第四十五話 リィナの決意
国境の町を発ってから、数日が過ぎていた。王都までの道のりも、残りわずかとなりつつある。
旅も終盤に差し掛かり、一行の間には、これまでの旅路で培われた、確かな一体感が芽生え始めていた。ロトも、すっかり旅の空気に馴染み、私兵たちとも打ち解けた様子を見せている。それでも、王都が近づくにつれ、それぞれの胸には、新たな緊張感も膨らみつつあった。
街道の先には、これまで見てきたどの町よりも大きな都市の気配が、微かに感じられるようになっていた。石造りの建物、遠くに霞む城壁――王都が近いことを示す兆候が、一つ、また一つと増えていく。
夜営地で、リィナは、一人、これまでの旅を振り返っていた。辺境の村での出会い、エルフの集落で得た知識、そして、国境の町で目にした、目を背けたくなるような現実。それら全てが、彼女の中で、確かな一つの決意へと、結晶しつつあった。
(このまま、何も変えずにいるわけにはいかない)
鑑定院という組織そのものの在り方に、正面から向き合う時が来ている――その確信が、日に日に強くなっていた。
手元の羊皮紙に、彼女は、これまでの調査の全てを、丁寧に書き記していた。ユリオの紋の記録が機密指定された経緯。老司祭の手記に記された言い伝え。エルフの集落で聞いた、あの若者の悲劇。そして、国境の町で目にした、鑑定紋制度が生み出す理不尽な格差。
「これだけの証拠が揃えば、王都でも、無視はできないはずよ」
誰にともなく、そう呟く。だが、その声には、確かな覚悟と同時に、一抹の不安も滲んでいた。長年の伝統と権威を持つ組織に、正面から異を唱えることの重み。それは、彼女自身、痛いほどよくわかっていた。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。あの国境の町で見た光景、老婆の震える手、ロトの怯えた瞳――それら全てが、リィナの背中を押していた。
◇
「またメモしてるのか」
ユリオが、そっと近づいてきた。
「ええ。王都に着いたら、やるべきことが、山ほどあるから」
「具体的に、何をするつもりなんだ?」
その問いに、リィナは、しばらく考えてから、答えた。
「まず、機密指定されているあなたの記録に、正式な手続きでアクセスする。それが叶わなければ、上層部に直接、公開を求める」
「そんなこと、できるのか」
「簡単ではないでしょうね。でも、エルスフィア家の名を使えば、多少の無理は通せるはずよ」
その決意には、これまでの彼女からは想像もつかない、確かな強さが宿っていた。
「それだけじゃないわ」
「まだあるのか」
「国境の町で見た現実。あれは、対岸の火事では済まされない問題よ。鑑定紋制度そのものが、ああした理不尽を生み出す土壌になっているのだとしたら、制度の在り方自体を、見直す必要がある」
その言葉の重みに、ユリオは、思わず息を呑んだ。
「それって、鑑定院の在り方そのものを、変えるってことか」
「簡単なことじゃないのは、わかっているわ。相手は、何十年も続いてきた、巨大な組織だもの。でも、誰かが声を上げなければ、何も変わらない」
「具体的には、どこから手をつけるつもりなんだ」
ユリオの問いに、リィナは、羊皮紙に記した計画を、指でなぞりながら説明した。
「まずは、機密指定の記録の開示請求。次に、辺境と国境地帯における制度運用の実態調査。そして、可能であれば、制度そのものの見直しを、上層部に提言する」
「一つずつでも、相当な労力がかかりそうだな」
「ええ。だから、一朝一夕には終わらない、長い戦いになると思うわ。それでも、始めなければ、何も進まない」
その決意には、単なる理想論では終わらせない、確かな実行力への意志が滲んでいた。時には、上層部からの反発や、家同士の思惑に巻き込まれることもあるだろう。それでも、目を逸らし続けるよりは、はるかにましだと、リィナは確信していた。
◇
「一人で抱え込みすぎるなよ」
ユリオの言葉に、リィナは、少し驚いたように顔を上げた。
「そんなつもりは……」
「いや、絶対そうなってる。エルフの伝承にもあったろ、孤独に抱え込んだ者ほど、悲劇的な結末を迎えるって」
その指摘に、リィナは、言葉に詰まった。
