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第三十七話 別れの朝

集落での滞在も、そろそろ潮時だった。


「そろそろ、出発しよう」


 カイエルが、そう切り出したのは、滞在四日目の朝だった。ユリオも、リィナも、名残惜しさを感じながらも、その言葉に頷いた。


「王都への到着が、これ以上遅れるわけにはいかない。それに、ここでの目的も、一通り果たせたはずだ」


「そうだな。名前も知れたし、色々教えてもらえたし」


 ユリオは、この数日で得た多くのものを、改めて胸の中で反芻していた。刻の狭間を歩く者という名前。あの若者が辿った悲劇。そして、この力とどう向き合うべきかという、確かな指針。


 私兵たちも、旅支度を整えながら、それぞれに感想を漏らしていた。


「思ったより、居心地の良い滞在でしたね」


 ガイが、荷物をまとめながら、しみじみと呟いた。


「森の中の暮らしってのも、悪くないもんだな」


「お前、随分と馴染んでいたようだが」


 カイエルが、呆れたように口を挟む。


「いやあ、エルフの飯、美味かったですからね。あれは癖になりますよ」


 軽口を交わしながらも、私兵たちの表情には、名残惜しさと同時に、次なる目的地への確かな意気込みが滲んでいた。


 出発の準備を整えた一行に、フィオレルが、集落に伝わる古い巻物の写しを託しに来た。


「これを、持っていくがいい。お前がこれから歩む道の、何かの助けになるはずだ」


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げるユリオに、フィオレルは、静かに頷いた。


「お前が、あの若者と同じ轍を踏まぬことを、我らも願っている」


 シルヴィエルも、集落の入り口まで見送りに来ていた。


「短い滞在だったが、実りの多いものだったと願う」


「はい。本当に、色々ありがとうございました」


「礼はいらぬ。ただ、一つだけ、覚えておくがいい」


 シルヴィエルは、静かにユリオを見据えた。


「力とは、それ自体に善悪はない。それをどう使うか、誰のために使うか――それを決めるのは、常に、力を持つ者自身の心だ」


 その言葉を、ユリオは、しっかりと胸に刻み込んだ。


「わかりました。絶対に、忘れません」


「うむ。それでいい」


 シルヴィエルは、続けて、リィナにも視線を向けた。


「お前は、物事を深く考える質のようだな。それは美徳だが、時に、お前自身を苦しめることもあるだろう」


「……肝に銘じます」


「一人で全てを背負い込む必要はない。お前にも、頼れる者がいるはずだ」


 その言葉に、リィナは、ふと視線をユリオへと向けた。ユリオは、それに気づかず、荷物の最終確認に夢中になっていた。その様子に、リィナは小さく苦笑した。


 シルヴィエルは、満足げに頷くと、視線をカイエルへと移した。


「お前も、道中気をつけるがいい。何やら、良くないものに触れているように見える」


 その指摘に、カイエルは、思わず息を呑んだ。


「……何のことだ」


「気づいていないのか。まあ、無理もない。人間の目には、映りにくいものだろうからな」


「詳しく、教えてもらえないだろうか」


 カイエルは、珍しく、縋るような口調で問いかけた。ここ数日の不調の原因が、ようやく手がかりを得られるかもしれないという期待が、その声ににじんでいた。


「はっきりとしたことは、私にも言えぬ。ただ、お前の周りに纏わりつく、微かな澱みのようなものを感じる。それが何なのか、今の段階では、断定できない」


「澱み、か」


「気に病みすぎるな、とは言わぬ。だが、いたずらに恐れるのも、益はない。もし何か異変を感じたら、決して一人で抱え込まず、その者たちに相談するがいい」


 シルヴィエルは、そう言って、ユリオとリィナの方へと視線を向けた。


「……肝に銘じておく」


 カイエルは、素直にそう答えた。かつての彼であれば、このような曖昧な忠告を、一笑に付していたかもしれない。だが、この数日で味わった不調と、エルフたちの知見への信頼が、彼の態度を、確かに変えつつあった。


