らかに困惑した様子を見せた。
「担当の上級職員は、現在、多忙を極めておりまして、直接の面会は難しいかと」
「では、書面での正式な回答を求めます。開示不可とする、具体的かつ正当な理由を」
その要求に、職員は、渋々ながらも頷いた。
「……承知いたしました。追って、書面にてご連絡いたします」
「いつ頃になりますか」
「通常であれば、一月ほどお時間を頂戴しております」
「一月……」
その回答に、リィナは、思わず眉をひそめた。事務手続きとしては、決して異例な期間ではない。だが、この件に限って言えば、意図的な引き延ばしとしか思えなかった。
「わかりました。では、その期日を、しっかりと守っていただくよう、重ねてお願いします」
念を押すようにそう告げると、リィナは、書類を丁寧に鞄にしまい、窓口を後にした。
◇
窓口を後にしたリィナは、廊下の隅で、静かに息を吐いた。
(想定内、ではあるけれど……)
簡単には開示されないだろうと、覚悟はしていた。それでも、実際にこうして、組織的な壁の厚さを目の当たりにすると、改めて、その重みを実感させられた。
「エルスフィア調査官」
背後から、聞き覚えのある声がした。振り返ると、そこには、鑑定院に長く勤める、初老の記録官の姿があった。
「フェルドさん」
その人物は、リィナの祖父の代からの旧知の間柄――以前、非公式に手紙で問い合わせをした、あの記録官だった。
「少し、話せるか」
その声には、周囲を気にするような、慎重な響きがあった。
◇
人気の少ない中庭の片隅で、フェルドは、静かに切り出した。
「例の件、動きがあったようだな」
「はい。ですが、正式な開示請求は、あっさりと退けられてしまいました」
「予想通りだな。あの記録は、一筋縄ではいかん」
フェルドの言葉には、経験に裏打ちされた、確かな重みがあった。
「フェルドさん、以前、非公式に手紙でお尋ねした件、覚えていらっしゃいますか」
「もちろんだ。三十年ほど前の、旧ヴェルニア領に関する記録について、だったな」
「はい。あれから、色々なことがわかりました。エルフの集落で得た情報も含めて」
リィナは、これまでの調査の全てを、フェルドに、かいつまんで説明した。老司祭の手記、エルフの伝承、そして、灰色の紋を持つ、あの若者の存在。
フェルドは、その全てを、真剣な面持ちで聞き入っていた。
「……なるほどな。お前の話を聞いて、確信した。あの一件は、単なる記録の紛失や怠慢では、説明がつかん」
「では、フェルドさんも、何かご存知なのですか」
その問いに、フェルドは、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「詳しくは、俺も知らん。だが、思い当たることはある。色彩判定不能――この手の異常記録を、一律で機密指定するという方針そのものは、鑑定院設立からそう間もない頃に定められたものだ。俺がまだ若手だった時分でな。当時、鑑定院上層部で、何やら不穏な動きがあったことだけは、覚えている」
「その方針が、五年前、私の村の少年の記録にも、そのまま適用された、ということですね」
「恐らくな。個別の記録がどうこうというより、その"種類"の記録そのものが、初めから特別扱いされる決まりになっていた、ということだ」
「不穏な動き、とは?」
「当時の一部の上級職員たちが、何かを隠蔽するために、記録の取り扱いを、密かに変更した――そんな噂を、耳にしたことがある。真偽のほどは、わからんがな」
その情報に、リィナの中で、これまで積み重ねてきた推測が、より確かな輪郭を持ち始めていた。
「フェルドさん、力を貸していただけませんか」
その率直な頼みに、フェルドは、しばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
「……危険が伴う話だ。それでも、構わないのなら」
「構いません」
迷いのない返答に、フェルドは、小さく笑った。
「お前の祖父も、こういう頑固なところがあった。血は争えんな」
その言葉に、リィナは、少しだけ、緊張が緩むのを感じた。
「祖父のことを、覚えていらっしゃるんですね」
「当然だ。あの人には、若い頃、色々と世話になった。今のお前を見ていると、あの人の若い頃を思い出すよ」
その懐かしそうな口調に、リィナは、これまで断片的にしか知らなかった祖父の人柄を、垣間見た気がした。
「正式なルートは、恐らく、この先も塞がれ続けるだろう。だが――」
フェルドは、声を潜めて続けた。
「非公式なルートなら、まだ、いくつか残っている」
「どのようなルートでしょうか」
「今は、詳しくは言えん。だが、近いうちに、また連絡する。心構えだけ、しておくといい」
その言葉には、確かな重みと、そして、これから先に待ち受ける危険を示唆する響きがあった。
「わかりました。お待ちしています」
深く頭を下げるリィナに、フェルドは、静かに頷いた。
正攻法が塞がれた今、この老記録官との繋がりこそが、真実へと近づくための、貴重な糸口になるはずだった。
鑑定院を後にしながら、リィナは、これから始まるであろう、水面下での戦いに、確かな緊張と、そして、微かな希望を抱いていた。
夕暮れの空を見上げながら、リィナは、ユリオたちの待つ宿への帰路についた。今日の首尾を、どう伝えるべきか。正式なルートは塞がれたという、決して喜ばしくない報告になる。それでも、フェルドという新たな協力者を得られたことは、確かな前進だった。
一人分でも、味方が増えたという事実が、これから続くであろう長い戦いの中で、大きな支えになる――そう信じながら、リィナは、しっかりとした足取りで、王都の夕暮れの街を歩いていった。
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