「あんたも、俺と同じだよ。一人で全部背負おうとしてる」
「……そうかもしれないわね」
リィナは、素直にそれを認めた。
「私、王都では、いつも一人で結果を出すことを求められてきたの。誰かに頼るということが、あまり得意じゃないのかもしれない」
「別に、得意じゃなくてもいいだろ。俺だって、爺さんに助けられて、あんたに助けられて、今のガイさんたちにも助けられてる。一人でなんでもできる奴なんて、そういねえよ」
その率直な言葉に、リィナは、静かに微笑んだ。
「エルスフィア家の令嬢として育てられてきた私にとって、弱さを見せることは、ずっと許されないことだった気がするわ」
「弱さって、別に悪いもんじゃねえだろ」
「頭では、わかっているつもりなのだけれど……なかなか、そう簡単には割り切れないものね」
「まあ、時間かければいいさ。俺だって、灰色の紋を受け入れるまで、結構かかったし」
その言葉に、リィナは、小さく笑った。
「ありがとう。少し、気が楽になったわ」
「困った時は、いつでも言えよ。俺にできることなんて、大したことないかもしれないけど」
「大したことないなんて、思わないわ」
その真摯な言葉に、ユリオは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
◇
その日の夕食時、カイエルが、改めてリィナの計画について尋ねてきた。
「先ほどの話、聞かせてもらった。本気で、鑑定院に立ち向かうつもりか」
「はい。生半可な覚悟では、ないつもりです」
「……そうか」
カイエルは、しばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「私も、協力しよう」
その申し出に、リィナは、思わず目を見開いた。
「本当に、よろしいのですか。ヴァンドール家にも、影響が及ぶかもしれません」
「構わない。この旅で見てきたものを、なかったことにはできないと、既に決めている」
その言葉には、確かな覚悟が滲んでいた。
「私の家名と立場を使えば、正式なルートでは開けない扉も、いくつか開けるはずだ。それに――」
カイエルは、少し言葉を選ぶように続けた。
「お前が一人で戦う必要はない。私も、この件に関しては、当事者の一人だ」
その言葉に、リィナは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。これは、私自身の意志でもあるのだからな」
その毅然とした返答に、リィナは、改めて、この旅を通じて育まれた、確かな絆の重みを実感していた。
◇
翌朝、旅立ちの準備を整えながら、リィナは、改めて、自分の決意を胸に刻んでいた。
(一人じゃない。だから、大丈夫)
これまで、一人で背負い込むことに慣れきっていた彼女にとって、それは、小さくとも、確かな変化だった。仲間がいる。共に歩む者がいる。その事実だけで、これから立ち向かうべき困難への恐怖が、いくらか和らいでいくのを感じた。
荷物をまとめる手を止め、リィナは、ふと、少し離れた場所で戯れるユリオとロトの姿を見つめた。剣の型を教えるユリオと、それを真剣な眼差しで見つめるロト。その光景には、血の繋がりを超えた、確かな絆の萌芽が見て取れた。
(この旅で出会った人たちが、私の支えになっている)
その実感が、彼女の胸に、静かな温かさとして広がっていった。かつては、誰かに頼ることを弱さだと考えていた自分がいた。だが今は、支え合うことこそが、真の強さに繋がるのだと、素直に信じられるようになっていた。
「準備、できたか?」
カイエルの声に、リィナは我に返った。
「ええ、大丈夫です」
「なら、出発しよう。王都は、もうすぐそこだ」
その言葉に、一行は、それぞれの想いを胸に、馬に跨った。空はよく晴れ渡り、遠く先には、これから向かうべき街道が、まっすぐに延びていた。
王都までの道のりは、もう間もなく終わりを迎える。だが、そこから始まる新たな戦いは、これまでの旅とは、また違う種類の困難を伴うはずだった。それでも、リィナの足取りに、迷いはなかった。
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