第四十三話 囚われた獣人
翌朝、出発の準備を進める前に、ユリオは、一人で町の裏通りを歩いていた。昨夜の宿の主人の話が、頭から離れず、もう少し、この町の現実を、自分の目で見ておきたいという気持ちに駆られていた。
表通りの賑わいとは対照的に、裏通りは、どこか陰鬱な静けさに満ちていた。積み上げられた木箱、荷を運ぶ人々の重い足音、そして時折聞こえる、苛立たしげな怒声。それらが、この町の裏側にある現実を、雄弁に物語っていた。
裏通りに差し掛かったところで、ユリオは、一つの光景に足を止めた。
路地の奥、荷物運びをさせられているらしい、小柄な人影があった。獣の耳と尾を持つ、まだ幼さの残る少年だった。重い荷物を背負わされ、よろめきながら歩くその姿に、監督役らしき男が、苛立たしげに声を荒げていた。
「のろのろすんな! さっさと運べ!」
「……はい」
少年は、消え入りそうな声で答えると、再び重い荷物を担ぎ直した。その痩せた体には、明らかに不釣り合いな重さだった。
ユリオは、思わず駆け寄りそうになったが、辛うじて足を止めた。ここで無闇に事を荒立てれば、かえって少年の立場を悪くしかねない。そう自分に言い聞かせながらも、拳を握りしめずにはいられなかった。
しばらく様子を窺っていると、監督役の男が、休憩を取るために、その場を離れた。ユリオは、その隙を見計らって、少年に近づいた。
「大丈夫か?」
「……え?」
突然話しかけられた少年は、怯えたように身を竦めた。
「怖がらなくていい。ちょっと、様子が気になっただけだ」
ユリオは、努めて優しい声で、そう告げた。少年は、警戒しながらも、少しずつ、緊張を解いていった。
「お前、名前は?」
「……ロト、です」
「ロトか。俺はユリオ。ちょっと聞きたいんだけど、いつも、あんな重い荷物を運ばされてるのか?」
「……はい。毎日、朝から晩まで」
ロトの声には、諦めにも似た響きがあった。
「家族は?」
「わかりません。物心ついた時には、もう、ここで働かされていて……」
その答えに、ユリオの胸が、強く締め付けられた。
「一日に、どれくらい働かされるんだ」
「日が昇る前から、日が沈んだ後まで……休みは、ほとんどありません」
「飯は、ちゃんと食えてるのか」
「一日一回、少しだけ。足りない時も、多いです」
淡々と語られるその内容の一つ一つが、ユリオの胸に、重く突き刺さった。同じように蔑まれてきた自分の過去と比べても、あまりにも過酷な現実が、目の前にあった。
「なんで、こんな扱いを受けてるんだ」
「僕たちは、ランクが低いから……仕方ないんです」
「その、ランクってのは、ちゃんと鑑定してもらった結果なのか?」
その問いに、ロトは、一瞬、戸惑うように視線を彷徨わせた。
「……いえ。ちゃんと鑑定してもらったことは、一度も。ただ、みんな、獣人だから、身寄りがないから、って、それだけで……」
その答えに、ユリオは、思わず絶句した。ランクが低いと断定されていながら、実際には、一度も正式に測られたことすらない――それは、鑑定という制度の建前すら、この場所では踏みにじられているということを意味していた。
「そんなの、ただの決めつけじゃねえか」
その言葉を、あまりにも当たり前のこととして口にする少年の様子に、ユリオは、言葉を失った。理不尽な現実を、疑うことすら許されないまま、受け入れさせられている――その事実が、何よりも痛ましく感じられた。
「仕方なくなんかねえよ」
思わず、強い口調でそう言ってしまった。ロトが、驚いたように目を見開く。
「悪い、大きな声出して。でも……お前が悪いわけじゃない。それだけは、忘れんな」
その言葉に、ロトは、戸惑いながらも、小さく頷いた。誰かにそう言われたのは、恐らく、初めてのことだったのだろう。
◇
監督役の男が戻ってくる気配に気づき、ユリオは、慌てて少年から離れた。だが、その光景は、深く彼の胸に刻み込まれていた。