 シルヴィエルの言葉は、それ以上の説明を拒むように、静かに終わった。カイエルは、釈然としない表情を浮かべたまま、それ以上問い返すことができなかった。


「行ってきます」


「うむ。道中、気をつけてな」


 集落を後にする一行の足取りには、来た時とはまた違う、確かな手応えが感じられた。名もなかった力に、名前が与えられた。それは、小さくとも、確かな一歩だった。


 集落の外れまで来たところで、ユリオは、最初にこの森で出会った、あのエルフの姿を見つけた。木陰から、静かにこちらを見つめている。


「あんた……また会えたな」


「案内役としての務めは、これで終わりだ」


 素っ気ない口調だったが、その目には、以前とは違う色が浮かんでいるように、ユリオには感じられた。


「色々、ありがとな。あんたが最初に色々教えてくれたから、シルヴィエルさんたちにも会えたんだ」


「礼はいらぬ。ただ――」


 エルフは、一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。


「お前が、正しい道を歩めることを、願っている」


 その短い言葉に、ユリオは、深く頭を下げた。


「行ってきます」


 顔を上げた時には、既にエルフの姿は、木々の合間に消えていた。それでも、その言葉の余韻だけは、確かにユリオの胸に残り続けていた。


   ◇


 森を抜け、再び街道へと戻る道すがら、ユリオは、託された巻物の写しを、大切に懐にしまい込んだ。


 しばらく進んだところで、一行は水を飲ませるため、馬を休ませることになった。カイエルが少し離れた場所で私兵たちと馬の様子を確認している間、ユリオとリィナは、木陰で並んで腰を下ろした。


「なあ、リィナ。結局、カイエルの体調不良の原因、シルヴィエルさんは知ってたのかな」


「わからないわ。でも、意味深な言い方だったわね。『良くないものに触れている』って」


「本人も、心当たりないみたいだったしな」


 少し離れた場所で馬の世話をするカイエルの背中を、二人は、揃って見つめた。その所作には、これまでと変わらぬ毅然とした様子が保たれていたが、時折、微かに揺らぐようにも見えた。


「あの人のことも、王都に着いたら、ちゃんと調べる必要があるかもしれないわね」


「ああ。厄介事、また一つ増えたな」


 軽口めかして言うユリオだったが、その声には、確かな懸念が滲んでいた。


 振り返ると、木々の合間から、集落の輪郭が、次第に霞んでいくのが見えた。短い滞在ではあったが、この場所で得たものは、これからの旅路において、決して小さくない意味を持つはずだった。


「なあ、リィナ。俺、なんかこの数日で、色んなことが一気に変わった気がするよ」


「そうね。私も、同じように感じているわ」


「刻の狭間を歩く者、か」


 その響きを、ユリオは、口の中で何度も転がすように呟いた。


「名前がついただけなのに、なんか、自分の中で、ちゃんと輪郭を持ったっていうか。今までは、ただの得体の知れない不安だったのが、少しだけ、向き合えるものになった気がする」


「それは、とても大事な変化だと思うわ」


 リィナの声には、確かな共感が滲んでいた。


「王都に着いたら、まだまだ知らなきゃいけないことが、山ほどあるんだろうな」


「ええ。でも、一人じゃないわ」


 その言葉に、ユリオは、力強く頷いた。


 休憩を終えた一行は、馬に跨り直し、再び速度を上げていった。街道の景色が、少しずつ、見慣れたものへと戻っていく。ユリオはガイの馬に、リィナはカイエルの馬に、それぞれ同乗し直す。


 馬上で少し先を行くカイエルとリィナの背中を見つめながら、ユリオは、彼の抱える謎についても、改めて考えを巡らせた。良くないものに触れている――シルヴィエルの言葉の真意は、まだわからない。だが、王都に着けば、その手がかりも、きっと見つかるはずだった。


 この先、王都で待ち受けているであろう、さらなる真実と向き合うための、確かな足がかりを得た実感と共に、一行の旅は、再び前へと進み始めた。

お読みいただき、ありがとうございます。

「巡り紋」は毎日更新予定です。

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