第四十四話 カイエルの葛藤
国境の町を発って二日、一行の旅路には、新しい同行者――ロトの姿が加わっていた。
馬に乗ることに慣れないロトは、最初こそ緊張していたが、別の私兵の馬に同乗させてもらいながら、少しずつ、旅の空気に馴染み始めていた。
「怖くないか?」
ユリオが、時折声をかけると、ロトは、小さく首を振った。
「大丈夫、です。むしろ……こんな風に、誰かに気にかけてもらえるの、初めてで」
その素朴な言葉に、ユリオの胸が、温かく満たされた。
休憩の合間には、私兵たちも、それぞれにロトへ気を配っていた。ガイは、干し肉を分け与えながら、優しく声をかけた。
「無理して食べなくてもいいからな。少しずつでいい」
「ありがとう、ございます」
風が吹くたび、ロトの頭の上の、獣の耳が、ぴくりと小さく動いた。国境の町では、その耳も、尻尾も、獣人の証として、蔑みの目を向けられる理由でしか、なかった。だが、この一行には、それを奇異の目で見る者は、一人もいなかった。
「ロトの耳って、よく動くんだな。器用なもんだ」
「あ……す、すみません」
「なんで謝るんだよ。褒めてるんだぜ」
ユリオの、その屈託のない言葉に、ロトは、目を丸くした。耳のことを、からかいでも、蔑みでもなく、ただ面白がって話しかけてくる人間――そんな相手に出会ったのは、物心ついてから、初めてのことだった。
まだぎこちない様子ながらも、ロトの表情には、少しずつ、年相応の柔らかさが戻り始めていた。それを見つめるユリオの胸には、確かな手応えが芽生えていた。
(こうやって、少しずつでも、変わっていけるんだよな)
自分自身の過去と、目の前のロトの姿が、静かに重なって見えた。
◇
一方、カイエルは、道中、これまで以上に、物思いに沈むことが多くなっていた。
「カイエル様、また考え事ですか」
ガイが、心配そうに声をかけた。
「……ああ。少しな」
カイエルは、馬を進めながら、静かに己の胸の内を吐露した。
「私は、これまで、紋の絶対性こそが、この世界の秩序を支えるものだと信じてきた。だが、あの町で見た光景は、その信念に、大きな疑問を投げかけている」
「疑問、というと?」
「もし、紋の絶対性が、あれほどまでの理不尽を生み出す土壌になるのだとしたら――私が守るべき秩序とは、一体何なのか。その根本が、揺らいでいる」
その告白には、これまでの彼らしからぬ、深い葛藤が滲んでいた。
「カイエル様のお気持ち、わかる気がします。でも、変わることは、悪いことじゃないと思いますよ」
「変わる、か」
カイエルは、遠くを見つめながら、静かに呟いた。
「変わるということは、これまでの自分を、否定することにも繋がる。ヴァンドール家の当主として育てられてきた自分自身のあり方を、根底から見直すということだ」
ふと、王都を発つ前に受け取った、父からの書状のことを思い出した。「家の名を汚さぬよう、行動には慎重を期すように」――あの一文が、今になって、重くのしかかってくる。
「父上が今の私を見たら、何と言うだろうな」
「厳しい方、なんですか」
「厳しい、というより……揺るぎない人だ。生まれた時から今日まで、一度たりとも、紋の絶対性を疑ったことがないような人だ」
カイエルの声には、尊敬と、そして、微かな畏怖のようなものが入り混じっていた。
「そんな父上に、今の私の考えを話したら、きっと失望されるだろうな」
「それでも、ご自分の考えを、曲げるおつもりはないんですよね」
ガイの問いに、カイエルは、しばらく沈黙した後、小さく頷いた。
「……ああ。曲げるつもりはない。たとえ、父上を失望させることになったとしても」
その答えには、迷いながらも、確かな覚悟が滲んでいた。
その重みは、単なる個人の心境の変化以上の、家門の在り方そのものに関わる問題だった。
◇
その日の夜営地で、リィナが、そっとカイエルに歩み寄った。
「大丈夫ですか」
「……お前にまで、心配される謂れはない、と言いたいところだが」
カイエルは、自嘲気味に、小さく笑った。