宿に戻ったユリオは、この出来事を、リィナとカイエルに報告した。
「そんな幼い子供まで、労働に駆り出されているの……」
リィナが、痛ましげに眉を寄せた。
「帝国内では、珍しい話ではない。だが、実際に目の当たりにすると、これほどまでとはな」
カイエルの声にも、隠しきれない衝撃が滲んでいた。
「何か、俺たちにできることはないのかよ」
ユリオが、思わず声を荒げた。
「気持ちはわかる。だが、あの少年一人を助けたところで、根本的な問題は解決しない。それに、この町の商取引に、我々が正式に介入する権限もない」
カイエルの冷静な指摘に、ユリオは、唇を噛んだ。頭ではわかっていても、目の前の理不尽を、そのまま見過ごすことに、強い抵抗を感じずにはいられなかった。
「でも、せめて、あの子一人だけでも――」
「わかった。私が、話をつけてみよう」
カイエルの意外な申し出に、ユリオは、思わず顔を上げた。
「あんたが?」
「正式な権限はなくとも、個人としてなら、動ける範囲がある。私の家名を使えば、多少の融通は利くだろう」
その言葉には、これまでのカイエルからは想像もつかない、確かな決意が滲んでいた。
◇
その日の午後、カイエルは、私財を投じて、ロトの労働契約を買い取る交渉を行った。詳しい経緯は、ユリオには明かされなかったが、結果として、ロトは、その日のうちに、自由の身となった。
「本当に、いいんですか……」
戸惑うロトに、カイエルは、素っ気なく告げた。
「これから先は、自分の意志で、生き方を選べ。それが、お前にとって、最も大事なことだ」
その言葉に、ロトは、目に涙を浮かべながら、深々と頭を下げた。
「行く当てがないなら、しばらく、俺たちと一緒に来るか?」
ユリオが、そう申し出ると、ロトは、驚いたように顔を上げた。
「いい、んですか」
「もちろん。王都に着いたら、ちゃんと暮らせるように、俺も手を貸すからさ」
その申し出に、ロトは、堪えきれない様子で、静かに涙を流した。
「……ありがとう、ございます」
その光景を見つめながら、ユリオは、静かに決意を新たにしていた。この一件だけで、世界の理不尽が全て解決するわけではない。それでも、目の前の一人を救えたという事実は、確かな意味を持つはずだった。
◇
その夜、宿の一室で、カイエルは、一人、静かに物思いに耽っていた。
自らの財を投じて、一人の獣人の少年を自由にした――それは、これまでの彼の価値観からすれば、考えられない行動だった。紋のランクによって人の価値が決まるという信念に照らせば、ロトのような存在は、然るべき扱いを受けているに過ぎない、という結論にすら至りかねなかった。
(それでも、私は、動いた)
なぜそうしたのか、カイエル自身、はっきりとした答えを持てずにいた。ただ、あの少年の怯えた目を見た瞬間、頭で考えるよりも先に、体が動いていた。
「カイエル様」
部屋の外から、ガイの声がした。
「入れ」
「ロト、落ち着いて休んでいるようです」
「そうか」
短く答えるカイエルに、ガイは、少し躊躇いながらも、続けた。
「今日のこと、驚きました。カイエル様が、あんな風に動かれるとは」
「私自身も、驚いている」
その素直な返答に、ガイは、小さく笑った。
「悪い変化だとは思いません。むしろ、良い方向に向かっているように、俺には見えます」
「良い方向、か」
カイエルは、窓の外の夜空を見上げながら、静かに呟いた。
「秩序を守ることと、目の前の一人を救うこと。この二つが、必ずしも矛盾しないのだと、今日、初めて実感できた気がする」
その言葉には、これまでの彼からは想像もつかない、確かな成長の跡が滲んでいた。
王都までの道のりは、まだ続く。だが、この国境の町で経験した出来事は、一行それぞれの中に、決して消えることのない、大切な変化の種を、確かに植え付けていた。
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