「正直に言えば、大丈夫ではないのかもしれん」
その素直な告白に、リィナは、静かに耳を傾けた。
「私は、これまで、紋こそが人の価値を決めると信じてきた。だが、この旅を通じて、その考えが、いかに一面的なものだったかを、思い知らされている」
「私も、同じような経験をしたわ」
リィナが、静かに頷いた。
「王都で生まれ育った私にとって、紋のランクは、当たり前の物差しだった。でも、あの辺境の村で、ユリオという規格外の存在に出会って、その物差しが、絶対的なものではないと気づかされた」
「お前は、私よりも、早くその境地に至っていたわけか」
「私も、まだ答えを出せているわけじゃないわ。ただ、少しずつ、自分なりの価値観を、作り直している最中よ」
その言葉に、カイエルは、深く頷いた。
「私も、同じ道を歩む必要があるのだろうな」
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「あなたは、これから、どうするつもりですか。ヴァンドール家の跡取りとして、いずれ紋の制度そのものに関わる立場になるはずです」
その問いに、カイエルは、しばらく黙り込んだ。
「正直、まだわからん。だが――」
彼は、ゆっくりと言葉を選びながら、続けた。
「もし私が、いずれ家を継ぐことになるのなら、その時は、今の在り方をそのまま踏襲するのではなく、少しずつでも、より公正な形に変えていきたいと思っている」
「それは、簡単なことではないと思うわ」
「わかっている。だが、何もせずにいることの方が、私にとっては、より耐え難い」
その決意には、これまでの頑なさとは違う、柔軟でありながらも確かな芯の強さが感じられた。
「応援するわ、その考え」
リィナの言葉に、カイエルは、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……お前にそう言われると、妙な気分だな」
「悪い意味では、ないでしょう?」
「ああ。悪い意味ではない」
二人の間に流れる空気は、これまでの緊張とは違う、静かな信頼感に満ちていた。婚約という形式的な繋がりを超えて、対等な同志としての関係性が、少しずつ、築かれ始めているようだった。
◇
少し離れた場所で、ユリオは、ロトに、剣の握り方を教えていた。
「こうやって、力を入れすぎずに握るんだ」
「こう、ですか?」
「そうそう、筋がいいな」
微笑ましいその光景を、カイエルは、遠目に眺めていた。
(あの少年は、既に、私が長年かけて至れなかった境地に、自然とたどり着いているのかもしれん)
紋の色にも、ランクにも囚われず、ただ目の前の人を助けたいという想いだけで動く、ユリオの在り方。それは、カイエルにとって、これまでの人生で培ってきた価値観とは、まったく異なる、しかし確かな説得力を持つものだった。
「カイエル様」
ガイが、静かに声をかけた。
「王都に着いたら、どうされるおつもりですか」
「……わからん。だが、少なくとも、これまでの私のままではいられないだろう」
その答えには、迷いと同時に、確かな決意の萌芽が感じられた。
「一つだけ、確かなことがある」
「なんですか」
「もう、以前の私には、戻れないということだ。この旅で見てきたもの、感じてきたことを、なかったことにはできない」
その言葉には、後戻りのできない、確かな覚悟が滲んでいた。
「カイエル様がそう仰るなら、俺たちも、どこまでもついていきますよ」
ガイの力強い言葉に、カイエルは、小さく頷いた。
夜空を見上げながら、カイエルは、これから向き合うことになる、自分自身の変化について、静かに思いを巡らせ続けていた。ヴァンドール家の跡取りとして、これまで疑うことのなかった秩序。その根幹に生じた亀裂は、もはや、元通りに塞がることはないだろう。それでも、その亀裂の先に、新しい何かが見えてくるのだと、カイエルは、確かに感じ始めていた。
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